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第三十話「進展」

 じわりと汗が滲む。青々と茂っていた通学路沿いの木々が僅かにオレンジ色に色づき始めているもののまだ夏の名残を感じさせる暑さは健在だ。それでもインナーに隠された左腕に汗が沁みることは少なくなっていた。その事実は志真にとって喜ばしい――喜ばしいはずなのだが、未だに傷が減らないことに一人頭を悩ませていた。

 自傷癖を直そうと試みたことはこれまでもあるが、そのどれもが上手くいかずに終わっている。というのも志真の中で未だに父親からの言葉を消化しきれずにいるからだ。自身の存在価値を考え、新たな価値を自身に見出せぬままただ時間だけが過ぎていく。努力をした。自分ではしていたつもりだったが、それは認められる努力ではなかったという事実に口では大したことないと言って見せても心の何処かで繰り返されるあの日の言葉が棘となり志真の精神を蝕んでいる。

 それこそ優海と再会したばかりの頃は自身の価値を探すことなどせずにただひたすらに逃げていた。認められない努力ならばしなくても問題ないと、他人の為にと行動したって何も手元には残らないのだから価値など証明しなくとも最初から無価値であれば、期待なんてしなければ落胆することもないのだと。

 逃げて、逃げて、逃げて、ようやく全てを諦めてただ日々を生きるだけの存在になれたのだと思っていたところに、優海が現れた。


 一緒に遊んでいたあの頃とは雰囲気も姿も大きく変わった優海を見て、どうしようもない恥ずかしさと自身への嫌悪感で吐き気がした。にもかかわらず、優海はそんな志真を見ても昔と変わらない瞳で変わらない態度で志真の名前を呼んだ。

 過去の自分と決別したはずだったのに、優海に名前を呼ばれるたびに彼だけには見捨てられたくないと、あの頃の行動が無意味だったなどと言われたくないと思ってしまった。願ってしまった。

 正義感に溢れた幼き日の自分の行動を知っている人間が目の前に現れてしまえば否が応でも父親に否定された自分自身が顔を出す。無意味な努力などしなければいいと耳元でささやく声に、幼い自分が声を上げて反抗するのだ。諦めるなと、せめて優海の前だけでもあの頃の自分であれと。


 無意味な努力を再開してしまった。それが幼い自分の心を守る為の唯一の方法だったからだ。すっかり好青年へと成長した優海を見ていれば自身との対比でどうしようもなく苦しくなる。優海のように人当たりも良くなければ突出した能力があるわけでも無い自分が苦しさから抜け出すためにはただ、誰かの為に行動するしかなかった。個人を比較してしまえばたちまち潰されてしまうだろうから。

 それくらいに優海と志真の差は大きく開いていた。恐らくは元から持つ素質の違いなのだろう。

誰もが優海に付き従う人間だと志真のことを思うだろうが、それはそれでよかった。また勘違いせずに済むと自虐的になりながらも、優海の志真を見つめる瞳はずっと変わらなかった。


「何で……俺なんだ……」


 珍しく一人の帰り道、誰もいない並木道に志真の言葉が広がる。だが、その言葉も目の前から歩いてきた人物の足音にかき消されてしまった。

 聞き馴染みのある足音と歩き方に顔を上げれば、学校から帰ってきたばかりのはずの兄がこちらを見て何かを訴えかけている。「なに。」と小さく問いかければ志真より僅かに明るい紅い瞳が細められ眉間に皺が寄る。


「今日は早く帰る予定だっただろ」


 僅かに低く怒気を含んだ言い方にどうにも心がざわつく。だから何だと言ってしまえば簡単なのだが、恐らくこの兄は早く帰る予定の志真がのんびり歩いて帰ってきた結果自身が想定していた時間よりも遅かったから苛立っているのだ。どこまで行っても自己中心的でいつものことながらそりが合わない。


「別に。部活なかっただけだし何時に帰るかなんて言ってないだろ」

「お前が早く帰ってくる予定で母さんが色々用意してるんだ、迷惑かけるな」


 一方的に吐き捨てるとそのまま踵を返して家の方向へと戻っていく。どうやら母親に探してこいとでも言われたのだろう。真面目に探しになど来なくとも――俺のことなんてどうでもいいくせに――とは心の声だったのか、口に出ていたのか分からないほどに強く浮かぶ。

 父親には反抗することが多い兄だが、母親の言うことはよく聞く――というよりは反抗したところで実りが無いから適当にいうことを聞いておけばいいとは兄自身が言っていた言葉だ。

 兄に出会わなければ近くの公園にでも寄ってもう少し暗くなってから帰ろうかと思っていたのだが、この場所に居ると知られてしまっては下手に時間をつぶすことも出来ない。仕方なく真っすぐ家へと向かうが、変わらず足取りは重い。


 優海や斗馬と一緒に帰宅する場合は向こうの都合もある為真っすぐ家に帰ることが多いのだが、一人で帰るとなるとどうにも真っすぐ帰ろうという気持ちになれないのだ。

 そもそも自宅が心休まる場所ではないというのが大きいのだが、最近では受験が迫った兄は常に苛立っており今日のような悪態で済めば良いが、下手な態度をとれば似なくてもいい部分が父親に似てただひたすらに否定をぶつけてくるのだから帰る気もなくなるというもの。

 ガリガリと何かを引っ搔く音に左腕を見てみれば無意識のうちに傷口を抉っていたのか右手の爪に僅かに赤い色が付いていた。傷が中々治らない原因が自身の精神的な物以外にも無意識のうちにこのようにむしろ傷を広げてしまうのだから志真にはどうにもならない。

 インナーを直し僅かに熱を持った左腕を握り締める。じくじくと脈打つ血管に合わせて痛みが広がる。平常心を保つためにこうやって痛みを利用するのもすっかり慣れてしまった。少しだけすっきりとした思考を感じながら玄関をくぐりすぐに自室へと向かう。途中、食事の準備をしていたらしい母親から遅いと言葉が飛んできたような気がするがあぁ、とかうん、とかを返して通り過ぎる。

 反応してもしなくとも食事が完成すれば自室まで呼びに来られるのだからまだ完成していないなら話を聞く必要もないだろう。


 自室に入ってすぐに鍵をかけ、机の引き出しへと手を伸ばす。カッターナイフを、と乱雑に放り込まれた文具類を漁ろうとしたところで脳裏に優海の顔が浮かび手が止まる。

 優海に自傷癖のことを話した記憶はないが、気が付いているそぶりは時々感じていた。手を取るときは必ず志真の右手を取ろうとするし、左腕をうっかり握ってしまった時などはすぐに力を緩めたのちに心配そうな顔で覗き込んでくるから分かりやすいと言えば分かりやすいだろう。

 力で言えば優海の方があるはずなのにやたらと重い荷物を代わりに持ちたがるのも、志真を気遣ってなのだろうかと思考が広がる。

 

 怪我をしていたとして自業自得なのだから変わってもらう必要はないのだが、優海はどうにも世話を焼きたがる傾向があるように思う。であればこのまま怪我が治らなければずっと優海は志真に気を使い続けるだろう。それは志真としても本意ではない。

 引き出しを閉め、爪の赤を眺める。今日のところはこれを代わりということにするか、とベッドへ上半身を倒れこませ体を伸ばす。

 自分の力では止めることは難しいが、優海に迷惑や気を遣わせたくはないと思えば少しだけ思考に制限が掛かる。今の自分の中で優海という存在がかなり大きくなっているのだろう。これが良いことなのか悪いことなのか、まだ志真の中では判断が付かないでいるが願わくば良いことでありますようにと天井を眺めながら静かに祈る。

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