第二十九話「体力」
「終わったのか?」
教室を後にして一人で校門を出ようとしたところで声がかかる。門の前で気だるげにスマートフォンを操作しながら待っていた廉也が、特に顔を上げるわけでもなく一瞬視線だけを優海に向けそのまま並んで歩き始める。
待っていてほしいと頼んでいた記憶は無いが、どうやら何かしら思うところがあって待っていたらしい。と言ってもそれをわざわざ口に出すような関係性でもなく、ただ並んで帰るだけだ。他愛のない話をしたり反対にしばらく何も話さなかったりしても不思議と気まずくはならない間柄というのは中々得難いものである。
そんなことを考えながら帰り道を半分ほど進んだところで思い出したように廉也が口を開いた。
「優海さぁ、もうちょっと体力付けた方がいいんじゃねーの?」
そう言った廉也が思い出していたのは先日の事件のことだ。優海を呼びに走ってそのまま志真の元へと案内する際にたまたま別ルートから斗馬を呼びに来ていた後輩である柊人と、呼ばれた本人である斗馬の4人で走ることになったのだが、到着時に優海が咳き込んでいるのを当然ながら廉也も確認していた。廉也自身も多少息は上がっていたものの優海と比べれば呼吸は落ち着いていた方だろう。
優海の体が弱かった事実を知っている立場からすれば咳き込んでしまうのは仕方がないともいえるが、今の状態では志真に何かあるたびに体を酷使して前の状態に戻るのではないかという心配もある。
「それは、あの日僕が走って咳き込んだからだよね?言っておくけど僕はそれなりの体力くらいには回復してるし運動神経だって別に悪くないんだよ。先導してたのがバスケ部の二人で付いていくためにちょっと自分のペースよりも速くなっただけなんだから……まぁ、もっと鍛えなきゃとは思ってるけど」
まるで体力が壊滅的かのような言われ方をするのは不本意であるが、実際体を鍛えて体力や筋力を増やそうという気持ち自体は優海にも存在している。さらに言えば先日の一件でより気持ちが強くなったとも感じている。
比較対象にバスケ部期待の新人である柊人や、バスケ部の部長でありエースの斗馬――それも学校全体どころか全国的に見てもかなり高い運動神経を持っていると思われる――を持ち出してくる方が間違っているのだが、分かっていても近くに居れば自然と比較してしまうものだ。
志真を守れるようになりたいと思いながらも純粋な身体能力で負けているのでは所詮は絵空事だ。長い年月のブランクというよりは病気によるハンディキャップのようなものではあるが、それでも実際に今この瞬間に志真を守れるような身体能力をしていないというのは優海にとっても耐え難い事実だ。
以前出かけた際も背が高い自分の方が志真を守るのだと息巻いていたものの純粋な筋力差で簡単に志真に守られてしまっていた。それ自体が悪いわけではなく、むしろ志真に守られること自体は思われていると感じられるため嬉しくはあるのだが、複雑な心が存在するのだ。
「せめてもう少し筋肉とか……付けばなぁ」
体質というのは厄介なもので今まで運動習慣が無かった――というか出来なかった――人間がいざ体を鍛え始めても中々思うように結果は出ない。地道に長い年月を掛けて鍛えていくしかないというのは主治医にも言われたことだ。何度か手を握っては開き、力を入れてみるが今のところ志真のような目に見える筋肉が付いている感覚はない。
それこそせめて体格に見合った筋力が付けば嬉しいのだが、背ばかりが伸びてしまい斗馬のように明らかにガタイが良いと言えるような見た目ではないのが現状だ。あそこまで鍛えられなくとも一般的にいえば高い身長に合わせた筋力は目指すところである。
「まぁでも優海は背も高いし流石に夢渡くらいには勝てるんじゃねーの?反射神経はすごそうだったけどそんなに筋肉あるように見えねーし」
体力の話をされたからか難しい顔をしている優海を見て元気づけようとした廉也が明るく声を上げるが、志真にため息一つで返されてしまう。
「ハァ……これだから志真のことをよく知らない人はねぇ……。志真は着痩せするタイプだからめちゃくちゃ筋肉付いてるんだよ。少なくとも廉也なら片手で吹っ飛ばせるくらいにはあるんじゃない?」
「まっさかぁ!オレだって優海とか横木ほどデカくはねーけど平均以上はあるんだぜ?あんなに小柄な夢渡に吹っ飛ばされるわけねー……って……え?マジ?」
流石に冗談だろうと笑い飛ばしてみたものの、変わらない優海の表情は噓を言っているようには思えない。そんな、まさかと上がった口角が僅かに震える。そういえばと思い返してみれば何度か集団で一緒に帰宅した際に不意にぶつかったことがあったが、そのどれもで志真が一切よろめいていなかったことを思い出す。その時は自身がバランスを崩していたからだと思っていたが、どうやら別の可能性が出てきたことにより少しばかり腕を寄せ自身の体を抱きしめる。
「オレさぁ、夢渡に変な奴だと思われてたりしねーよな?」
「……志真は変だと思ってたとしても態度には出さないと思うけど、別に廉也のことはどうとも思ってないんじゃない?」
志真のことを知って態度を変えるという人間は珍しくなく、それらの人間に対して優海は嫌悪感しか抱かないのだが、廉也のこの態度については不思議と嫌悪感が無い。というのも廉也がこういう奴だと知っているからだろう。強いものに迎合しているように見えて実際のところはただ心を隠さないだけの正直な人間なのだ。これだけ言っていてもきっと志真に次に会うときには「実は喧嘩強いってマジ?」なんてことを正面から聞いてしまうのだろう。そこまで考えて静かに笑いが込み上げる。
「え?ちょ、おい、優海!?いや、オレ前にあいつ弱いと思って変な口出しした記憶あるし、うわーマジでやらかしたな。カッコつけ野郎じゃねーか」
笑いが止まらなくなった優海の様子を見て慌てる廉也の姿にさらに笑いが止まらなくなる。
何故廉也と一緒にいることが多くなったのか、思い出せば向こうから勝手に近付いて来ていたような気もするがそれでも昔の方が遥かに周囲の人間に対して無関心な優海の近くに居続けたということはそれだけ優海にとっても廉也という友人が居心地のいい存在だったのは確かなのだろう。
「お前はやっぱり面白いな」
笑みが止まらない口元を抑えながらそう口に出せば、廉也は嫌味だと解釈したのか僅かに目を細めて口をゆがめた。ジトりと恨めしそうな目で優海を見るその姿は明らかに何かを抗議しているがそれを受け止める義理はない。
笑ったことですっかり遅くなってしまった歩みを再びいつも通りの速さに戻し帰り道を進んでいく。夏に差し掛かり日が長くなったとはいえ、すっかり夕陽が空をオレンジ色に染め上げ夕暮れを告げている。
家に近付きそれぞれの向かう方角が変わる分かれ道で軽く挨拶だけをして別れる。明日の約束がもうすっかり当たり前になり、昔のことを思い出していた優海はふと懐かしさを覚えた。
中学生の頃は”また明日”が当たり前ではなかったことを、”さようなら”が最後の言葉になるかもしれない恐怖を、今では当たり前のようにその言葉を使えることに少しばかり胸が温かくなる。
一人歩く帰り道を今日ばかりは少しだけ上機嫌で歩いた。
そう。友人という存在を改めて感じたこと、そして何より志真を害する存在を排除出来た喜びで。




