第二十八話「報復」
山上優海にとって、志真以外の人物はたいして意味を持たない。例外として廉也のことは友人と思ってはいるが、それでもさして心が動かされることはないだろう。それが優海という人物であり本人もまたその事実について客観的に認識をしていた。
今回、自身の不手際で志真を傷付けてしまったことは反省してもし足りないほどであるが、それが傷付けた人物に対する制裁を止める理由にはならない。志真以外の人物に興味などは無いが興味の有無と志真へ害をなす存在への警告は関係ない。害をなす存在と判断したのであればすぐさま排除するほかないのだ。
夕暮れの教室で、一人呼び出した人物を待つ。じりじりと肌を焼く暑さが徐々に体力を奪う季節ではあるが夕方ごろには些か過ごしやすい気温に落ち着いている。まだまだ部活動に励む生徒たちの声がこだまする校庭を眺めていると、教室の扉が音を立てて開き待っていた人物が現れた。
志真を傷付けた人物、その男子生徒は窓際に佇む優海を視界にとらえるとゆっくりと近づいた。先日の事件の時よりも僅かに顔色が悪く目元に隈も出来ているが、優海を見据える眼光は鋭くぎらついている。
「俺を呼び出して、何の用だ」
男子生徒が静かに問いかける。学内でも有名な人物であり、自身が殴った志真と親しいことも周知されている存在からの呼び出しに緊張で手のひらへじっとりと汗が滲む。軽くこぶしを握りながら――決して手を出すつもりなどは無いが――息を整える。
彼が落ち着くのを待っていたかのように息が整ったタイミングでゆっくりと校庭から視線を外し、ようやく男子生徒へと向き直る。その表情は普段見せている穏やかなものとは違い全くの無であった。思わず半歩後ろへと下がるが、すぐに優海が口を開いたことによりそれ以上踵が下がることは無かった。
「ご兄弟がいらっしゃるんですよね。優秀な弟さんと――年の離れた可愛い妹さん」
静かな教室に男子生徒の息を呑む音が響く。何故、と脳内が焦りと疑問で埋め尽くされるが咄嗟に声を出すことは出来なかった。何を思ってその言葉を放ったのか、それすらも表情からは読み取れず分からないまま沈黙が流れる。
「僕は、そうだな……あんまり他人には興味がないんですけど、志真を傷付けたり貶めようとする人については少しだけ調べるようにしてるんです。今回も本当なら調べるだけ調べて終わりにしようと思ったんですけど……志真のことまた傷つけようとしてますよね?」
蛇に睨まれた蛙のように、体が硬直して動かない。顔の整った人間の無表情とはこんなにも恐ろしいものなのかと、喉が渇き首にもじんわりと汗が浮かぶ。
優海の言った言葉は決して早とちりなどではなく、確かに彼は志真のことを許せなかった。女子生徒に手を上げようとしたことそれ自体は確かに浅慮だったと反省しているし教師からの指導も甘んじて受け入れたものの、割りこんできた志真のことは正直に邪魔な存在だと思っていた。そもそも彼が割りこんでこなければこんなにも大事にはならなかっただろうし、自身も顎に拳を喰らった借りがある。受験を見据えているこの時期によくも教師に目を付けられる原因を作ってくれたなどと、周囲が聞けば他責思考すぎて閉口してしまうような考えすら思っていた。
なにより、自身よりも明らかに下位に属する存在であろう志真に一杯食わされたことがどうしようもなく許せなかったのだ。そして報復の機会を淡々と狙っていたこともまた、事実である。
「……なんの、ことだか……」
カラカラに乾ききった喉からようやく言葉を絞り出す。本能でこの男はヤバい部類の人間だと感じているものの素直に認めてしまえばそれこそ何をされるか分からない。
「あぁ、別に隠さなくていいですよ。調べはついてますから。ただ少しだけ釘を刺しに来たんです」
淡々とそれでいてその瞳自体は男子生徒を捉えたまま告げる。
優海にとって、他人を脅すことは大した労力でもなかった。それこそ多少非合法な手段を使ってでも志真の情報を各所から集めていた過去から、様々な情報やデータ、ネタを手に入れることは容易だった。体が弱かったからこそ頭脳を磨くことが大事であると早々に悟った優海にとって情報社会である現代はある意味いい練習場所だったともいえる。
ズボンのポケットから一枚の写真を印刷した紙を取り出し、広げて投げ捨てる。ゆっくりと舞ったその紙は男子生徒の足元へと落ち着いた。まるで見ろと言わんばかりに投げられた紙に視線を落とした彼は写っていた人物を見て驚愕のあまり目を見開いた。そこには弟妹と母親が写っていたのだ。
「優しくていいご家族ですよね。貴方の名前を出したらすぐに信用してくれましたよ。警戒心が無いというか……あぁ、それに先日の一件についてはご家族に話していなかったんですね。弟さんも妹さんもなぁんにも知らないみたいでしたし」
「お、お前……!!家族に何をした!!」
激昂する男子生徒へ変わらず感情の宿らない目を向け、「何も。」と切り捨てた。
本当に何もしていないのは事実だ。少々関わりを持って写真を手に入れただけである。関わりを作る為に多少の手は回したものの明らかに黒い手段は使用していない。調べられたところでどうともならないだろう。実際、利用したものと言えば自身の体くらいのものなのだから。
優海にとって自身の顔の美醜などはどうでもいいが、世間的に見れば整った顔立ちであるというのは客観的事実だ。志真に好かれる見目をしていれば世間の評価など優海にとっては何の足しにもなりはしないが、どうやら志真は面食いの傾向もあるように思える為手入れは欠かさない。というような話は置いておき、何はともあれ優海の見た目は人に対して好印象を与えやすい。それを使っただけのことである。
多少強引に妹と接点を作り、妹からの紹介という体で家族に接触した。弟の方は少しばかり警戒していたものの、有名な進学校へと進学した彼に少しばかり頭の良さを見せてみればコロリと態度が変わった。
兄と同じ学校だというのもプラスに働いたのだろう。本当に家族仲がいいのだろう。
だからといって、ここで真実のみを話す必要もない。
「あぁ、お母さまには学校から話が行っているみたいでしたね。話題に出したら酷く心配していましたよ――弟さんのこと」
「は……?」
男子生徒の目が見開かれる。ただでさえ悪そうな顔色からさらに血の気が引いていくが、気にせず優海は言葉を続ける。
「ハイレベルな学校に入学できなかったお兄さんと違って、優秀な弟さんは有名な進学校に通っていますから、出来損ないの兄よりは優秀な弟の将来の方が心配なんでしょうね。まさかお兄さんの暴力沙汰で弟さんの未来が潰えるかもしれない、なんて心配しない方が可笑しいでしょう」
肩を震わせ、唇をかみしめる男子生徒を見ながら冷たい視線のまま淡々と言葉を紡ぐ。彼のコンプレックスや家族同士の関係性も全て調べ上げている。弟に対して大切だと思う気持ちがありながらも自身より優秀な弟に羨望や嫉妬の感情を持ち、そのストレスからあの女子生徒の誘いに乗ってしまったのだろう。
そしてその女子生徒からも裏切られ、強硬手段に出た――と。
「でも弟さんは健気ですね、立派な兄のように自分も頑張りたいって言ってましたよ。まさか、その兄に羨望や妬み、恨みつらみを持たれているなんて知ったらどう思うか」
「やめろ!!」
余裕をなくし、掴みかかるほどの勢いで優海へと詰め寄る。しかし今にも優海の胸倉を掴まんとする手は、冷静に放たれた優海の言葉により空を切った。
「ご兄弟の将来、潰したいんですか?」
高い位置から男子生徒を見下ろし、変わらず無表情のまま言葉を続ける。
「僕は喧嘩なんて得意じゃありませんし、しっかりとやられてあげますよ。殴り返したりもしません。ですが、もしそのようなことがあれば……弟さんや妹さんの将来は暴力事件を起こした人物の家族、というレッテルが張り付いて離れないでしょうね。当然、貴方の将来も消え失せますが――妹さんくらいの年齢であればきっといじめなんかにも発展してしまうかもしれませんね。あの年頃の子供は残酷ですから」
続く言葉に男子生徒は膝から崩れ落ちた。優秀な弟に嫉妬を覚えていることは事実だが、それでも可愛い弟であることに変わりはない。ましてや兄である自信を慕ってくれていることは第三者に言われるまでもなく実感していた。そして年の離れた妹はそれはもう可愛い盛りだ。自信にはもったいないくらい優しくて良い子なのだと明るい笑顔が脳内を駆け巡る。
そして、目の前に無表情で立つ人物はそんな弟妹の将来を暗く塗りつぶす術を持っているのだ。はったりかもしれないなんて感情は早々に消えていた。何故なら今までこんな人物が家庭に出入りしていれば弟妹や親から話題に上がらないはずがない。ということは例の事件の後に調べて、接触したのだろう。出身の学校も違い、学年すらも違う彼がこの短期間でそこまで情報を集めたということはそれなりの手段を持っているという事実に他ならない。
「俺が、悪かった……あいつに手は出さないし、関わったりもしない。だから、家族にだけは……家族だけは見逃してくれ……!!」
教室の床へ額を付けて懇願する。きっとこんなことをしても表情は一ミリたりとも動かないのだろうと頭の片隅で考えるが、今見せられる誠意はこれが限界だ。
数秒か、数分かどれほど時間が経ったのか分からないが、ゆっくりと目の前の影が動き直後背中に何かがバラバラと落ちて来る感覚にわずかに視線を上げる。
「今回は、未遂なので見逃してあげますが……少しでも志真に対して不穏な動きを見せたら、その時は容赦しませんから。お忘れなく」
ぐしゃりと床に散らばった紙を踏みながら優海が教室を出ていく。その背中を追いかけるように視線を上げたところで先ほど背中に落ちてきた物が何だったかを始めて認識して、どうしようもないくらいに吐き気が込み上げた。
踏まれていった物もすべて、家族の写真だった。最近の写真から――かなり古い写真まで。家族のアルバムでも見ない限りは到底知り得ないような写真までもが床に無造作に散らばっている。一体、どれだけ調べていたのだろうかと考え始めたところで教室の外を通る生徒の気配を感じ、慌てて写真を拾い集めて教室をあとにする。
廊下へ出ると既に優海の姿はどこにもなく、忘れ物をしたであろう生徒が戻ってきている様子がちらほら見えるだけだった。改めて拾い集めた写真を握り締め、胃の奥からせり上がってくる吐き気を抑え込む。
どうやら手を出してはいけない人物を敵に回してしまったようだ。もう二度と志真を害そうなどと思わないから、平穏無事に残りの学校生活を過ごせますようにと祈りながら帰路へと付いた。




