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第二十一話「隣」

 ふと、街中で見知った顔を見かけた気がした。

 思わず足を止め、道路の向かいへと視線を動かす。視線の先には誰もいない道だけが広がっており、気のせいかと結論づけ少し先で立ち止まった級友たちへと追いつく。


「おーい、夢渡どうした?なんかいた?」

「いや、なんでもない」


 帰り道、友人と学校から少し離れた店に受験勉強の息抜きをしようと足を伸ばしていた夢渡光輝(ユメト コウキ)は街中で見かけるはずのない人物、弟である志真の姿を見かけたような気がしたがどうやら気のせいだったらしい。

 不審に思いながら帰宅すれば、いつもならあるはずの志真の靴がなく帰っている気配もなかった。キッチンで夕食を作っている母親に志真の行方を尋ねれば軽い返答が返ってきた。


「優海君のところで勉強してから帰るって言ってたわよ。優海君からも連絡来てたし、本当にマメよね〜、あの子」

「うみ……?誰それ」


 聞き覚えのない名前に思わず聞き返せば手を止めないままに不思議そうな声が返ってくる。


「あんたも昔一緒に遊んだじゃない。ほら、小学校のころ公園とかで志真と一緒に遊んでた子よ。体が弱くって中学に上がる時に別の学校にいっちゃったけど」

「あー、そんなやついたな」


 母親の話を聞いて昔の記憶を思い出す。そういえばやたらと志真にくっついてた金魚の糞のような奴がいたと。

 優海について思い出したことで街中で感じた違和感に気が付く。なるほど、どうりであの時見知った顔だと思ったわけだ。

 足を止めた後、確かに視線の先には誰もいなかったがその直前妙な視線を感じた。一瞬しか見えなかったが、海底を覗いたかのようなドス黒い青色の瞳ーーこちらを睨んでいたあの目は昔よく感じた視線だ。志真の後ろで何ができるでもなく震えていただけだが、あの目だけはよく覚えている。

 同じ人間かはわからないが、同じような瞳をしていた視線に覚えを感じたのだろう。だが、勉強をしているのであればあの場にいたのは別人だろう。志真が帰ってきた時までに覚えていれば聞いてみるかと思い出すつもりもない記憶の彼方に投げ込み、自室へと戻った。



「その、ごめん。家まで上げてもらって」

「気にしないで。僕がちょっと出かけようって言ったからだし。落ち着くまでいてくれて大丈夫だから」


 あれから少し落ち着いたところで、とてもじゃないが志真が自宅に真っ直ぐ帰ることが出来ない状態だと気がついた優海が自宅へと誘ったのだ。どうやら志真の家族は優海の名前を出せばある程度融通が効くらしいというのは最近得た知恵だ。

 弱った状態の志真を家に連れ込む、などと廉也に知られれば嫌味の一つでも言われるかもしれないが、もちろんそんな下心めいた考えはなくこの状態の志真を自宅へと戻してしまえば、また自身を傷付けかねないと思ったからだ。多少なりとも自宅へ連れてくる口実があれば使いたいという気持ちもなくはないが、あくまで優先されるべきは志真の安全と幸福だ。


「お茶入れてきたよ。温かいので大丈夫だった?」

「うん、ありがとう」


 普段と比べて丸まった背中でコップを受け取る志真の表情は家に着いたばかりの頃より少しばかり落ち着いたようだった。隣へ座りその背にゆっくりと手を回す。

 少しずつお茶を飲む志真の横顔を眺めながら先ほどの動揺を思い返す。

 あの時、遠くに見えたのは志真の兄の姿だった。こちらに気付き掛けていたようだが、ギリギリ志真の姿は見えていなかったはずだ、

 志真の自己肯定感が低い理由の一つであり、最大の要因ともいえるだろう。優秀で非の打ちどころのない兄であり両親の期待を一心に背負う存在。当然ながら小学生の頃には優海もその存在は認識していたし、実際に文武両道であるところも見てきていた。

 志真に優しくないこと、ただ一点それだけを除けば本当に非の打ちどころがない人物だろう。当時、志真もかなり優秀というか兄とほぼ同様に文武両道で成績優秀だったが、本人としては兄には敵わないからというのが口癖だった。

 これ以上何を努力すれば兄と並ぶことができるのだろうか、そう悩む日々を隣で見続けた優海は子供ながらにこの世の理不尽とも言える部分を見た気がした。

 優海から見れば、志真が兄に劣っていることなど何一つとしてなかった。強いていうのであれば遅く生まれてきたことだけだろうと思える程には志真は優秀であり、まさしくヒーローに違いなかった。それがたとえ兄に近付くために努力した結果だとしても。



「優海はさっき、ああ言ってくれたけど……やっぱり幻滅したよな。そもそも俺、昔とかなり変わっちゃったし、むしろ昔の方が作ってたっていうか取り繕ってたっていうか……本当の俺はこんなにダメダメなのにな」


 ぽつりとつぶやく志真の目は虚で、手の中で揺れる湯気を眺めているのかその先にある自身の足を眺めているのかさえ分からない。

 そんな志真の姿に胸が締め付けられる。今、再会してからこの瞬間まで被っていた仮面を取り払い本当の意味でありのままの状態の志真で言葉を紡いでいるのだろう。普段から自然体でいてくれたら嬉しいと言い続けているが志真の心を苦しめてまで得たいわけではなかった。


「幻滅なんてしないよ」


 そう、幻滅なんてするはずがない。

 あの時、手を差し伸べてくれた存在であり、ずっと助けてくれたヒーローである志真。どんな姿であろうとその事実が変わることはない。


「だって、志真はずっと僕のヒーローだから」


 目を見て真っ直ぐに気持ちを伝える。ただ、過去の事実が変わらないからではない。あんなにも心を砕かれ、他人を気にする余裕なんてないはずの状況でさえも、志真はずっと人を助け続けてきた。それが自己肯定感を得るための、ただの承認欲求からくる行動だろうと構わない。

 むしろ、優海としてはその道具の一つにでもしてもらえたらそれでよかった。兄のように、父に認めてもらうためにし続けた努力を否定されてもなお、傷ついた心が他人に向かうことはなかった志真のたった一つの拠り所にでもなれたら、それは良いことだ。


 さらりと頬にかかる髪を撫で、耳へと掛ければ普段は隠れている右目がわずかに見え隠れする。

 いつものキリリとした表情とは違い、目尻が下がり眉根は眉間によっていた。この険しい表情ですらきっと優海に幻滅されて消えられることを怯えているだけのただの小さな子供と同じ感情だ、

 

「ひーろー、ね。そんな大したものじゃないよ。勉強だって優海の方が出来るし、運動は流石に俺の方が出来るけどきっとそれも優海に抜かされるんだろうな。俺がもうちょっとちゃんとしてたら良かったのに」

「そんなこと言わないで。志真は今だって十分素敵だし、昔のままでいる必要なんてないんだから」


 そうゆっくりと、だがしっかりとかけ続けられる優海からの声に徐々にぼんやりとしていた視界がクリアになっていく。気が付けば手に持っていたコップは冷めてしまい、中のお茶も残り一口程度だ。

 変わったことを分かった上でずっとそばに居続ける優海にずっと疑問を抱いていた。なぜずっとそばにいてくれるのだろうか。こんなにもダメな人間など早く見捨ててしまえばいいのにと実際にそうなったら二度ど立ち直ることなど出来ないのにも関わらず溢れ出る不信感が止まらなかった。

 だがそれも今日までだろう。こんなにも暖かい手のひらを退けることなど、志真には出来ないのだから。


「ありがとう、優海」


 残りの茶も飲み干し、隣に座る優海を見上げる。その眉間からは先ほどまで浮かんでいた深い皺が消えていた。

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