第二十話「肯定」
まだ明るい空の下で志真は街中のカフェにいた。平日のため店内の客もまばらでまさに長時間滞在するにはうってつけの空間と言えるだろう。
このカフェに誘った優海もおそらくは周囲を気にするだろう志真に配慮してこのカフェを選んだのだが、そこまでは伝わっていないだろう。静かに課題のノートに取り組む志真の真剣な瞳を眺めながらまだ暖かいコーヒーを口に運ぶ優海の表情はここ最近の中では一際穏やかだ。
それもそのはずで、今日は優海にとって煩わしい存在であるあの後輩がいないのだ。もちろん毎朝の挨拶には当然のように来ていたがその時点で志真が今日の放課後は予定があるからと断りを入れて二人きりの時間を確保してくれたのである。
志真にとっては先に約束をした勉強会の予定を守ることは当然の行動ではあるのだが、途中まで一緒になどと言われても断ってくれたのは優海に配慮してのことなのではないかなどと自信に都合のいい妄想ばかりが膨らんでしまう。
瞳を覆い隠すほど伸びている前髪からちらりと覗く志真の長いまつ毛と白い肌にどうしようもなく触れたくなるがまだまだ志真との心理的な距離は遠く下手に気がつけば離れかねないと理性で押し留める。
今日の勉強会も元々は優海の家で行うつもりだったがたまには外で勉強するのも息抜きになるのではないかと放課後デートーーと思っているのは優海だけだがーーの提案を意外とあっさり受け入れてくれたことで優海の表情は緩みっぱなしだがそれを志真に悟られるのも憚られる。まだ良き友人でいるしかないのだから。
勉強を終え、まだ帰宅まで時間に猶予があるならと街中を少し歩く提案をしてみれば志真は二つ返事で了承した。相変わらず門限や遊びについては厳しいようだが勉強をするという名目であればある程度融通が利くようになったのは幸いだ。
聞いたところによると優海と勉強をしてくると言えば納得してもらえるくらいには認めてくれているようで、勝手に名前を出すことを謝罪されたこともあるがむしろ志真にとって自身の名前だけで力になれることがあるのであれば積極的に使ってくれて構わないと先日も話したばかりだ。
相変わらず志真の腕には常にアームスリーブが付けられており、その下にはいくつかの傷跡が増えたり減ったりしているのだろうが、それでも以前のように優海に対して引け目を感じるような表情や言動は減ってきているし、表情も柔らかくなったように感じる。
あと一歩、どうしたら志真が幸せを感じて笑顔でいてくれるだろうかと常に考えているが心の奥深くに入った傷は触れさせてすらもらえない。
などと考えながら街中を歩いていれば、突然隣を歩いていた志真が立ち止まった。どうしたのかと様子を伺うと顔からは血の気が引いていき瞳はある一点を凝視したままわずかに震えている。
何事かと視線の先を確認するとそこには志真によく似た黒髪と切長の瞳を持つ一人の学生が歩いていた。周囲には友人と思わしき人たちもおり、楽しげに談笑している姿は志真のそれとよく似ている。
一目見てすぐに合点がいった。あの人物は志真の兄だ。昔からよく似ていると言われていたし実際優海から見ても似ていると思う程度には共通項が多い見た目をしている。志真の身長が平均程度にあったらきっとあのような見た目だろうと思わせられる容姿に志真とは打って変わって自信に満ち溢れた佇まいは隣で震える小さい肩をさらに小さく思わせられる。
小学生の頃、それこそ低学年の頃などは優海もよく一緒に遊んだものだが学年が上がるにつれ徐々に疎遠になり、志真もかなりのお兄ちゃん子ではあったはずだが気がつけばその単語を口にすることは減り、口にすれども劣等感が滲むようになっていったのは優海の中でも印象的な記憶として残っている。
ある日志真を蹴り飛ばす兄の姿を見た時などはそれこそ強い敵意と己の無力感に苛まれたものだ。だからこそ昔は優しかった記憶も当然あるーーむしろ優海にとっては終始優しい人間であったーーが優海にとってこの志真の兄という存在は志真を傷つける人間の一人に他ならなず、叶うならば再会したくはなかった存在だ。
志真の兄が通う学校は反対側であるはずなのになぜ、と考えがよぎるがそれより先に体が動いていた。
「志真、ごめんね」
小さく断りを入れ、隣で震えている志真の肩を抱き寄せ近くの路地の壁へとその体を引き込む。通りから志真の顔が見えないようにそっと顔を自身の胸元へ寄せ、はるかに大きくなった体で全体を覆い隠してしまえば一瞬のうちに街中とは隔絶され静かな路地の中で志真の姿は消え去ってしまう。
不意に近くなった距離に鼓動が速くなり、表情は冷静を保っているもののきっと志真の耳には届いてしまっているだろうと志真の肩を抱き寄せる手に力が入る。
鍛えてはいるものの優海からすればかなり小さいその体はその気になればこんなにも簡単に隠してしまえるのだとそんな都合のいい事実に気がついてしまい優海の頬にわずかに恍惚な紅が混じる。
静かな路地に二人の呼吸とわずかな衣擦れの音だけが響く。震えていた志真の手が優海の制服を掴んだ。その行動に思わず海が視線を下げれば襟足の隙間から覗く白いうなじに思わず喉が鳴る。
しかし、今は志真の行動一つに欲情を滾らせている場合ではないと抱き寄せている手で落ち着かせるようにそっと肩を叩く。子供をあやすようにしばらく続けていれば落ち着いたのか、制服を掴んでいた手が開かれ体の震えもおさまっていた。
通りの様子を伺い、志真の兄の姿が完全に見えなくなったことを確認して体をそっと離す。今になって志真を守るためだったとは言え突然路地に引き込み抱き寄せたことを自覚し血の気が引いていく。どのように謝罪の言葉を紡ごうかと頭を捻らせていると志真の方が先に口を開いた。
「わ、悪い。なんか、俺、すごいみっともないところ見せて……」
震えこそ収まったもののその表情は変わらず青ざめたままで、出てきた言葉は弱々しいままだ。伺うように優海の顔を見上げるその瞳には見放されるかもしれないという恐怖に似た何かが渦巻いていた。
実際、志真の心境としては兄の姿を街中で見かけた時点で遊び歩いている姿を見られたらどう言い繕えばいいのか、親に告げ口をされたらなどという思考で埋め尽くされまともに考えることなど出来なくなっていた。
そして、そんな取り乱している姿を何より優海に見られたくなかった。
再会した時点ですでに劣等感の塊だったのにも関わらず優海の前だけでは、とこの一年なんとかあの頃の自分でいようと努めてみたもののまさかこんなことで醜態を晒すとは思わなかった。
周囲からの評価の違いや以前のように明るく振る舞うことはできなくとも優海の前だけでは多少なりとも雰囲気は変われどあの頃のままの自分を演じることが出来ていたはずなのに、このままではきっと失望されてしまう。
優海にだけは失望されたくない、見放されたくないと、自身の中のアイデンティティとも取れる本心が表面へと浮き上がってくる。すでに壊れてしまったプライドや自信なんてものはどうなっても構わないが、唯一優海の頼れる友人である自分という宝箱にしまったままの存在が今にも崩れそうになり視界が揺れる。
「お、れは……」
「志真。落ち着いて。大丈夫だよ、これくらいのことでみっともないなんて思わないし、僕は志真から離れないよ」
再び、今度はしっかりと抱き寄せられ暖かい優海の腕に包まれる。一定のペースで優しく背中を撫でるその手に忘れていた呼吸が戻ってくる。優海の言葉からは偽りや取り繕うなどといった雰囲気は感じられず徐々に固まった体が解れていく。
「ねえ、志真。僕は頼りないかもしれないけど、もっと頼ってくれていいんだよ。むしろ昔志真がいっぱい助けてくれた分、今度は僕が志真のこと助けたいんだ。だから、その、辛い時とかは相談して欲しいし、僕は絶対どんな志真だろうと離れて行ったりしないから」
耳元でしっかりと掛けられる言葉に志真の表情が和らぐ。
嗚呼、そうだ。どんな自分でもただ肯定して欲しかっただけなんだと優海の腕の中でようやく自身の心に素直になれたような気がした。




