5.
ようやく箱詰め作業もカタがついてきた頃、都は床に寝そべってぼんやりしていた。
──この部屋とももうじきお別れか。
都は新しい派遣会社に登録し、職探しを始めたが、大家の朔子の好意で求職中にも関わらず、ワケあり一軒家への引越しを進めることになったのだ。
感慨に耽っていると、ふいに玄関で呼び鈴が鳴った。
「誰?」
都は思わず呟いた。この部屋に尋ねてくる友人は、自慢ではないが一人もいない。かつて恋人の雄一はたびたび訪れたが、雄一と別れてしまった今、お客は誰もいなくなった。
──宅配の心当たりもないし?
恐る恐る玄関ドアの魚眼レンズから覗いてみると、そこに立っていたのは広夢と朔子だった。
「なっ……」
都はドアの内側で絶句した。何故ここがわかったのだろう?
「都ちゃーん、いるんでしょ?」
のんびりとした広夢の声に続いて、朔子も追い打ちをかけるように言う。
「あなたの住所は茂雄ちゃんに教えてもらったの。ワンルームマンションってどんなものか一度見てみたいのよ」
「……そんなにおもしろいものじゃありませんよ」
ドアの内側にぴったりと体をつけ、ついつい都は言葉を返してしまう。
「何だ、やっぱりいるんじゃん」
広夢の勝ち誇ったような声。都はぐっと返答に詰まり、仕方なく鍵を開けた。
「わー、久しぶり都ちゃん。突然でごめんねー。朔子ちゃんが行くって聞かなくてさ」
相変わらず端正な佇まいの広夢の隣で、朔子が睨んでいる。この二人が街を並んでいたら相当目を惹くだろう。
「人のせいにするんじゃないわよ。あなただって都ちゃんの住まいを見たいって言ってたじゃないの」
うん、と素直に広夢は頷き、一目で見渡せるようなワンルームの都の部屋をぼんやりと焦点の定まらない目で眺めた。
「本当にワンルームって、一つしかお部屋がないのね。息が詰まりそう」
朔子は天井や段ボールが散乱した床をぐるりと眺めて、無遠慮な口調で言った。
失礼な、と都は言いかけたが「本当だよ」と広夢が賛同したので心底驚く。
「ここは気の流れがよくない。早く出て正解だよ」
言い終えて都を正面から見つめ、いつものような大らかな笑顔を見せた。
──占い師でもやっているのかしら、この人。
大体これまで会ったすべてが昼間で、勤め人とは思えぬ格好でふらふらしているのだ。都は改めて広夢という存在を訝しんだ。
「それより都ちゃん、一緒に行きましょう」
眉間に皺を寄せ、広夢の素性を怪しんでいた都に朔子がきっぱりと言い放った。
「……え、新しい家にですか?」
「違うわ。あなたの恋人のところよ」
朔子は不敵な笑みを浮かべた。強引に都の腕を引き、朔子は外出の支度も出来ていない都を引っ張り出そうとする。
「もう恋人はいません。……失恋したばかりですから」
都は玄関で踏み止まり、ドアを開けることを拒んだ。
「でもちゃんと納得して終わっていないでしょう?」
「どうして……」
──恋愛で悩んでいたことが朔子さんにわかったんだろう。
「あの日、うちにもう一度来てくれた日……あなたのお誕生日だったでしょう?お誕生日に泣いていると言えば、恋愛のことなんじゃないかと思ってね」
「あっ」と都は声を上げた。
──そう言えばあの日、誕生日だったんだ……。
誕生日を迎えていたことにも都は気付いていなかった。雄一と一緒に過ごしていたときは、馴染みのレストランで食事をしていた。今年は雄一が去り、仕事も大切な存在も手放してしまい、自分の誕生日すら失念してしまっていた。
──誕生日の情報まで契約情報に記載されていたのだろうか?
「今日は俺が運転してきてるから、さあ早く乗って」
都の疑念を振り払うように、広夢が急かす。窓から覗くと、マンションの敷地にミノワ不動産の軽自動車が滅茶苦茶な角度で駐車してある。
「行かないと後悔するわよ」
ためらっている都の手を、再び朔子が強く握った。
別れ話で終わった元恋人に再び連絡をするのは勇気がいることだった。それも、自分の意思とは関係なく朔子と広夢に強引に流される形でこんなことになってしまった。
「最後に話がある」と告げた都に、雄一は明らかに警戒した声を出していた。
「え?今頃?」
不審がっている雄一の声を聞いていたら、都はいつの間にか吹っ切れている自分に気がついた。
「刺したりしないから心配しないで」
都は苦笑しながら思わず毒を吐き、失言に気付いて慌てて口を覆う。雄一の前でこんな皮肉を言うのも初めてだった。
電話の向こうで、雄一が何故かひっそりと笑っている気配が感じられた。少しの沈黙の後、雄一は「わかった」と言った。思いのほか真剣な声だった。
「すぐに外に出るよ」
「……どうしましょう、来るわけないと思ったんだけど来るそうです」
電話を切った都は途端にオロオロし始めた。
「よかったじゃないの」
「何を言うかなんて私、決めてないですから」
いつの間にか都は、十五歳の少女であるはずの朔子を頼っている。朔子は都の肩に触れ、優しくさすった。抱き締められたときにも感じたが、朔子が触れると都はひどく安心した。
「あなたがずっと思っていたことを言えばいいのよ」
言いながら朔子は、今度は少し強めに都の肩を叩く。
「胸の中に、たくさんの言葉があるでしょう?」
都の迷いを吹き消すように、朔子は美しく破顔した。都は思わず、朔子の笑顔に見惚れてしまう。
──そうだ、うんと昔。私がずっと小さかった頃。私は確かにこの人に会っている。
途切れていた都の記憶がふいに蘇ってきた。
幼い都が泣いている。何故か裸足で、ひどく汚れた足の裏をしている。
何かから逃げてきたのだろうか。靴も履かずに飛び出してきたようだ。
汚れた足で、都は広い庭に立って一軒家を見上げている。赤い屋根に緑色の外壁。窓の外には、植えたばかりと見える細い木がぽつんと立っている。
「どうしたの?」
近付いてきた人影が、優しく都の頭を撫でてくれる。膝を折って都の顔を覗き込んだのは、都よりも年上だが高校生ほどに見える少女だった。
艶やかな黒髪が揺れると、甘い香りがした。おねえちゃん、と都は泣きながら言った。
「今日はみやちゃんのたんじょうびなんだけど、誰にも言えないの」
都は言いながらだんだん悲しくなってきて、声を上げて泣き始めた。
「どうして言えないの?」
優しい声で訊ねながら少女は、ずっと都の頭を撫でていてくれた。撫でられるたびに、都は少しずつ落ち着いてきた。
「めいわくがかかるから……」
幼い都の声は、そのときばかりは大人びていた。
──実の子供ではない自分が迷惑をかけていると、幼い私は自覚していたんだ。
「そんなことないと思うけどなあ」
少女は困ったように笑って、都の体を立たせると、抱き上げて玄関先に座らせてくれた。そして奥に引っ込むと少しして戻ってきて、温かいお湯で都の足をきれいに拭いてくれた。
「じゃあお姉ちゃんと一緒にお祝いしよう」
「えっ?ほんとう?」
都は目を輝かせた。少女は都の母親には若すぎる年齢だったが、都はこのお姉さんが自分のお母さんだったらいいのにと思っていた。
「本当だよ。お誕生日おめでとう、都ちゃん」
また来年も、大人になってもここにおいで。私はずっとここにいるからね。
慈愛に満ちた目で、少女は都を見下ろして言った。
都は心から安心して、突然眠気を感じた。
甘い眠りに導かれるように、しだいに都のまぶたが閉じ始めた。
──あの日も私の誕生日だったんだ。
朔子さんは、そんな昔のことを日付まできちんと覚えていてくれたのか。
──その後幼い私はどうやって帰ってきたのだろう?
都は所々がぼやけている記憶の映像を辿りながら考える。
恐らく幼い都は、偶然にもあの一軒家に迷い込んだのだ。庭の若木はオリーブの木に違いない。
ただ、決定的な違和感がある。
──朔子が現在の姿とまったく変わらないことだ。
「どうして……」
言いかけて都が朔子の横顔を盗み見ると、朔子は都と目をしっかり合わせ、美しく笑った。
都の心中を察しているような、余裕の微笑みだった。
朔子の笑顔の向こうに、こちらに向かって歩いてくる雄一の姿が見えた。
「……行ってきます」
都は反射的に車を降りた。もう迷ってはいなかった。
久しぶりに顔を合わせた雄一は、少し痩せていた。仕事が忙しいのかもしれないし、結婚準備が佳境に入っているのかもしれない。
「久しぶり」
雄一が先に口を開いた。
「奈央との結婚のこと、話してなくて悪かった」
都が何か言う前に、雄一は頭を下げた。都はそんな雄一を穏やかな気持ちで見つめていた。
「奈央とは偶然先輩に誘われた飲み会で出会って、俺は途中で都の派遣会社の担当者だと知ったんだ。でも奈央は都と俺が付き合っていたことは知らない。きちんと何もかも話して、別れるつもりだったのに……ごめん」
うん、と都は頷いた。
「奈央から自分の担当の女性が突然辞めたと聞いて……都、仕事辞めたのか?」
雄一は心配そうな顔をしている。別れ話を切り出されたときに感じたような白々しさを今の都は感じなかった。
「うん。でも、雄一と島崎さんのせいじゃないよ。新しいことをやってみたくなっただけ」
何か言おうとしている雄一を遮って、都は続ける。
「私、今まで自分の言いたいことを我慢して雄一に合わせることが一番いいことだって思い込んでた。その方が二人の関係が上手く行くって勘違いしてた。でも、雄一に嫌われるのが怖くて自分をぶつけることを避けて、逃げていただけなんだってわかった」
雄一は口を結び、じっと都の話を聞いている。
「これからは私、誰と接するときも逃げないようにしたいの。今まで本当に、ありがとうね。結婚、おめでとう」
都はほとんど無意識のうちに自分の思いを口にしていた。声も震えてはいなかったし、まっすぐに雄一の目を見ることができた。
「いや……」
雄一は言い淀み、眩しいものでも見るように都を見た。こんな雄一の顔を見るのは初めてだった。
「話はこれだけ。呼び出してごめんね」
話し終えた都が微笑むのと同時に、車のクラクションが鳴った。いつの間にか、ミノワ不動産の軽自動車が都と雄一のすぐ近くに停車している。
「都ちゃーん」
「カッコよかったよ~!」
朔子と広夢が全開にした車の窓から身を乗り出して、都に手を振っている。二人が無邪気に大声を出しているので少し恥ずかしかったが、嬉しくもあった。朔子も広夢も満面の笑みだ。
「あの男、すごい美男だな。芸能人?」
ぽかんとした顔で雄一が呟いた。都は吹き出してしまった。
「……新しくできた友達。女の子の方もすごい美少女でしょ?」
都の言葉に、雄一はさらにぽかんとした顔になり、次第に青ざめた表情に変わっていった。
「俺には、すごい美男の男しか見えないけど……」
今度は都が絶句した。車のほうを見ると、今もいたずらっぽい顔をして朔子が手を振っている。今日の朔子は、はしゃいでいて一際可愛く見える。
「えっ、助手席で手を振ってるじゃない。高校生くらいの女の子よ」
雄一は無言だった。都は雄一の顔色と、ぴたりと口を閉ざした雰囲気から察して、それ以上何も言わないことにした。
──雄一には朔子さんが見えていない……?
再び車の助手席を見ると、雄一とのやり取りで全てを悟った様子の朔子が都を見つめていた。顔にはひっそりとした笑みが浮かんでいた。




