4.
何度か浅い眠りの中で、都はあの家を訪れた。いつの間にかあの古びた一軒家の庭に迷い込み、羨望に満ちた目で家を見上げる。
そこへ白いワンピースを着た朔子が立ち上がり、両手を広げて敷地内に入れないよう妨害するのだ。夢の中に音声はなく、きつく結んだ朔子の唇と吊り上がった眉から都への敵対心が伝わってきた。
朔子の境遇は同情するところがたくさんあるが、正直なところ会って間もない他人の心の中まで見透かそうとするような態度は苦手だった。
──あなたも戦っているのかもしれないけれど、私もまた一人で戦ってきた。
都は声にならない声で叫ぶ。
朔子は何かを言いたげな強い目で、睨むように都を見ていた。都も何も言葉をかけることができずに、その場を立ち去った。
都から無意識のうちに流れ出る敵対心と嫉妬、その他のいろいろな負の感情を朔子に悟られてしまいそうで怖かった。
──どうして私はそこまであの家が気になるんだろう?
目が覚めて、都は夢を見ていたことに安堵する。汗で滲んでいた額を拭いながら、速まる鼓動を落ちつかせようとした。
──あの家を借りたほうがいいのか。それとも借りないほうがいいのか。
都は天井を見上げてしばらく考え込んだが、ふと一番の優先事項を思い出した。現在都は無職なのだった。
眠れずに何度も目を覚ましながら夜を明かした都は、朝になって派遣会社の担当者である島崎奈央に連絡した。
「ごめんなさい。やっぱり仕事を探したいんで、お願いできますか?」
電話に出た島崎奈央は、今日も明るい声をしていた。都はミノワ不動産の茂雄と瞬時に頭の中で比較をし、営業はこうあるべしと思う。
次の日、面談の約束をして久しぶりに島崎奈央と会うと、有能な彼女は既に三社ほどの事務職を用意して履歴書を回す手配をしてくれていた。
数ヶ月ぶりに会う島崎奈央を、都は無意識のうちにしげしげと見つめている自分に気付いた。以前とは印象が違う気がして無遠慮に観察しかけ、失礼な気がして慌てて目を反らす。
「何だか望月さん楽しそうですね。よかった」
島崎奈央は、そんな都に気付くこともなく快活に笑った。
「え?そうですか?」
島崎奈央は身体の線をきれいに見せる絶妙なサイズ感のスーツを着、相変わらず美しく
整えられた爪をしている。地味な色だがジェルネイルだろうか。都は話しながらもついつ
い爪に見とれてしまう。
──そうか、島崎さんは急に綺麗になったんだ。
いつも島崎奈央の仕事ぶりは完璧だった。都よりも年下だと言うのに、行動力も抜群で冷静な上、頼り甲斐もある。以前から容姿も端麗ではあったが、今日の島崎奈央は一際輝いて美しく見えた。
──恋をしているのかもしれない。その恋がきっと順調なんだ。
直感的に都はそう考えた。彼女のような有能で魅力的な女性ならきっと何もかもうまくいくだろう。
──今の私とはまるで逆だ。
都は目の前の島崎奈央がまぶしかった。彼女を羨むことさえおこがましく思えた。
「島崎さん、ひょっとして近々結婚されるんですか?」
何故そんな質問をしてしまったのか。ただ、幸せそうな、肌艶のいい島崎奈央の顔を見ていたら自然と口をついて出てしまったのだ。
島崎奈央の顔が、見る見る驚きの色に変わる。
「どうしてわかるんですか?」
恥らいながら、しかし嬉しさを隠しきれない様子で島崎奈央は来月に控えた結婚の話をし始めた。相手の男性に話が及ぶと、しだいに都の目の前は暗くなってきた。
島崎奈央の夫の情報が一つずつ開示されるたび、都は絶望で視界が歪んだ。それは誰よりも都がよく知っている男と酷似していた。
確かめることもできたが、確かめるまでもないと思った。恐らく、島崎奈央の婚約者は──雄一だ。
そんな偶然があるとは思えなかったが、そうとしか思えぬほど様々な情報が合致する。
「……ごめんなさい。私ったら自分の話ばかりしてしまって」
我に帰った島崎奈央は話を切り上げた。都の思考は既に止まりかけていた。
いつものように担当者の顔に戻った島崎奈央は、電気工事関係の会社の求人を強く勧め、面接の予定をその場で組んでくれた。
「望月さんなら大丈夫ですよ。頑張ってください」
励ましてくれる島崎奈央の笑顔は、美しかった。「おめでとうございます」と都はやっとの思いで口にした。だが、そのとき表情までコントロールできたかどうかは自信がなかった。
──私は引き攣った笑顔を返さなかっただろうか?
都は体を切り刻まれたような気持ちだったが、あまりにもショックを受けると痛みを感じなくなるものなのか。どうにか社会人として適切な態度を保ったまま島崎奈央と別れるところまではやり切ったつもりだった。
だが結局、都は面接を受けないという選択をした。雄一らしき男と結婚する島崎奈央とこのまま仕事と割り切ってパートナーで居続けることは都にはできなかった。
──まだ雄一と決まったわけではなけではないけれど、今の私は島崎さんの幸福を素直に喜べない。
都はそんな自分を最低だと思った。
早い決断だったので、面接予定の会社には他の登録者が回されることになった。
「残念ですが、お母さんの看病頑張ってくださいね」
電話口で島崎奈央は声のトーンを落とした。
「ありがとうございます」と都は呻くように言った。中途半端なところで逃げてしまう自分が情けなかった。
──母が急に倒れまして、住み込みで看病することになりました。
「従いまして、急で申し訳ありませんが派遣登録そのものをやめさせてください」
島崎奈央は返答をした後少し考えて、「在籍だけでもしておけば」と引き留めてくれた。
「お母さんが回復されたらまた仕事を紹介させていただきますよ」
「ありがとうございます。でもしばらくは母のそばで看病に専念してあげたいんです」
親切な島崎奈央の申し出を、都は頑として断った。何もかも嘘だった。
母も、もうとうの昔に亡くなっている。都は天外孤独なのだ。
「そうですか」と島崎奈央は低めた声で言い、それ以上は何も言わなかった。
「長い間、お世話になりました」
都は電話越しではあったが、深々と頭を下げ、言葉に心を込めた。これまでの感謝の気持ちは嘘ではなかった。
「またお会いできたら嬉しいです」
島崎奈央の声は凛としていた。一瞬都は言葉に詰まり、何か返答しようとしたが同意の意味を込めて深く頷いただけで電話を切った。
切ってから、都が頷いたところで向こうには見えないと気付いて苦笑する。
──どうして島崎さんのような女性が選ばれるのか。今ならわかる。
そのまま都は、スマートフォンを鞄にねじ込むと電車に乗り込んで最寄駅を目指した。自然に足が向かった先は、あの一軒家だった。
時刻は夕暮れに近づいていたが、庭先に人影が見えた。都はまた怒られるかもしれないと思ったが、構わずに敷地に進み入った。
腰をかがめていた人影が立ち上がり、都をじっと見つめる。今日は叱責の声を上げずに、静かに微笑んでいるように見えた。逆光だったのではっきりとした表情はわからなかったが。
「結構大変なのよ、草取り」
小さな鎌を手にした朔子が雑草を目の高さまで持ち上げ、今度こそはっきりと、美しく微笑んだ。
朔子の笑顔を見た途端に、都は涙が止まらなくなった。
「……あれっ?何で、私……」
混乱している都は涙を両手で慌てて拭う。しかし拭ってもまた新たな涙がぽろぽろと両頬を伝い落ちる。
朔子は静かな動作で持っていた鎌と雑草を地面に置き、ゆっくりと都に近づいた。
都には朔子の動きがスローモーションのように見えた。
そして次の瞬間には、都は少女の華奢な腕で抱きしめられていた。細い腕と体は心もとなかったが、朔子の体温が伝わってきて、都は声を上げて泣き出した。
「……草取り、手伝います」
ひとしきり泣いた都は急に恥ずかしくなって、照れ隠しにそう言ったがひどい鼻声だった。
「もう日が暮れたからいいわよ」
くすりと朔子が笑った。
都と朔子は玄関の外に二人で並んで座っていた。朔子は都が落ち着くまで待っていてくれた。何も言わず、しかし何もかもを知っているかのようにただ寄り添ってくれていた。
つかず離れずの距離でそっとしておいてくれる朔子の気遣いが都にはありがたかった。一人で過ごすのは寂しすぎたし、慰めの言葉などかけられたら脆くなっている精神が一気に崩壊しそうだった。
朔子の言葉通り、辺りはすっかり夕闇に包まれていた。朔子の小さな横顔も闇に沈みかけている。
都は朔子の整った横顔に見惚れ、ふと心に引っ掛かりを感じた。
──何だろう?
都の封じられていた記憶が少しずつ動き始める。どきん、と心臓が音を立てた気がした。
──私は確かに、この子を知っている……。以前に会ったことがある……。
でも、いったいどこで会ったのだろう?
都の心の声が聞こえたかのように、ゆっくりと朔子が顔を傾けた。その顔には穏やかな笑みが浮かんでいる。
「もう遅い時間よ。帰りましょう」
朔子は立ち上がるとぱんぱんと手でスカートの後ろを払った。
都は朔子の動作を眺めていたが、呆けたように自分も慌てて立ち上がった。
「この家を私に貸してください。仕事はこれから、何としてでも見つけます」
都はそのまま立ち去ってしまいそうな朔子を引き留めるように言った。闇の中で朔子が振り返った。そして一瞬の沈黙の後、口を開いた。
「……いいですよ。この家はあなたに住んでもらいたがっているわ」
朔子はそう言って、都の頬に手を触れた。意外な行動に都は思わず身を引きかけた。
朔子の小さな手は、ひどく冷たかった。
「私にはそれがわかる」




