3.
「……で、どうしてあなたまで同乗するんですか?」
運転席でまたしても眉間に皺を寄せ、不動産屋はハンドルを握っている。皺が深く刻まれたまま戻らなくなるのではないかと都は心配した。
不動産屋の運転は正確で、助手席に座った都は安心して隣に乗っていられた。
が、問題は後部座席だ。
「いいじゃないしげっち、どうせ朔子ちゃん家に行くんでしょ?」
物件を紹介してもらっている最中に突然現れた妙な美男が後部座席にどっかりと座り込み、いつの間にか一緒に物件を内見し大家さん宅に同行する流れになっている。
「いいわけないでしょう。……本当にすみません」
不動産屋はバックミラー越しに男を睨んだ後、くるりと体を回転させ、すばやく都に詫びた。
「いえ私は……」
構いません、と言おうかと思ったが踏み止まった。別に構わなくはない。異常な事態だ。
「あ、お客さん気にしないでください。俺、こいつともこれからお客さんが会うことになる大家さんとも昔っからの知り合いで」
にっこりと無邪気に笑う男を見ていると、都は何も言えなくなってしまう。情けないが、イケメンは得だ。
「こいつは不動産屋の茂雄。愛称はしげっち。お父さんがミスターの大ファンだったからなんですよ。あ、ミスターってもちろん長嶋さんね」
「勝手にベラベラ喋らないでください。あとしげっちと呼ぶのはあなただけです」
不動産屋の男、茂雄は憤懣やる方ないと言った表情でハンドルを握り続けている。
「別にしげっち野球一回もやったことないのにな」
茂雄は再び男を睨んだが、男は楽しそうにケラケラ笑っている。
「で、俺は広夢。広い夢と書いてひろむね。ヒロムーって呼んでもいいよ。それでお嬢さんの名前は?」
は?お嬢さん? 都は一瞬自分のことを言われたとは理解できなかったが、かろうじて「都です」と返答した。
「都ちゃんね」
広夢はまたしても大人とは思えないほど無邪気に笑う。顔いっぱいの笑顔は見ているものをたじろがせる。
──大人の男の人の無防備な笑顔って、そう言えばあんまり見たことないかも。
都は茂雄と広夢と共に車に乗りながら、本来の目的を半ば忘れかけていた。
「着きましたよ」
不機嫌そうな声で茂雄が唐突に車を停車させた。都はその声で我に帰り、広夢は後部座席で呑気に鼻歌を歌っていた。
顔を上げて窓から物件を見た都は、息を呑んだ。
──ああ、そういうことか。
都は声には出さずに心の中で呟く。茂雄が車を停めたのは、都が会社帰りに無意識に見とれていた一軒家だったのだ。
夜と昼では家の印象は違ったが、赤い屋根にくすんだ緑色がかった外壁は確かにあの夜に見た家に違いなかった。雑草に覆われていたはずの庭は、以前とは違ってすっかり手入れされている。予想していなかった偶然に、都の胸は高鳴った。
「中もご案内します」
改めて家の外観に見入っていた都は、茂雄に導かれるままに小ぶりなドアを開けた。
「今見るとレトロって感じで可愛いよな、この家」
広夢がひょろりとした腕を組んで伸ばしながら、二人の後を付いてくる。
部屋はコルクタイルの貼られた洋室と、今はほとんど見たことがない組み木のフローリングの洋室、それに畳敷きの和室にキッチンという作りだった。
歴代の居住者が丁寧に住んでいたのか、外観の古さに似ず、部屋は予想よりもずっと綺麗で明るい印象だった。
玄関隣の洋室は日当たりがよく、窓を開けると大きな木が見えた。茂った葉が心地よい影を落としている。都はやはり懐かしい気持ちになって、窓からの眺めに目を細めた。
「あれはオリーブの木です」
茂雄が気を利かせてさっと窓を開け、窓から見える木を指さして説明する。
「そうなんだあ、知らなかったな」
都が何か言う前に、いちいち先回りして広夢が感想を述べた。何なんだこの人は、と思いながらも都は家の居心地の良さに意識が行って、それほど広夢の言動が気にならなかった。
──やっぱりこの家、いいな。
都は内見を済ませると、ますます家に対する想いが強まった。
今の部屋を借りるときは、駅からのアクセスと家賃との兼ね合いで適当に決めてしまった。自分は家にこだわりなどないと思っていたのに我ながら不思議だった。
「あの、二年の期限付きとは言ってもやっぱりお家賃が安すぎるのが気になります」
都は茂雄に質問しながら、多少の事故ぐらいなら目をつぶって借りたいとすら思い始めていた。
「それは、大家さんがどうしても貸したい人を選んでいるためです。気に入らない人にはいくら大金を積まれても貸してくれません」
茂雄の口調も声も、静かだった。都は思わず体を強張らせた。
広夢は都たちの背後で、楽しそうに納戸の扉を開けたり、窓を開け閉めしたりしている。
「久しぶりだなあ。張り紙に気づいてくれた人」
広夢の言葉に都は振り返る。同じことを、茂雄も言ってはいなかったか。
──この家も、この人たちも一体何なんだろう?
都は引っかかりを感じながらも、家に対する何とも言えない懐かしさと、どうしようもなく惹きつけられる自分に戸惑っていた。
「……ちょっと変わった大家さんですが、本質的には悪い方ではありませんので、びっくりされませんよう」
茂雄が含みのある言い方をして、駐車場から都たちを先導するように歩き出した。
そして「こちらです」と茂雄が指さしたのは、築百年は下らないだろう立派な日本家屋だった。
呼び鈴を押すと、パタパタとスリッパを使う音がして、中から人影が現れた。都はあんぐりと口を開けた。
「はじめまして、大家の神谷朔子です」
目の前で甲高い声で自己紹介をしたのは、どう見ても十四、五歳ほどにしか見えない少
女だった。少女は淀みない動きで玄関の三和土にぺたりと正座をし、三つ指をつく。
──間違いない。あのときの少女だ。
都はまたしても声に出さずに呟いた。あの日、雑草の中から現れて都を威嚇した少女。
日本人形のようにつやつやのおかっぱ頭。色白の顔に、主張の強そうな切れ長の目をし
ており、街中にいればすぐにでもスカウトされそうな和風の美少女だった。
「あなた、いつかうちを盗み見していた人でしょう?」
人を食ったように上目遣いをしながら少女が言った。顔を傾けると、しなやかな黒髪が揺れる。
「盗み見なんてそんな。私はただ……きれいな家だなと思って見ていただけです」
──かつがれているのだろうか?
都は少女が「大家だ」と名乗ったことに混乱していた。おまけに初対面にも関わらず、犯罪者のような扱いをしてくることにも。
──大家の娘さん、という意味なんだろうな。
「……お客さんがびっくりしているじゃないですか。失礼な真似は止めてください、朔子さん」
茂雄はため息をついた。朔子はいたずらっぽい目を輝かせて顔を上げる。
「あら、最大の歓待のつもりでしたのに。お気に触ったらごめんなさい」
口先だけで謝りながらも、朔子は値踏みをするように都を見た。
「そうだよ、せっかく久しぶりのお客さんなのに」
広夢が口を挟むとようやくその存在に気付いた様子で、ぱっと顔を輝かせた。
「まあ広夢くんも一緒だったのね。上がってお茶でもいかが?」
年齢の割にずいぶんと古風な口のきき方をする少女だ。都は目の前の朔子という存在が不思議で仕方なかった。
「わーい、ありがとう朔子さん。相変わらず朔子さんは美人だね」
遠慮というものを知らない広夢がさっさと靴を脱いで家に上がり始める。美人と言われても、朔子はまるで顔色を変えず、それについては聞き流していた。
茂雄はため息をつき、「お時間は大丈夫ですか?」と都に確認した。都は図々しいと思いながらも頷き、家に上げてもらうことにした。
三人は朔子に促され、広い客間に通された。天井が高く、調度品の類もすべて時代物だと骨董の趣味のない都でもわかった。
朔子、と呼ばれる少女はしばらく奥に姿を消すと、塗の盆にお茶と干菓子を乗せて戻ってきた。動作がしなやかで、あまり気配がない。
すうと、傍らに日本茶を置かれて都は初めて朔子が戻ってきたことを知り、どきりとする。
「あの家を気に入ってくださったの?」
都の頬に息がかかるほど、朔子はいつの間にか接近していた。足音すらしなかった、と都は訝しんだが、素直に答えた。
「ええ、はい。とても」
朔子は一重まぶたの大きな目で都を見つめた。こちらの思惑をすべて見透かそうとするかのように強い視線。
しばらくの間朔子は穴の開くほど都の目を見ていたが、やがて表情を緩めた。形のいい唇が微笑む形に持ちあがると、年相応に可愛い印象に戻る。
「あの家を気に入ってくれるなんて、若いのに渋いお嬢さんよね。ねえ茂雄ちゃん」
それまで都と朔子のやり取りを静観していた茂雄が口を開いた。
「そうですね、あの家は少し店子さんが空いてしまったから気を揉んでいたんですよ。しかもこんなに気に入ってくれる方が見つかるとは、ありがたい話です」
──それはそうだろう。あんなに怪しい物件情報で、人が寄りつくはずがない。
都はそれとなく観察するが、朔子と茂雄は涼しい顔をしている。広夢は既にお茶に口を付けていて、まったく二人の会話には無関心の様子だ。
「あの張り紙は二年前に張ってから、今日まで一度も問い合わせがなかったのよ」
口に手を当てて笑う少女の仕草はどことなく年配の女性を思わせた。
──まさか。
いくらワケあり(過ぎる)物件だとは言え、あんなにインパクトのある張り紙を見落とすことがあるのだろうか?
都は腑に落ちない思いだった。
「娘さんあなた、自分の疑念を包み隠さず顔に出されるところが、実に素直でよろしい」
ぴしりと朔子が言い、心中を見透かされた都は大いに混乱した。
朔子には、こちらをたじろがせるような眼力がある。
「この方はまだ初対面だ。びっくりされるでしょう?」
「だってほんとのことじゃない、茂雄ちゃん」
不動産屋の茂雄は苦虫を噛み潰したような顔をした。都は意味がよくわからず、自然と大きなまばたきを繰り返した。
「すみません、彼女……ちょっと年齢の割に成熟しているといいましょうか、老成しているといいましょうか、悪気はないんですがその……特殊ではあります」
「特殊」という言葉を使った茂雄に対して、朔子は「失敬な」と言いながら鋭く睨んだ。
「朔子ちゃーん、このお菓子すげー美味しい」
空気を読まないとはこのことだと都は振り返る。案の定、広夢が菊や桜の花を象った上品な干菓子を指でつまんで目の高さまで持ち上げるような動作をしていた。
「おまけにすんごい形がキレイだし」
朔子は何かを言いかけて止め、呆れ笑いを浮かべた。
「広夢くんは、いつまで経ってもコドモね」
そう、どう見ても十四、五歳の少女が達観した表情で言うのだった。
お茶をご馳走になった都は、早々に朔子の前から退散することにした。家は非常に魅力的だったが、あの不思議な少女と接することに疲れた。不動産屋の茂雄の言う通り、悪人というわけではなさそうだが、何しろ変わっていることには間違いがない。
帰りも再びミノワ不動産の軽自動車に乗り込み、走り始めると茂雄が慎重な態度で尋ねた。
「いかがですか?物件自体は、悪くはないと思うのですが……」
「あの雰囲気だと朔子さんも都ちゃんを気に入ってたっぽいよ。いいじゃん、若い女の子がレトロな家に住んでるなんて洒落てるよ」
「少し静かにしてください」
沈黙する都の後ろで広夢はまくし立て、茂雄にぴしりとたしなめられた。が、まったく堪えている様子はない。
「いいと思うけどなあ。あの家、都ちゃんに似合ってるよ」
「あの、」
都は思い切って口を開いた。ずっと朔子の存在が心に引っかかっていた。どう考えても、まだ年端もいかない少女が大家の権限を持っているという状況が常識的ではない。
「大家さんのことですよね」
皆まで言わないうちに、茂雄が話し出した。相変わらずまっすぐに前を向き、運転に集中しているように見える横顔だった。
「あの子はちょっと特殊な育ち方をしまして」
またもや「特殊」だ。
「どういう意味ですか?」
都はあの少女以外、人の気配の感じられない広い家の中を思い出していた。そう言えばあの家には、朔子たち以外の立てる生活音はまったくなかった。
「……両親はあの子が幼い時に離婚して、現在はそれぞれ再婚して家庭を持っています。あの子は祖母に引き取られたのですが、昨年おばあさんが亡くなってからは一人暮らしをしています。まだ十五歳の高校生なのですが」
都は小柄で気丈な、だがそれ以上に儚げな朔子の顔を思い浮かべた。
──私と似ている。
都は内心で動揺していた。都は高校三年生になる年に、「受験勉強に専念したい」という理由で伯母の家を出たのだ。
年長になるにつれて、だんだん都は伯母一家に養ってもらうことが申し訳なくなってきていた。高校在学中にアルバイトをして取りあえずの資金を貯め、逃げるように伯母の家を出た。大学は奨学金を借りて入学した。最初は自炊にも慣れなくて、大変な思いをした。
頑なに自立しようとしていた当時の自分と、朔子の勝気な様子は重なった。
「あの子の住んでいる家とあなたが興味を持ってくださった家はあの子の祖母の持ち家で、死後はあの子に相続されました。祖母が亡くなって以来、すっかりその生き写しのようになってしまって、言動も大人びた……というか古めかしいものになってしまったんです」
世間擦れしたようなことを次々に言う、少女の可憐な横顔が都のまぶたの裏に浮かんだ。脳裏に焼きついたその横顔は、どこか寂しそうに見えた。
「僕はあの子の親戚ですし、ちょうど不動産屋をやっていますので、定期的に彼女の様子を見ながら大家業を手伝っていますが、ほぼ口出しをしなくてもいいほど完璧に家事も大家業もこなしています」
茂雄の顔に一瞬、陰りのようなものが見えてすぐに消えた。朔子への深い同情が感じられた。
それまで黙っていた広夢が口を開く。
「朔子ちゃんはおばあちゃんを失った悲しみを忘れるために、おばあちゃんになりきって仕事に打ち込んでいるのかもしれない」
先ほどまでとは打って変わったまともな意見だった。都は少し広夢を見直す。
──朔子さんには複雑な事情があるけれど、この二人は彼女の力になろうとしてるんだ……。
一人きりで奮闘し、やっと心を許せる相手を見つけたと思っていた恋人にも振られてしまった都には、味方が二人もいる朔子が羨ましく思えた。
「……少し考えて、早めにまた伺います」
都は茂雄と広夢にそう言い置いて、お辞儀をすると車を降りた。
茂雄は顔色を変えずに「そうですか」と言うと、お辞儀を返した。助手席のドアを閉めた都に、広夢は小さく手を振る。
「また会えたら嬉しいな」
すっかり呑気な調子に戻った広夢は屈託のない笑顔を見せる。都は広夢の笑顔に救われた思いがした。




