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二匹の鼠  作者: 春夏かなた


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第7話 山神の怒り

誰もが固唾をのんで白煙の向こうを見つめる中、ただ一人、素早く動き出す影があった。


涼音だ。


立ち尽くす男たちの間を縫うようにすり抜け、迷うことなく上月の背後へ滑り込む。


「おぬしは……」


上月は肩越しに視線を巡らせた。


「しっ」


涼音は人差し指を立て、自らの唇に当てる。


「逃げるよ」


いつの間に手に入れたのか、その手には一本の脇差が握られていた。


涼音は刃を縄に押し当て、上月の腕を縛る太い繊維を削ぎ切ろうとする。


だが、一筋縄ではいかない。


何度刃を走らせても、容易には断ち切れない。


募る焦りが、少しずつ涼音の手元を狂わせていく。


そこへ――。


「逃がさんぞ」


眞田が一気に間合いを詰めた。


鞘走る音とともに刀を抜き放ち、涼音めがけて斬りかかる。


「眞田!」


両腕を縛られたまま、上月は涼音をかばうように眞田の前へ立ちはだかった。


上月と眞田の視線が、激しくぶつかり合う。


「煙が晴れるぞ!」


張り詰めた空気を突き破るように、阿茶屋の鋭い声が飛んだ。


三人は弾かれたように顔を上げ、薄れゆく白煙の向こうへ一斉に目を凝らした。


妖を呑み込んでいた濃霧のような白煙が、急速に薄らいでいく。


そこにあるはずの巨躯は見当たらず、ただ不気味な静寂だけが広がっていた。


「……やったか?」


御子柴が絞り出すように呟く。


その瞬間、阿茶屋が叫んだ。


「来るぞ――ッ!」


晴れかけた煙の破片を突き破り、白影が跳躍した。


人と同じ身の丈へと凝縮した妖は、火縄銃を抱える賊の眼前に一瞬で肉薄し、ギラリと光る長爪を振り下ろす。


――ザシュッ!


悲鳴をあげる隙すら与えず、賊の肉体が宙で無残に切り刻まれた。


「ひ、ひぃっ……!」


返り血を浴びた隣の賊が、ガタガタと震える手で火縄銃を向けようとする。


だが引き金を引くより早く、妖の爪がその胸を容赦なく引き裂いていた。


――ズドンッ!


手元を離れ、宙を舞う火縄銃の暴発音が、凄惨な現場に虚しく響き渡った。


妖は疾風のごとく跳躍し、賊たちの群れへ躍り込んだ。


閃く長爪が容赦なく肉を裂き、骨を砕く。


必死に刀を振り回す者。



なりふり構わず背を向け、逃げまどう者――。


そのどちらも、妖の爪からは逃れられなかった。


断末魔の叫びとともに、次々と人が倒れていく。戦場は一瞬にして、阿鼻叫喚の地獄と化した。


「あの妖は、この山の神の化身なんだ。あんたらは、知らずにあいつの縄張りに踏み込んじまったのさ」


涼音は静かにそう言い捨てた。


上月と眞田は、目の前で繰り広げられる惨劇を呆然と見つめている。


その二人を横目に涼音はそっと後ろに下がり、上月の手を縛る縄に脇差の刃をいれた。


「くそが……!」


御子柴は苛立ちもあらわに舌打ちし、殺気を孕んだ目で阿茶屋を睨みつけた。


「妙なもん、連れてきやがって」


「俺が連れてきたんじゃねぇよ!」


阿茶屋は青ざめた顔で刀を構え直し、荒い息を吐きながら怒鳴り返す。


「御子柴、退くぞ! 馬を押さえろ!」


抜き身の刀を握りしめ、眞田が血走った目で御子柴へ詰め寄った。


「あの化け物が、そう易々と見逃してくれると思うか! ……どうする!」


御子柴は阿茶屋から視線を外し、妖を囲む手下たちへ目を向けた。


賊たちは刀を構えてはいるものの、妖がわずかに身じろぐたびに腰が引け、包囲の輪はじりじりと外へ広がっていく。


誰一人、背を見せられない。


隙を見せれば、次の瞬間にはあの爪の餌食だ。


「チッ……!」


眞田もその有様を睨みつけ、舌を鳴らした。


射抜くような眼光が、再び阿茶屋へ突き刺さる。


「貴様という疫病神さえ現れなければ、こんなことにはならなかったものを……!」


「ふん、そいつはどうだか」


阿茶屋は口の端を吊り上げ、眞田の殺気を真っ向から受け止めた。


眞田の顔が歪む。


刀を握る手に、力がこもった。


「分かっているのか。貴様は今、最悪な時に最悪の場に居合わせているのだぞ」


阿茶屋は鼻で笑った。


「ただの成り行きだ。馬鹿野郎」


二人はしばし睨み合った。


先に視線を切ったのは、眞田だった。


「……散って逃げるぞ。それなら幾人かは生き残れる」


「承知」


御子柴が短く応じる。


「先に行く。例の場所で落ち合おう」


苦虫を噛み潰したような顔で言い捨て、眞田は身を翻しかけた。


その刹那――


「ちくしょうめ!」


阿茶屋が咄嗟に叫び、泥の中へ身を投げ出した。


つられて御子柴と眞田も、反射的に地面へ伏せる。


頭上すれすれを、風を裂く音が走り抜けた。


鞭のようにしなり、異様に伸びた妖の腕が、空を薙ぎ払っていく。


伸びきった腕がするすると縮み、元の長さへ収まった。



妖は三人を見下ろしながら、じわりと距離を詰めてくる。


三人は泥と枯れ草にまみれたまま跳ね起き、刀を構えた。


「逃げれそうにないな」



「やるしかねぇ」


阿茶屋と御子柴は一瞬だけ顔を見合わせ、妖へ向かって駆け出した。


「……っ」


眞田も刀を構え直し、少し遅れて二人の後に続く。


まさにその時――。


「どいて!」


背後から、凛とした声が飛んだ。



思わず踏み止まった眞田の脇を、涼音が駆け抜ける。



その手には、導火線から火花を散らす炮烙球が握られていた。


「喰らいな!」


涼音は腕を振り抜き、妖の胸元めがけて炮烙球を投げつけた。


ごつ、と硬い音が響く。



黒い球は妖の胸に弾かれ、その足元へ転がり落ちた。


「なにっ――!?」


間合いを詰めていた阿茶屋と御子柴が顔色を変え、なりふり構わず後ろへ跳ぶ。


――轟!


紅蓮の炎が噴き上がり、爆風が二人をまとめて吹き飛ばした。



阿茶屋は泥の上を何度も転がり、ようやく片肘をついて身を起こす。


「味方まで巻き込むんじゃねえええっ!」


煙の向こうへ怒鳴った、その瞬間。



白い影が煙を裂いて飛び出してきた。


爪が振り下ろされる。


阿茶屋は咄嗟に身を捻った。



すぐ脇の地面を爪がえぐり、泥が顔に跳ねかかる。


「おりゃあっ!」


間髪入れず、御子柴が妖の背後から斬りかかった。



振りかざした刀の先には、妖を挟んで阿茶屋がいる。


「てめえっ!?」


阿茶屋は怒声を浴びせながら、間一髪で後方へ身を躍らせる。


「テメェとなれ合うつもりはねぇ」


御子柴は刀を振り抜きながら、一瞬ニヤリと笑って吐き捨てた。


            ♢

「やっぱり……あんた、倉沼の屋敷にいた奴だね」


爆風を背に振り向いた涼音が、眞田をまっすぐに見据えた。



眞田の眼光が、すっと冷える。


「何奴だ、小娘――ッ!」


言うなり、切っ先を涼音の喉元へ突きつけた。



だが、涼音は眉ひとつ動かさない。



刃を突きつけられたまま、ちらりと山道の奥へ目をやった。


先ほどの轟音に怯えたのだろう。木立の向こうから、けたたましい馬の


嘶きが響き続けている。


涼音は口の端を吊り上げた。


「さて――帝は、どっちに賭けたんだろうね」


「なっ……」


眞田の顔が引きつった。



切っ先が、わずかに揺れる。


その隙に、涼音は身を沈めた。



刃の下をくぐり抜け、地を蹴る。



馬の嘶く方へ、一目散に駆け出した。


「待てっ!」


一拍遅れて、眞田もその後を追った。


               ♢

木立の陰に身を潜めていた足軽たちは、汗と泥にまみれた上月の姿を見るなり、息を呑んだ。


「わ、若様……! よくぞご無事で……っ」


「静かにしろ」


上月は短く制し、手前の足軽の背後へ回った。



涼音から受け取った脇差を縄の隙間へ差し込み、力を込めて断ち切る。


腕を解かれた足軽が、ふと顔を上げた。


「わ、若様……あそこ! 眞田様が、あの娘を追っていきやす!」


示された方へ、上月も目を向ける。



木立の向こうを涼音が駆けていく。そのすぐ後ろに、抜き身の刀を手にした眞田が迫っていた。


「あ奴め……!」


上月は奥歯を噛みしめた。



次の縄へ伸ばしかけた手が止まる。


足軽たちは顔を見合わせた。


「行ってくだせぇ、若様! 後はあっしらでやっておきやす」


縄を解かれた足軽が、赤くなった手首をさすりながら言った。


「そうですぜ! 早く行ってくだせぇ!」


まだ縛られたままの者たちも、口々に促す。



上月は一人ひとりの顔を見回し、小さく頷いた。


「頼んだぞ、佐々木」


目の前の足軽に、脇差を手渡す。


「皆でこの場を離れよ。生きて、また会おう」


そう言い残し、上月は身を翻した。



倒れた賊の傍らから刀を拾い上げ、そのまま眞田の後を追って駆け出した。



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