第8話 意地の一撃
妖の腕が、横薙ぎに唸った。
ドゴッ!
鈍い衝撃とともに、阿茶屋と御子柴の身体がまとめて宙へ浮く。
二人はそのまま泥の上へ叩きつけられた。
二転、三転。
阿茶屋は泥を掻くようにして勢いを殺し、どうにか片膝を立てる。
すぐ隣では、御子柴も刀を杖にして身を起こしていた。
「……しぶてぇ野郎だ」
御子柴は血の混じった唾を吐き捨て、横目で阿茶屋を睨む。
「テメェこそな」
阿茶屋は手の甲で口元をぬぐった。
その手を下ろしきらないうちに――。
ひゅっ。
白い腕が、再び伸びてきた。
阿茶屋と御子柴は同時に地を蹴った。
「ついてくるんじゃねぇ」
「テメェもだ」
二人は肩を並べて、生い茂る木々の陰へ飛び込んだ。
♢
けたたましい嘶きが、山道に響き渡った。
三頭の駄馬が、狂ったように前脚を振り上げている。
背の千両箱がぎしぎしと軋み、荷を括った縄が今にも千切れそうに張りつめていた。
その蹄のあいだを、後ろ手に縛られた男が駆けずり回っている。
矢作だ。
「落ち着け! 頼むから落ち着いてくれ!」
一頭の前へ回り込めば、別の一頭が後ろで跳ねる。
慌てて振り向いたところへ、振り下ろされた蹄が鼻先をかすめた。
「うおっ……!」
のけぞった拍子に足がもつれ、矢作は尻から泥の中へ倒れ込んだ。
両手が使えない。
肩と膝で地面を押し、どうにか起き上がる。
その目の前で、木に括りつけられた手綱が限界まで張り詰め、一頭が首を振り立てて土を蹴散らした。
先ほどの轟音に怯えきった馬たちは、白目を剥いて竦み上がり、いっそう高く嘶いた。
「頼む……頼むよ……!」
矢作は縛られた身体ごと馬の首へ寄りかかろうとした。
だが、馬は大きく首を振ってそれを撥ねのける。
矢作はまたたたらを踏み、蹄の届かない間合いへ転がり出た。
「あんちゃんっ!」
木立の向こうから涼音が駆け寄ってくる。
矢作は振り返って、目を見開いた。
「お前、なんで戻ってきた……!」
「それより、馬を逃がすんだ」
「お、おお」
矢作はくるりと体の向きを変え、縛られている後ろ手を見せた。
涼音の指が結び目にかかる。
(これなら、すぐ解けるか)
涼音は手早く縄をさばきはじめた。
「あんちゃんだけかい」
「ああ……ほかの奴らは、みんな逃げちまった」
ほどなくして、縄が足元へ落ちた。
矢作は痺れた腕を、確かめるように強くさすった。
「さあ、早く」
涼音の鋭い声に、矢作ははっと顔を上げ、力強く頷いた。
その時だった。
「――そうはさせんぞ!」
怒号が木立を震わせた。
茂みを掻き分けて、眞田が姿を現す。
肩で荒く息をつき、額の傷から流れた血が、片頬を赤黒く汚していた。
「さ、眞田様……!」
矢作の顔が凍りついた。
陽の光を受け、眞田の白刃がぎらりと禍々しく光る。
だが、涼音は怯まず、馬を繋いだ木へ向かって駆け出した。
矢作は一瞬迷いを見せたが、その背をちらりと見ただけで、眞田へ向き直り地を蹴った。
「うおおおおおっ!」
丸腰のまま、真正面から突っ込んでいく。
眞田の刀が一瞬遅れた。
ドスッ!
岩のような肩が、眞田の胴へめり込んだ。
矢作はそのまま両腕で眞田を抱え込み、もつれ合って泥の中へ倒れ込む。
「ぐはっ……!」
仰向けに転がった眞田が、矢作を押しのけ、刀を振り上げようとする。
だが、その時にはもう――。
涼音の手が、木に繋がれた手綱の結び目を引き抜いていた。
「ほら、行きな」
涼音は自由にした一頭に向かって両腕を振りながら叫ぶ。
駄馬は甲高く嘶き、千両箱を背に揺らしながら、山の奥へ飛ぶように駆け去っていった。
♢
木々の合間を、妖がゆっくりと歩いていた。
何かを探すように、狐面を左右へ巡らせている。
時折、馬の嘶きのする方へ面を向けては、また木立へと視線を戻す。
その足が、ふいに止まった。
耳をそばだてるように、じっと動かない。
やがて、その面が一本の巨木へ向けられた。
(やべぇ……気づかれたか)
巨木の陰で身を縮め、息を潜めていた阿茶屋は、奥歯を噛んだ。
妖の気配が、じりじりと近づいてくる。
阿茶屋は幹に背を沿わせ、足音を殺して回り込みはじめた。
妖もまた鼻を蠢かせ、幹を迂回するように足を進める。
ひとつ、ふたつ。
巨木を挟んで、互いに円を描くように巡っていく。
その時――。
カサッ。
すぐ近くで、乾いた小枝が折れた。
妖がぴたりと足を止める。
そして、ゆっくりと音のほうへ向き直った。
その先に、顔をしかめて立ち尽くす御子柴の姿があった。
ザッ!
御子柴が地を蹴った。
それを見て、阿茶屋も御子柴を追う。
「どこ行くつもりだ」
「あぁ?言う訳ねぇだろ」
言い合う二人の背後を、妖がゆっくりと追っていく。
♢
一頭目を放った涼音は、間髪入れずに二頭目の手綱へ手を伸ばしていた。
「おのれ……!」
眞田が顔を真っ赤にして跳ね起きる。
同じく身を起こした矢作へ、その切っ先が向け直された。
矢作は足を踏み出せず、切っ先を見据えたまま立ち尽くす。
その時だった。
「眞田ぁ!」
叫び声が、木立にこだました。
眞田の目が、声のほうへ逸れる。
その一瞬を、矢作は見逃さなかった。
泥を蹴立て、三頭目が繋がれた木へ向かって駆け出す。
「待てぇ!」
眞田が後を追う。
木立の向こうから駆けてきた上月が、それを見るや、走る向きを変えた。
矢作の手が、木へ伸びる。
その背に、眞田の刃が迫った。
同じ時、涼音の指が二頭目の結び目を引き抜いた。
ヒヒーーンッ!
甲高い嘶きが、辺りを裂いた。
二頭目の駄馬が山奥に消えていく。
涼音はゆっくりと振り返った。
その目が、大きく見開かれていく。
泥の中に、矢作が転がっていた。
その場所に立っていたのは、上月だった。
振り下ろされた眞田の刃を、その身で受け止めるようにして。
泥を払って顔を上げた矢作が、目の前の背中を見上げる。
「こうづき……様……」
その声が震えていた。
「上月……!」
眞田が目を見開き、よろめくように後退った。
「……掠り傷だ」
上月が、掠れた声を絞り出す。
だが、着物の胸元には、みるみるうちに赤黒い染みが広がっていった。
「……貴様を斬るつもりはなかったのだ」
眞田は顔を歪め、刃を下ろした。
「なら、なぜ裏切った……!」
上月は片手で胸を押さえながら、それでも刀を構え直した。
切っ先が、わずかに震えている。
誰も動かない。
その静寂を――。
「馬が一頭しかいねぇじゃねぇか!」
だみ声が破った。
馬を挟んだ向こう側の木立から、御子柴が飛び出してくる。
そのすぐ後ろには、阿茶屋の姿もあった。
「やっぱりテメェ、一人で逃げる気だったか」
毒づいた阿茶屋の目が、ふと馬の向こうで止まった。
「上月様……!」
胸を赤く染めた上月と、刀を下げた眞田。
阿茶屋の目が二人に奪われた、その一瞬に、御子柴が最後の一頭へ向かって踏み出した。
「行かせるかよ!」
阿茶屋の一撃を、御子柴が刀で強引に弾き返す。
(今だ)
二人が打ち合う隙に、涼音は三頭目の木へ向かおうとした。
だが、その足が止まる。
最後の一頭のかたわらに、いつの間にか白い影が立っていた。
妖が、馬の首を撫でている。
「来おったか、化け物め」
上月が、ゆっくりと妖へ顔を向けた。
次の瞬間、妖が地を蹴った。
一足飛びに間合いが詰まる。
振りかざされた爪と上月とのあいだへ、割り込む影があった。
眞田だ。
「眞田!」
「ぐはっ……!」
上月の叫びに、呻き声が重なった。
妖の爪が、眞田の脇腹を引き裂いている。
だが、眞田は退かなかった。
その腕を、自らの脇でがっちりと抱え込む。
「上月! 短筒を――!」
叫びは、半ばで途切れた。
妖が腕を振り払う。
眞田の身体が宙を舞い、泥の上へ叩きつけられた。
その一瞬に、上月は懐の短筒を引き抜いていた。
阿茶屋から託された、あの短筒だ。
迫りくる妖の額へ、筒先をじかに突きつける。
迷わず、引き金を引いた。
カチリ。仕込まれた火打ちが火花を散らす。
――ズドンッ!
轟音が、辺りの空気を震わせた。
至近距離から放たれた一撃は、狐面もろとも、妖の頭の半分を粉々に吹き飛ばしていた。
「ぐっ」
刀にもたれながら、眞田が泥の中から立ち上がる。
「……やったか」
御子柴と刀をあわせたまま、阿茶屋が呆然と呟いた。
(……火がいらなかったんだ、あれ)
涼音は心の中で舌を出した。
頭を半分失ったまま、妖はふらりと身を揺らした。
だが、倒れない。
その姿がゆっくりと霧にほどけ、山の奥へ溶けていった。




