第3話 険悪な出会い
「それじゃ、その子は動かないよ」
張り詰めた空気を破るように、場違いなほど軽やかな声が飛んできた。
上月は短鞭を振り上げたまま、ぴたりと動きを止める。
「誰だ!」
鋭い声を上げ、辺りを見回した。
直後、道脇の藪ががさりと大きく揺れる。
枝葉をかき分けて姿を現したのは、小柄な娘――涼音と、その後ろから気だるげに歩いてくる阿茶屋だった。
「お前らは……」
上月は短鞭を地面へ放り捨て、素早く腰の刀に手をかけた。
その隣では、眞田がすでに刀を抜き、二人の動きを油断なく見据えている。
先を歩いていた護送隊の男たちも異変に気づき、慌ただしく引き返してきた。
「待て、待て。物騒な真似はよしてくれ。俺たちは怪しい者じゃねえ」
阿茶屋は大げさに両手を上げ、敵意がないことを示しながら、ゆっくりと歩み寄った。
「町奉行所同心、阿茶屋竜之進だ」
「同心だと……?」
眞田は切っ先を下ろさぬまま、阿茶屋の風体を値踏みするように見据えた。
「町方が、このような山中で何をしている」
上月も疑わしげに目を細める。
「そいつは――」
阿茶屋は傍らの涼音へちらりと目をやり、渋い顔で視線を逸らした。
都で手配されている盗人を護送していると話せば、また余計な詮索を受けかねない。
どう答えたものかと言葉に詰まった、その時だった。
「そんなことよりさ」
涼音が横から、あっけらかんと口を挟んだ。
「あんたたち、なんにも分かってないね。あんぽたんだ」
「……なんだと?」
上月の眉が、怒りでぴくりと動いた。
だが、涼音は周囲の険しい視線など気にも留めず、立ち止まった駄馬へ近づいていく。
そして、強張った首筋を優しく撫でた。
「この子はね、怖がってるんだよ」
「怖がっている?」
矢作が地面に落ちた短鞭を拾い上げながら、不思議そうに駄馬の顔をのぞき込んだ。
「どういうことだ。何を怖がっている」
「この山には妖がいるんだ。この子は、そいつの気配を感じて、動けなくなってるのさ」
「妖だと……?」
矢作の顔から、先ほどまでの飄々とした笑みが消えた。
周囲の男たちも顔を見合わせ、不安げなざわめきが広がっていく。
「まことか」
上月が、確かめるように阿茶屋へ厳しい視線を向けた。
「ええ。まんざら嘘でもありません」
阿茶屋は先ほどまでの飄々とした様子を引っ込め、神妙な顔で頷いた。
「御一行が何を運んでおられるのか、野暮な詮索はいたしませんがね。ここは道を変えられた方がよろしいかと存じます。上月様」
名を呼ばれ、上月の顔がわずかにこわばった。
阿茶屋の真意を探るようにじっと見据えたあと、口を引き結び、考え込むように俯いた。
その重い沈黙を断ち切るように、鋭い声が響いた。
「上月。まさか、この者どもの戯言を信じられるおつもりか」
眞田が抜き身の刀を手にしたまま、じりじりと阿茶屋たちとの間合いを詰める。
「眞田、控えよ」
上月がたしなめるように名を呼んだ。
だが、眞田は足を止めない。
「このような山中へ突然現れた、得体の知れぬ者どもです。易々と信用してはなりませぬ」
眞田は阿茶屋の鼻先へ、容赦なく刀の切っ先を突きつけた。
「貴様らの言葉を信用してほしければ、確たる証拠を見せてみろ」
「……証拠ですかい」
眼前に突きつけられた白刃を見つめたまま、阿茶屋はすっと目を細めた。
その顔に、怯えた様子はない。
「それなら、ちょうどいい。あの藪の向こうにありますよ」
阿茶屋は顎をしゃくり、自分たちが出てきた藪を示した。
「俺たちは向こうの獣道を通ってきたんですがね。その途中で、何かに襲われた跡を見つけたんです」
「何かとは……本当に妖だとでも言うのか」
上月の声が、わずかに上ずった。
「さあ。そこまでは俺にも分かりませんがね」
阿茶屋は片方の口の端を上げ、わざとらしく首を傾げてみせる。
「ただね、俺も長いこと町方をやっています。それなりに血生臭い現場も見てきましたが……あんな有様は、ついぞ見たことがねえ」
阿茶屋は顔をしかめ、ゆっくりと首を振った。
「木はへし折られ、地面は深く抉られていた。刃物を持った人間や、そこらの獣がやったとは思えねぇ有様でしたよ」
「そのようなものが、すぐそこに……」
上月をはじめ、男たちの視線が一斉に藪の奥へ向けられた。
風が枝葉を揺らす。
ざわりと響いたその音に、何人かの男が顔を強張らせた。
「世迷言だ。誰がそのような作り話を信じるものか」
眞田だけは刀を下ろさず、阿茶屋を鋭く睨みつけている。
「そ、そうだ。眞田の申すとおりだ」
上月も我に返ったように声を上げた。
男たちも、それに続いて何度も頷く。
「……なら、ご自分の目で確かめてみてください。眞田様」
阿茶屋は表情を消し、藪の方へすっと手を差し向けた。
「証拠を見せろとおっしゃったのは、あんたでしょう」
「……っ」
眞田の顔が、一瞬だけ強張った。
刀を握る手に力が入り、指の節が白く浮かび上がる。
だが、その足が暗い藪へ向かって踏み出されることはなかった。
「もうよい、眞田。引け」
上月が低い声で制した。
その声には苛立ちと、わずかな疲れが滲んでいる。
「しかし! このような得体の知れぬ者どもを、このまま放っておくわけには――」
「ねえ」
なおも食い下がろうとする眞田の言葉を、涼音の気の抜けた声が遮った。
眞田が苛立たしげに振り返る。
涼音は怯むどころか、その険しい顔を面白そうに見つめながら、小首を傾げた。
「あんた、先月、都に行かなかった?」
「……何の話だ」
唐突な問いに、眞田は不快げに眉をひそめる。
「いやね。どこかで見た顔だなあと思ってさ。大きなお屋敷の前で」
涼音は眞田の顔から目を離さず、一言ずつ確かめるようにゆっくりと告げた。
「何を馬鹿なことを言っておる。俺は都になど行っておらぬぞ」
眞田は馬鹿馬鹿しいとばかりに鼻で笑った。
だが、その背後から上月の低い声が飛ぶ。
「……眞田」
上月の低い声に、眞田の肩がわずかに動いた。
「お前、先月、倉沼様のところへ行っておったではないか」
「――っ」
眞田の喉が詰まり、乾いた音を立てる。
そのわずかな動揺に、涼音はすっと目を細めた。
「……ああ、いや。そういえば行っておりましたな。些細な用件ゆえ、すっかり忘れておりました」
眞田は頬を引きつらせながら、取り繕うように笑ってみせる。
「忘れていた、だと?」
上月の目が、疑わしげに細められた。
「そ、それよりも、我らは先を急がねばならないのではないか」
眞田はその視線から逃れるように顔を背け、抜いていた刀を鞘へ納める。
かちゃり、と鯉口の鳴る硬い音が響いた。
上月はなおも、その横顔をじっと見据えていた。
「上月様」
そこへ矢作が近寄ってくる。
「駄馬の方、もういけそうですぜ」
上月が目を向ける。
先ほどまで頑として動かなかった駄馬が、いつの間にか立ち上がっていた。
周囲では、護送隊の男たちが不安げな表情でこちらの様子をうかがっている。
上月はもう一度、眞田へ目を向けた。
だが、やがて小さく息を吐き、視線を山道の先へ戻す。
「……まあ、よい。今はな」
含みを持たせたその一言に、眞田の眉がかすかに動く。
そこへ阿茶屋が、ゆっくりと一歩前へ出た。
「実は、もう一つ、お耳に入れておきたいことがございます。上月様」
先ほどまでの飄々とした態度を引っ込め、阿茶屋は姿勢を正して恭しく頭を下げた。
「なんだ。申してみよ」
上月は油断なく目を細めながら、顎で先を促す。
「はっ。御一行、どうやら性質の悪い賊に、しばらく前からつけられているようで」
その一言が落ちた途端、護送隊の男たちの間に緊張が走った。
阿茶屋が何気なく懐へ手を差し入れる。
「貴様、何をする!」
眞田が血相を変えて身構え、後ろに控えていた男たちも一斉に刀の柄へ手をかけた。
だが、上月がすぐさま片手を上げる。
「待て」
低い声に、男たちの動きが止まった。
阿茶屋はそれを見届けてから、懐より鈍い光を放つ鉄の筒を取り出した。
「御一行のあとを嗅ぎ回っていた賊が、こんな物騒な代物を持っておりましてね」
阿茶屋が両手で差し出したのは、一挺の短筒だった。
「ほう……短筒とはな」
上月はわずかに目を見開き、それを受け取った。
手のひらに伝わる重みを確かめるように、短筒をじっと眺める。
高価な飛び道具を、ただの野盗が易々と持てるものではない。
男たちの視線も、阿茶屋から短筒へと移っていった。
「これを持っていた者は、何人いた」
上月が短筒を見つめたまま問いかける。
「姿を見たのは数人ですが、ほかにも仲間がいるでしょうな」
「待ち伏せか」
「ええ。念入りに支度を整え、この先のどこかで網を張っていると見て間違いないでしょう」
上月は黙って山道の先へ目を向けた。
鬱蒼とした木々の間を縫う細い道は、先へ進むほど薄暗さを増している。
「俺たちが近くの町で応援を呼んできます。ここで待っていてくだせえ」
阿茶屋は上月の目を見ながら進言する。
上月は短筒を懐へ収めると、ゆっくりと息を吐いた。
「それでは、期限には間に合わぬ」
その声には、先ほどまでの苛立ちはなかった。
「我らは、この先に何が待ち受けていようとも、進まねばならぬのだ」
そう言い切ると、阿茶屋へ向き直り、まっすぐに目を合わせた。
「危ういところを教えてくれた。忠告、感謝する」
「いえ」
阿茶屋は上月の顔をしばし見つめた。
上月もまた、じっと阿茶屋を見返している。
「……道中、くれぐれもお気をつけなすって」
阿茶屋はそれだけ言うと、深く頭を下げた。
上月は小さく頷くと、護送隊の男たちへ向き直った。
「皆、聞いたな。ここから先は、これまで以上に気を抜くな」
男たちの表情が引き締まる。
「行くぞ!」
上月の号令に、男たちはそれぞれの持ち場へ戻り、慌ただしく出立の準備を始める。
馬子は駄馬の手綱を取り直し、護衛の男たちは周囲へ目を配りながら隊列を整えていった。
「やるじゃないか、君」
男たちが慌ただしく持ち場へ戻っていく中、矢作がひょいと涼音のそばへ歩み寄り、面白そうに声を潜めた。
「うん?」
涼音はきょとんとした顔で、矢作を見上げる。
「さっきの話だよ。都で眞田様を見かけたってやつ。あれ、はったりだろ」
「さあね。どうだか」
涼音は悪びれる様子もなく、ふふっと笑った。
だが、すぐに眞田へ目を向ける。
「あの眞田って人、ちょっと引っかかるんだよね」
「眞田様が? どうしてだよ」
涼音はにっこりと笑って、軽く肩をすくめた。
「まあ、気にしておいて損はないよ」
矢作は怪訝そうに眉をひそめる。
その時――。
「おい、矢作! 何をしてる。早く来い!」
少し離れたところから、仲間の馬子が声を張り上げた。
「おう、今行く!」
矢作は返事をすると、涼音へ軽く手を上げた。
「じゃあな、お嬢ちゃん」
「うん。気をつけてね」
涼音も小さく手を振り、その背中が男たちの間へ戻っていくのを見送った。
「行くぞ」
阿茶屋が近寄り、声をかける。
「うん」
涼音は素直に頷き、くるりと身を翻した。
二人は護送隊の喧騒に背を向け、そのまま山道を歩き出す。
その時だった。
乾いた破裂音が、山道に鳴り響く。
「えっ!」
二人は慌てて振り返った。




