第1話 阿茶屋と涼音
なだらかな傾斜が続く、山あいの荒れ道。
鬱蒼と生い茂った木立が陽の光を遮り、辺りにはひんやりと湿った空気が漂っている。
その薄暗い道を、二人の男女が歩いていた。
先を行くのは、細い手首に縄を掛けられた小柄な娘――涼音。
その少し後ろを、縄の端を気怠げに握った男――同心、阿茶屋竜之進が歩いている。
(まったく、とんだ貧乏くじを引かされたもんだ)
涼音の華奢な背中を眺めながら、阿茶屋は深々とため息をついた。
思い出すだけでも腹立たしい。
事の発端は、昨日の昼下がりだった。
奉行所の廊下を歩いていた阿茶屋は、上役である与力の林田に呼び止められた。
「ああ、阿茶屋さん。ちょうどいいところに」
林田の妙ににこやかな声を聞いた瞬間から、嫌な予感はしていた。
だが、しがない同心の身である。
露骨に嫌な顔をするわけにもいかず、阿茶屋は形ばかりに頭を下げた。
「なんでしょう、林田様」
「あなたが昨日捕まえた、スリの娘のことですがね」
「何か素性でも割れましたかい」
「ええ。どうやら、都でもお尋ね者になっているようです」
「都からですか。あの小娘が、何をやらかしたんで?」
「どこぞのお歴々の屋敷へ忍び込んだとか。詳しいことまでは、こちらにも降りてきていませんがね」
「そうですか」
「ええ。ですから、詳しい取り調べは向こうの役人がやるそうです」
「そりゃ、よかった」
阿茶屋は胸をなで下ろした。
「スリの取り調べなんて面倒ですからね。これで少しは楽ができます」
「あなたは楽なんてできませんよ」
「へっ、なんでです?」
林田は懐から書状を取り出すと、阿茶屋の胸元へ押しつけるように差し出した。
「明日から、あの娘を都まで護送してください」
「……はあ? なんで俺なんですか」
「『はあ』ではありません。上からの指図です。逆らえませんよ、お互いに」
「そ、そんな無茶なああああ!」
――というわけで。
阿茶屋は素性も知れぬスリの小涼音を連れ、はるばる都まで足を運ぶ羽目になったのである。
「なに、人のケツじろじろ見てるんだよ」
不意に飛んできた甲高い声に、阿茶屋はハッと我に返った。
いつの間にか、前を歩いていた涼音が首だけを後ろへ向け、じとりとこちらを睨んでいる。
考え込むあまり、ずっと涼音の尻の辺りへ目を向けてしまっていたらしい。
阿茶屋は気まずさをごまかすように、視線を明後日の方へ泳がせた。
「べ、別に見てねぇよ。それより、前向いて歩け。木の根に躓いてすっ転んでも、助け起こしてやらねぇぞ」
「そうかい」
涼音は疑わしげに目を細めたものの、それ以上は追及してこなかった。
小さく首を傾げると、再び前を向いて歩き出す。
阿茶屋もようやく視線を戻し、気を取り直すようにひとつ大きく息を吐いた。
しばらくの間、草や小石を踏む二人の足音だけが、寂れた山道に続いた。
「なあ、おっちゃん」
やがて、涼音が前を向いたまま声をかけてきた。
「ん?」
阿茶屋は気のない返事をよこした。
「本当に、この道で合ってるのかよ」
涼音は歩みを緩め、大きな目をきょろきょろと動かして辺りを見回す。
「さっきから誰ともすれ違わないじゃないか。本当に都へ行く道なんだろうね?」
確かに、都へ続く道にしては、あまりにも人通りがなかった。
道幅は狭く、ところどころが背の高い雑草に覆われている。
転がる小石や地面から浮き出た木の根が足を取り、両側から迫る木立のせいで昼間だというのに薄暗い。
立派な街道と呼ぶには、いささか心細い裏道であった。
「罪人を連れてるんだ。大手を振って表街道を歩けるかよ」
阿茶屋がぶっきらぼうに答える。
「罪人、ねえ」
涼音は足を止めることなく、縄を掛けられた自分の手首へちらりと目を落とした。
「おいらは、ほんのちょいと拝借しただけなんだけどな」
「ほんとに返す気はあったのか?」
阿茶屋が半眼になって疑いの目を向ける。
涼音は肩越しに振り返ると、悪びれもせず、ぺろりと舌を出した。
「まあ、ないけどね」
「……ったく、可愛げのねぇ」
阿茶屋は呆れたように息を吐いた。
それから、ただの世間話でもするように、何げない口調で問いかけた。
「都のお侍様の屋敷でも、何か拝借したいものがあったのか?」
涼音の足が、ぴたりと止まった。
ほんの一瞬だった。
すぐに何事もなかったかのように歩き出し、肩越しに阿茶屋を振り返る。
「なんのことかな。おいら、しがないスリだぜ?」
「まあ、無理に答えなくてもいいけどな」
阿茶屋は肩をすくめ、涼音の横を通り過ぎて先へ出た。
「どうせ都へ着けば、向こうの役人に嫌ってほど油を絞られるんだ。今のうちに、ましな言い訳でも考えとけよ」
背を向けたまま、阿茶屋は意地悪く口の端を吊り上げた。
「……この野郎」
涼音は、先を歩く阿茶屋の隙だらけの背中を睨みつけた。
だが、その大きな瞳が、すぐにいたずらっぽく細められる。
(ちょいと、からかってやるか)
涼音は口元に笑みを浮かべると、不意にその場で足を止めた。
涼音の手首と阿茶屋の手をつなぐ縄が、ぴんと張る。
「どうした。さっさと歩け」
振り返った阿茶屋が、急かすように縄を引いた。
「ねえ、おっちゃん。この道、やっぱりやめとこうよ」
「はあ? 何を今さら」
阿茶屋は怪訝そうに眉根を寄せた。
涼音はおもむろに両手を胸元へ寄せ、辺りの薄暗い木立へ怯えたような視線を這わせる。
「だって……この山には、妖が出るんだよ」
そう言った途端、小さな肩が小刻みに震え始めた。
「……お前、怖いのか?」
「当たり前だろぉ……」
声まで震わせながら、涼音はその場にぺたりとしゃがみ込んでしまった。
阿茶屋は心底呆れたように、大きなため息をつく。
「あのなあ。妖くらい、出たって俺が斬り捨ててやるよ」
仕方なく、しゃがみ込んだ涼音のそばまで歩み寄り、手にしていた縄をぐいと引いた。
「ほら、行くぞ」
――しかし。
手応えがなかった。
阿茶屋の引いた縄は、涼音の手首からするりと抜け落ち、その先端が虚しく宙を舞う。
「なっ――」
阿茶屋が驚きに目を見開いた、その瞬間。
「今だ!」
先ほどまで怯えていた涼音が、弾かれたように立ち上がった。
そのまま地面を強く蹴り、一気に山道を駆け出す。
鮮やかな縄抜けだった。
小さな身体は木の根や石を軽々とかわし、まるで野山を駆ける獣のように、荒れ道の先へ飛んでいく。
「まっ……待て!」
阿茶屋が慌てて手を伸ばしたが、その指先は虚空をつかんだ。
涼音の背中はみるみる遠ざかり、今にも木立の影へ紛れようとしている。
「こら、待ちやがれ、クソガキ!」
阿茶屋は盛大に悪態をつくと、腰の刀をばたつかせながら、全速力でその後を追いかけていった。




