序章
「ただいま戻りました、父上」
居間の襖を開け、上月伊佐緒は敷居の前で深く頭を下げた。
「おお、伊佐緒か。忙しいところ、よく来てくれたな」
上座に座る上月勇臣が、久方ぶりに顔を見せた息子を柔らかな笑みで迎える。
「いえ。それより父上、お身体の具合はいかがですか」
「なに、どうにかやっておるわ」
勇臣は何でもないことのように笑ってみせた。
伊佐緒が顔を上げると、父の少し下がったところに、眞田幸之助が正座していた。
「なんだ。お前も呼ばれていたのか、眞田」
「はっ」
眞田は正座したまま、恭しく頭を下げた。
だが、その顔は心なしか強張っている。
伊佐緒は眞田の隣へ腰を下ろすと、その横顔を覗き込んだ。
「どうした。まさか緊張しているのか」
「こうして改まって殿の御前に呼ばれるのは、久方ぶりでございますからな」
眞田は苦笑を浮かべ、どこか歯切れ悪く答えた。
「そう畏まることもあるまい。楽にせよ」
勇臣は二人を見渡すと、穏やかにそう告げた。
「二人とも、このたびの税の取りまとめ、ご苦労であった」
「もったいなきお言葉にございます」
伊佐緒と眞田は声を揃え、深く頭を垂れた。
「まったく、おぬしらも悪よのう。二人のおかげで、今年も領民から六千両もの大金を搾り取ることができたわ」
ひれ伏す二人を眺めながら、勇臣は楽しそうに口元を緩めた。
「父上、あまりに過ぎたお戯れです」
伊佐緒は顔を上げ、困ったように眉をひそめる。
「ははは。これくらい言わねば、いつまでたってもその堅い顔がほぐれぬからな。こちらまで息が詰まってかなわんわ」
勇臣が柔らかな笑みを向けると、眞田もようやく小さな苦笑を漏らした。
「本音を申せば、この六千両を持って逃げ出したいところだが……さすがに、そうもいくまい」
「当然でございます」
伊佐緒は表情ひとつ変えず、即座に答えた。
「まったく、冗談の通じぬやつよ」
勇臣は小さく息をついた。
だが、次に二人へ向けた顔からは、それまでの柔和な笑みが消えていた。
「そこで、おぬしらに頼みがある。この六千両を御上への上納金として、都まで運んでもらいたい」
勇臣の鋭い眼差しを受け、伊佐緒と眞田は揃って居住まいを正した。
「できるな」
「はっ。身命を賭して、必ずや」
伊佐緒と眞田は、揃って深く平伏した。
「うむ。ただし――」
勇臣は声を落とした。
「この儀、くれぐれも内密に進めよ」
「内密に、でございますか?」
伊佐緒が顔を上げ、訝しげに眉をひそめる。
「……何か不服か」
「いえ。ただ、御上への上納金を運ぶのであれば、むしろ公にするのが筋かと存じますが」
勇臣は小さく喉を鳴らし、伊佐緒からわずかに視線を外した。
「……時は太平とはいえ、何が起こるか分からぬ。用心に越したことはあるまい」
「……はっ」
伊佐緒の眉間には、なおも薄く皺が残っていた。それでも、それ以上は問わず、静かに目を伏せる。
「ともあれ、この儀は密事。ゆめゆめ他言は無用ぞ。細かな差配は、眞田と相談して詰めよ」
「御意。しかと承りました」
二人は一糸乱れぬ動きで、再び深く平伏した。
「では、拙者はこれにて失礼つかまつります」
眞田は一礼すると、静かに腰を上げた。
「もう下がるのか」
「はっ。片づけねばならぬ公務が、まだ山積しておりますゆえ」
眞田は勇臣と伊佐緒へ深く頭を下げた。
それから音を立てぬよう摺り足で下がり、静かに襖を閉める。
人気のない廊下をしばらく進み、角をひとつ曲がったところで、眞田は足を止めた。
「……」
先ほどまでの畏まった表情は消えている。
眞田は険しい顔で目を伏せると、胸の奥に溜め込んでいた重い息を、ゆっくりと吐き出した。




