第8話「うごめく影」
夜露が下り、冷を帯びた空気が漂う宿場の外れ。
焚き火の煙が微かに燻る簡素な夜営地で、ディーネはふと浅い眠りから意識を引き上げられた。
身じろぎをして手を伸ばす。だが、いつもそこにあるはずの岩のように分厚く、安心しきった温もりが指先に触れることはなかった。
「……ん」
寝ぼけ眼をこすりながら身を起こす。薄い布の隙間から入り込んだ夜風が、火照りの残る肌をひんやりと撫でていく。
(こんな夜更けに、どこ行ったんだい……)
微かな不満を胸の内で呟きながら、ディーネは静かに息を吸い込み、意識を外へと広げた。
彼女の鋭敏な感覚は、夜の闇に隠れた微細な音の粒すらも容易く拾い上げる。
草むらで鳴く虫たちの規則的な合唱。遠くの岩肌を滑り落ちる、かすかな雫の音。
それら自然の調べを縫うようにして――不自然なほど荒々しく、熱を孕んだ摩擦音が、確かに彼女の耳を打った。
(……そこか)
ディーネのつり目気味の青い瞳に、獲物を見つけた夜の獣のような鋭い光が宿る。
彼女は足音ひとつ立てずに寝床を抜け出すと、音が漏れ聞こえてくる少し離れた木陰へと、滑るような足取りで近づいていった。
夜盗か、あるいは獣か――
そんな警戒心は、そーっと草葉の陰からその光景を覗き見た瞬間、呆気なく甘い驚きへと変わってしまった。
「はぁっ……、くっ……!」
頼りない月光に照らし出されていたのは、他でもない、自分の連れだった。
彼は太い木の幹に背を預け、持ち前の巨躯を熱っぽい呼気と共に大きく揺らしている。
そして、その逞しく無骨な手は、限界まで怒張しきった己の分身を、痛いほどの力強さで激しく扱き上げていた。
「……あぁ……っ、ディーネ……ッ」
暗がりの中でひたすらに、ただ狂おしいほどの熱情を込めて呼ばれていたのは、己の名前だった。
自分を抱き潰さんばかりの強烈な渇望。その剥き出しの雄の姿を目の当たりにして、草葉の陰に潜むディーネの心の奥底が、ドクンと重く、ひどく疼き始めた――
草葉の陰から覗き見るその光景は、武の道を極めたディーネにとって全くの未知だった。
熱っぽく苦悶に満ちた表情で、己の分身をひたすらにしごき上げる彼の姿。
“自慰”という概念すら知識にない彼女には、彼が一体何と戦い、なぜあのような場所を激しく擦り続けているのか、さっぱり見当もつかない。
(……病気か? いや、また変な毒でも食らったのか?)
冷静に分析しようとする思考とは裏腹に、ディーネの身体にはかつてない異変が起きていた。
視界に映る、血管を浮かび上がらせた彼の雄々しい姿。そして何より、狂おしいほどに切羽詰まった声で、幾度も幾度も己の名前が連呼されているという事実。
それを見聞きしているだけだというのに、なぜか胸の奥底が落ち着かなくなる。
「く……っ、ディーネ……ッ!」
暗闇に響き渡る、限界ギリギリの荒々しい呼声。
これほどまでに強く求められ、呼ばれているのだ。放ってはおけない。
「どうしたッ!?」
勘違いも甚だしいまま、ディーネは草むらを掻き分け、颯爽と身を乗り出した。
「――ッ!!?」
月明かりの下、心臓が止まるかのような勢いで肩を跳ねさせた彼。巨躯をビクンと強張らせ、慌てて背後の木の幹に隠れるように身体を捻り、衣服の裾で必死に自身を隠そうとしている。
「お、お前……! い、いつからそこに……ッ!?」
「いつからって、あんたがあたしの名前を必死に叫んでた頃からさ」
顔を真っ赤にして狼狽する大男に歩み寄り、ディーネは腕を組んでジロリと睨みつけた。
「で、一体何をしてたんだい? そんなに熱い息を吐いて、自分のそこを擦って……。またあの毒花にでもやられたのか? それならそうと、早くあたしを起こせば……」
「ち、違うっ! 毒じゃない!」
食い気味に否定する彼だが、その顔は茹で上がったように赤い。
取り繕おうと目を泳がせる彼だったが、武の達人であるディーネの鋭い観察眼を誤魔化せるはずもなかった。
じりじりと距離を詰められ、逃げ場を失った彼は、やがて観念したように深くため息を吐き、ギリッと奥歯を噛み締めた。
「……己で、処理をしていたんだ」
「しょり? 何をだい?」
「……お前への、情欲だ」
蚊の鳴くような、しかしひどく真剣な声だった。
「隣で眠るお前の寝顔が無防備すぎて……どうしても、お前に触れたくなった。だが、旅の疲れで眠るお前を、俺の勝手な欲望で叩き起こすわけにはいかないだろう。だから……こうして、お前を思い浮かべながら、自分で……っ」
すべてを白状し、羞恥に耐えるように顔を伏せる大柄な男。
その言葉の意味を脳内で咀嚼した瞬間、ディーネの青い瞳が驚愕に大きく見開かれた。
(……男ってのは、相手がいなくても、自分でそんなことができるのか……!?)
かつての神殿での禁欲的な生活では決して触れることのなかった、あまりにも生々しい裏の知識。強烈な衝撃が彼女の頭をぶん殴った。
だが、それ以上に彼女の胸を騒がせたのは、「自分の寝顔を見て我慢できなくなり、自分の名前を呼びながら慰めていた」という彼の言葉だった。
(……なんだいそれ。バカバカしい……けど――)
呆れるべきところなのに、彼が自分に向けるその途方もない熱量に、彼女自身、何故か悪い気はしなかった。
「……ふぅん。なるほどね」
ディーネは努めて冷静を装い、パツンと指を鳴らした。
「そういう知識もあるってわけだ。とりあえず、新たな戦術データとして頭の片隅に置いといてやるよ」
「戦術、データ……?」
「あぁ。でもさ――」
ぽかんとする彼の胸倉を、ディーネは無造作に掴んでグイッと引き寄せた。至近距離で見つめ合う青い瞳には、危険なほど甘く昏い火が灯っている。
「あたしがわざわざ起きてきてやったんだ。……その『処理』の続き、あたしが直接やってやろうか?」
初心ゆえの恐れ知らずな挑発。少しズレているがゆえの、あまりにも危うく扇情的な提案。
彼の見開かれた瞳が驚愕と期待で満ちる。
(……なるほど。男ってのは本当に面倒な生き物だね)
そう思いながらも、ディーネの口元には小さな笑みが浮かんでいた。




