第17話「名付けられる想い」
赤黒い死の顎から逃れ、転がるようにして辿り着いた麓の街。
煤と泥にまみれた二人が、ランプの火が微かに揺れる仮宿の簡素な部屋に転がり込んだ時、窓の外にはすでに夜の帳が下りてきていた。
床にへたり込み、壁に背を預けたまま、互いに荒い息を吐き出す。
静寂の中、鼓膜を打つのは自分たちの激しい心音だけ。
ゆっくりと顔を上げ、どちらからともなく視線を交合わせた。
煤だらけの顔。ボロボロになった衣服。神の領域から生還したという、あまりにも非現実的な現実。
数秒の空白の後。
「あっはっはっはっ!」
「はははっ、はは……っ!」
張り詰めていた糸が切れたように、二人の口から唐突に大きな爆笑が弾けた。
それは狂気じみた死地を潜り抜けた安堵であり、何より、目の前でこの不器用で愛おしい大馬鹿野郎が“生きている”という絶対的な歓喜の爆発だった。
笑い疲れて息を整えながら、彼は床の上で胡座をかいて深く息を吐いた。
するとディーネは、そのまま吸い寄せられるように彼へと近づき、その大きな胡座の中へと、すっぽりと身を収めるようにちょこんと座り込んだ。
そして、彼のごつく太い手に、自身の一回り小さな手をそっと重ねる。
「……何勝手に死にそうになってんだい。ばーか」
背中を預けたまま、ディーネがぽつりとこぼす。
「お前こそ、俺が食われたくらいで戦意喪失してんじゃねえよ」
「うっさいよ、ばーか」
「馬鹿はお前だ」
減らず口を叩き返す彼の大きな手が、ディーネの青味がかった髪を、労わるようにくしゃくしゃと撫で回した。
いつもなら「子ども扱いするな」と手を払いのけるところだが、今夜ばかりはその不器用な手のひらの熱がたまらなく心地よくて、ディーネはされるがままに目を細めた。
しばしの沈黙。
死の匂いを振り払うように、ランプの灯りに照らされた小さな部屋に、互いの体温を確かめ合うような、濃密な空気が満ちていく。
「……あんたさ」
「ん?」
「なんで、そんななんだい」
「何がだ?」
「だからさ。あたしのために死にかけたり、食われたり」
「うーん……」
「あたしのこと、好きなん?」
「!? ……ああ」
不意を突かれた彼が僅かに身を強張らせたが、すぐに誤魔化すことなく真っ直ぐな肯定が降ってきた。
「あたしの、何が好きなん?」
胡座の上から、ディーネは振り返るようにして彼を上目遣いに見上げた。
その問いかけは、かつての気高き柱でも、戦士としてでもない。ただの、彼という男に恋をした一人の女としての、甘く無防備な響きを帯びていた。
「……分からん」
「は?」
「考えたことがない」
「最低だね」
「好きだから好きなんだ」
「……お前なあ、ふざけてるだろ?」
顔を真っ赤にして抗議するディーネをよそに、彼は少しだけ眉をひそめた。
「ふざけてない」
そして、当たり前のことを言うように続ける。
「お前だから好きなんだ」
「ッ!!」
言葉と共に、背後から彼の太い腕が、ディーネの華奢な身体を折れんばかりの強さで抱きすくめた。
広い胸板に背中が密着し、逃げ場のないほどに男の熱に包み込まれる。
「……愛している、ディーネ」
『愛している』。
これまで、その重すぎる言葉や、形ある未来を想像することから、ずっと逃げてきたはずだった。
けれど――
今夜、彼が紡いだその真っ直ぐすぎる熱は、不思議なほどすんなりと、渇ききっていたディーネの胸の最奥へと落ちていった。
(……ああ。仕方ないね)
名前を呼んだ瞬間を思い出す。
この途方もなく不器用で熱い感情に、これ以上名前をつけるのを拒むのは、もうやめよう。
火竜山の火口で、自分の魂が彼を呼んだ瞬間に、答えはとうに出ていたのだから。
ディーネは、己を抱きしめる彼の太い腕にそっと手を添え、ゆっくりと振り返った。
至近距離で視線が絡み合う。
「……あたしも」
それは、微かな吐息のような降伏の合図。
彼の瞳が揺れる。
どちらからともなく距離が消えた。
重なった唇はひどく静かで、温かかった。




