第16話「呼んだ名」
「――ヤンシーッ!!」
火竜山の轟音すらも切り裂いて響いたその名前に、誰よりも驚愕したのは、叫んだディーネ自身だった。
(あたしは今、なんて呼んだ?)
彼を「あんた」や「お前」としか呼んだことがなかった。名前など、ただ知識として知っているだけの無意味な記号のはずだった。
それなのに。この絶対的な死の淵で、思考を介さず、魂が喉の奥からその名前を引き摺り出したのだ。
崩れゆく岩盤の縁。真っ逆さまに落ちていく彼の太い腕めがけて、ディーネは必死に両手を伸ばした。
指先が、あともう数寸で届く。
だが、その瞬間――二人の頭上を、絶望的なほどの巨大な影が覆い尽くした。
赤黒く燃え盛る神龍ヴォルナパルムの顎が、落ちゆく彼もろともディーネを飲み込もうと、天を塞ぐように迫っていたのだ。
視線が交差する。
彼の瞳には、迫り来る死への恐怖など微塵もなかった。
そこにあったのは、愛する女だけは絶対に死なせないという、狂気じみた庇護の意志だけ。
「生きろッ!!」
伸びてきた彼の手は、ディーネの手を掴むのではなく、彼女の細い肩を思い切り安全な岩肌の方へと突き飛ばした。
「あ――」
突き飛ばされた反動で岩肌を転がるディーネの視界で、すべてがひどくゆっくりと、スローモーションのように流れていった。
『ゴルァンッ……』
背後で、巨大な顎が重々しい音を立てて完全に閉じられる。
途端に、世界から一切の音が消え去った。
吹き荒れる熱風も、マグマの爆ぜる音も、自身の呼吸すらも聞こえない。
彼が、飲み込まれた。
その事実が脳髄に達した瞬間。
「あ……、あ……ぁ……」
ディーネの体から、ぷつりと糸が切れたように力が抜け、その場に崩折れ、膝をついた。
(嘘だ)
戦士としての冷静な判断力も、生き延びるための算段も、すべてが頭から白く消え飛んでいく。
息ができない。肺が酸素を拒絶するようにひゅっ、ひゅっと浅い音を立てる。
視界がぐにゃりと歪み、ポタリ、ポタリと、熱い水滴が岩肌に染みを作った。
涙だった。
生まれてから今まで、柱としての重圧にも、死線にも泣いたことなどなかった自分が――声にならない嗚咽を漏らしながら、ボロボロと子どものように泣きじゃくっている。
(いやだ……)
息ができない。
(いやだ、いやだ……ッ)
彼がいない。
もう二度と、その声も聞けない。
もう二度と、その不器用な顔も見られない。
その想像だけで、胸の奥が引き裂かれそうだった。
「あ……ぁ……」
何かが零れ落ちていく。
ずっと見ないふりをしてきた何かが。
もう誤魔化せなかった。
「あぁぁぁ……ッ!!」
立てない。
戦えない。
ただの無力な一人の女として、暗い絶望と喪失感に心を押し潰され、岩肌を掻き毟った。
その時だった――
メキリ……ッ。
完全に閉じられていたはずのヴォルナパルムの巨大な顎が、微かに震えた。
『――グルォ……?――』
神龍の喉元から、困惑するような低い唸りが漏れる。
ギリギリ、メキメキと、神の強固な牙と牙の間が、内側からゆっくりと、力ずくでこじ開けられ始めた。
「……え」
涙に濡れた顔を上げたディーネの目に映ったもの。
それは、開いた僅かな隙間から漏れる、淡く輝く青い光――水の防御魔法《水流幕》。
そして、全身の筋肉をはち切れんばかりに隆起させ、太い血管をバキバキと浮き上がらせながら、神龍の顎を内側から渾身の腕力で押し上げている、あの不器用な大男の凄まじい形相だった。
「うおぉォォォォォォォォッ!!」
彼が獣のような咆哮を上げ、さらに顎を数寸押し広げた。
――ドクンッ!!
その姿を見た瞬間、ディーネの中で完全に止まっていた時間が、強烈な脈打ちと共に動き出した。
「……っ!」
手の甲で乱暴に涙を拭い去る。
腹の底から煮えたぎるような怒りが湧き上がった。
勝手に死のうとした大馬鹿野郎。
置いていかれる方の身にもなれ。
ディーネは岩盤を爆発的な速度で蹴り砕き、空高く跳躍した。
両足に極限まで圧縮した超高圧の魔力水流を纏わせる。水と蒸気が激しく渦を巻き、彼女の脚そのものが必殺の槍へと変貌する。
「あたしの男を……」
ディーネの青い瞳が怒りに燃え上がる。
《激流槍》――!!
急降下しながら、渾身の力を込めた両足での蹴撃を、こじ開けられかけていた神龍の鼻先めがけて完璧なタイミングで叩き込む。
「――勝手に、喰ってんじゃないよッ!!」
『――グォォォォォォォォンッ!?――』
内部からの底力と、外部からの怒りの一撃。
二つの力が完全に合わさった瞬間、神龍の強固な顎が跳ね上がるように大きく開かれた。
「来なッ!!」
その一瞬の隙を見逃さず、ディーネは限界まで腕を伸ばし、内側にいた彼の太い腕をガッチリと掴んだ。そのまま遠心力を利用して、彼を口腔内から力ずくで引きずり出す。
「走るよ、この大馬鹿野郎ッ!!」
「あ、ああッ!!」
空中で身を翻し、火口の縁へと着地するなり、二人は互いの手を決して離さないまま、脱兎のごとく駆け出した。
背後で、獲物を奪われ激怒した神龍の耳を劈く咆哮が轟き、火柱が天を焦がす。
だが、二人はもう決して振り返らなかった。
固く繋いだ手だけを頼りに、崩れゆく火竜山を全速力で駆け下りていった。




