第15話「即断の撤退戦」
圧倒的な神の威圧が空間を押し潰す火竜山の火口。
冷や汗を流しながらも不敵な笑みを崩さなかったディーネは、次の瞬間、瞳に限界の闘志を宿し、大地を強く蹴り飛ばした。
「……喰らいなッ!!」
彼女の全身から、青白い魔力が爆発的に膨れ上がる。
かつて《水の柱》として世界の頂点に君臨した彼女の、一切の出し惜しみのない最大火力。
灼熱の火口に、海そのものをひっくり返したかのような絶対零度の超高圧水流が顕現し、神龍ヴォルナパルムの巨体へ真正面から叩きつけられた。
『ゴォォォォォォォォォンッ!!!』
水とマグマが衝突し、火竜山そのものを揺るがす規格外の蒸気爆発が巻き起こる。
視界のすべてが真っ白な蒸気と轟音に塗りつぶされ、地形すらも変容させてしまうほどの圧倒的な破壊力。
背後で防戦態勢をとっていた彼でさえ、その凄まじい余波に吹き飛ばされそうになりながら、大剣を杖代わりにして地を這い、目を見開いた。
(これで傷一つでも入れば十分だ……頼む……ッ!)
彼は祈るような思いで、沸騰する白煙が強風に流されていく火口を凝視する。
晴れていく視界の先。
しかし。そこに現れたのは、先ほどと全く変わらぬ姿勢のまま悠然と佇む、巨大な影だった。
赤黒く燃え盛る神龍の分厚い鱗。そこに、ディーネの全力の魔法が残した痕跡は――わずかに白く変色した、たった一本の薄い傷跡だけ。
しかも、そのかすかな傷すらも、周囲の熱を吸収して瞬く間に元の赤黒い輝きへと戻っていく。
その絶望的な光景を前にして、ディーネの瞳は驚愕に見開かれることはなかった。
彼女の顔に浮かんだのは、恐怖でもなく、己の技が通じなかったことへの悔しさでもない。
あるのはただ、幾多の修羅場を潜り抜けてきた“戦士”としての冷徹な判断と、絶対的な現実の受容だけだった。
(……ああ、駄目だ。こいつは、戦う相手じゃない)
自分の全力が、文字通り「通じない」。
生物の限界と、神の領域。その決定的な次元の差を理解するには、その一撃だけで十分だった。
直後、彼女は振り返ることなく鋭く叫んだ。
「走れッ!!」
鼓膜を破らんばかりの怒声が、彼の硬直を打ち破った。
「あ、ああッ!」
ディーネはすぐさま背を向け、火口からの脱出ルートへと全力で駆け出す。
それは無謀な突撃の末の敗走ではない。己の最大火力をぶつけ、それでも不可能だと判断した上での、戦士としての完璧で迅速な撤退戦だった。
背後から、ヴォルナパルムの重い呼気がマグマをうねらせて迫り来る。
神龍がゆっくりと動きを見せる中、ディーネは走りながら両手に青い魔力を展開し続けた。
防御魔法の壁など作らない。支援魔法で加速もしない。
彼女が放つのは、徹頭徹尾《攻撃魔法》だけだった。
「そこ退きなッ!」
迫る溶岩流の側面に極大の水弾を叩きつけ、人為的な蒸気爆発を引き起こす。その凄まじい爆風を背に受けて、二人の走る速度を強制的に引き上げる。
さらに、頭上から降り注ぐ火山弾めがけて水刃を乱れ撃ち、火口の岩壁そのものを崩落させて、神龍の巨大な眼球からの視界を強引に遮断する。
逃走のための破壊。攻撃で作る退路。
《水の柱》の圧倒的な火力をすべて時間稼ぎと攪乱に注ぎ込むその姿は、荒々しくも美しい、彼女の性格そのものを体現した戦い方だった。
「ハァッ……! ハァッ……!」
硫黄の混じった痛いほどの熱気を肺に吸い込みながら、二人は崩れゆく火口の縁を必死に駆け上がっていく。
だが、圧倒的な神の威圧と地殻変動のうねりの中、後方を走っていた大柄な彼が踏み出した先の岩盤が、音を立てて大きく崩落した。
「うおぉっ!?」
重い鎧と大剣を装備した巨躯がバランスを崩し、煮えたぎる溶岩の裂け目へと真っ逆さまに吸い込まれそうになる。
その瞬間――
ディーネの頭から、撤退経路も時間稼ぎも何もかも吹き飛んだ。
気付けば身体が動いていた。
嫌だった。
ここでこいつを失うのだけは。
それだけは、どうしても。
「――ヤンシーッ!!」
ディーネは反射的に身を翻し、崩れゆく岩盤の縁から迷うことなく身を乗り出して、落ちゆく彼めがけて両手を思い切り伸ばした――




