第13話「燻る火種」
薄明るい朝の光が、古い宿屋の窓の隙間から細く差し込んでいた。
翌朝、ディーネはいつものディーネだった。
ただ、いつもと違っていたのは、彼女が彼よりも早く目を覚ましていたということだった。
シーツの上に寝転がったまま、ディーネは隣で気持ちよさそうに眠る彼の顔を、ぼーっと見つめていた。
岩のように無骨で、大柄で、不器用な男。
昨夜、重なり合ったはずの互いの肌の感触は、確かにまだ残っている。
それなのに、どこか一枚の冷たいガラスを隔てていたような、ほんのわずかな空虚さが、夜明けの空気の中に微かに漂っていた。
その得体の知れない名残が、胸の奥に小さな棘のように引っ掛かっている。
戦いの傷なら治し方を知っている。
だが、この手の痛みはどう扱えばいいのか分からなかった。
そっと指を伸ばし、その頬をツンとつつく。
「んむ……」
何かモゴモゴと寝言をこぼす彼。今度は少し意地悪をして鼻をつまんでやると、息苦しそうに身悶えし、大きな体を丸めた。
その滑稽で無防備な姿を見て、ディーネはふっと小さく吹き出した。
自分でも気づかないうちに、目元が緩み、唇が柔らかい弧を描いている。
胸の奥に燻る疼きの正体が何なのか、あえて探ろうとはしなかった。
宿代を払い、朝の活気に満ちた宿場町へ出る。
露店で焼きたてのパンとスープを買い、喧騒の中で簡単な朝食を済ませた。
「今度は何処を目指す?」
隣を歩く大男から、いつものように穏やかな声が降り注ぐ。
「……そうさね……」
空を見上げながら、ディーネはぽつりと口を開いた。
「この前、昔のツレから連絡があってさ。結婚したんだと。もう一人は子供ができたとか……。久々に、顔を見に行ってやろうかと思ってね」
無意識に零れ落ちた言葉。
それを耳にした瞬間、昨夜の彼の不器用な声が不意に鼓膜を掠めた気がした。見ないふりをして、ディーネはわざと軽く続ける。
「あんたも、来るかい? ……紹介はしないけど」
「しないのか……」
あからさまに肩を落とす彼を横目に、ディーネは口の端を吊り上げる。
「あん? しないよ。なんて言うのさ? あたしのダンナでもないのに」
「……そう、だな……」
寂しそうに視線を落とす彼。その不器用な横顔を見ていると、またしても胸の奥の棘がチクリと疼く。
このまま旧友たちを見に行けば、あの見えない壁の向こう側を、もっと鮮明に意識してしまうのではないか。
「……」
立ち止まったディーネは、突然、弾かれたように空を指差した。
「やっぱやーめた!」
「あ?」
「ここから火竜山見えるな……。行くぞ?」
「あぁッ!?」
突拍子もない方向転換に、彼が目を白黒させる。
「神龍《灼煉のヴォルナパルム》がいたはずだ。斃せないまでも、鱗の一枚でも剥がせりゃ、当分路銀に困らないだろ?」
「あの《火山王》にかッ!? 無謀だ!」
「……怖気づくなよ」
「ッ!? 怖気づいてなどいない! ただ俺は、お前の身を――」
ぴたりと足を止め、ディーネは彼を真正面から振り返った。
朝の光を受けて輝く水色の髪が風に揺れる。彼女の青い瞳は、冗談など微塵も含んでいない、真っ直ぐな光を放っていた。
「あんたはさ、このあたしのなんなんだ? このディーネの、何になりたいんだ!?」
「ッ!」
その問いかけに、彼が息を呑む。
今の自分には、まだわからないことが多すぎる。
けれど、ただ一つ確かなことがあった。
「――生きて、ついて来い。……それ以上は、望んでないよ」
ぶっきらぼうで、不器用な言葉。
その裏にある彼女のわずかな揺らぎを感じ取ったのか、彼の目にパッと力強い光が宿った。
言い訳も、大袈裟な誓いも、もう口にはしない。
彼はただ真っ直ぐにディーネを見つめ返し、一度だけ、深く力強く頷いた。
「……ッ」
「……遅れたら、置いてくからね」
言葉にならない彼の重い決意に胸を打たれ、ディーネは照れ隠しのように勢いよく背を向けた。朝陽に向かって歩き出す。
その少し後ろを、大きな足音がしっかりと追いかけてくる。
胸の奥に燻る小さな棘の痛みと、得体の知れない熱。
それが何を意味するのか、ディーネはまだ知らない。
それを振り払うように、あるいは大切に抱え込むように――二人の宛てのない流浪の旅は、火竜山へと進路をとった。




