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第12話「遠い距離」

 古い宿屋の一室に、規則正しい寝台の軋みだけが響いていた。


 ディーネは彼の分厚い胸板に顔を埋めたまま、広い背中に回した腕にきゅっと力を込める。


 彼の体温、汗の匂い、不器用なほどに真っ直ぐな愛情。それらすべてが、いつも通り彼女を優しく包み込んでいた。


 だが、頭の芯だけが、恐ろしいほどに冷え切っている。


『……お前だって、身重で旅をしたくはないだろう?』


 波打ち際で寄せては返す潮騒のように、先ほどの彼の言葉が思考の淵で何度もリフレインしていた。


 その通りだ。

 あてのない流浪の旅。いつ敵に襲われるかも分からない危険な道中で、命を育むことなど現実的ではない。

 ましてや、戦うことしか知らなかった自分が、誰かを育てるなど想像もつかなかった。

 だから、彼の配慮は正しい。

 それを受け入れた自分も、きっと間違ってはいない。


 ――それなのに。

 胸の奥に引っかかった小さな棘だけが、どうしても抜けなかった。


 ほんの一瞬だけ。

 この旅が終わった先を考えてしまったのだ。


 朝になれば隣で眠る大男がいて。

 くだらないことで言い合いをして。

 また呆れながら背中を追いかける。


 そんな、今と変わらないようで少しだけ違う未来を。


 だが、その先はうまく思い描けなかった。

 そこに何があるのか。

 自分は何を望んでいるのか。


 分からない。


 分からないからこそ、怖かった。

 だから彼の言葉を遮った。

 考えたくなかったのだ。

 自分がいつの間にか、この男との先を望み始めていることを。


「……ディーネ……っ」


 耳元で、甘く掠れた声が名前を呼ぶ。

 彼のリズムが次第に激しさを増し、熱情の渦が二人を飲み込もうとしていた。


 いつもなら、この荒々しくも優しい激流にすべてを委ね、抗うことなく我を忘れて甘い絶頂へと溶けていったはずだ。

 しかし今夜は、どうしてもその波に乗ることができない。


 彼女を満たしているはずの彼の熱は、ほんの薄紙一枚――《スキンコート》という透明な魔力の膜によって、決定的に隔てられていた。


 物理的な快感は確かにある。体は間違いなく、一つに結ばれている。

 それなのに、彼がどれだけ切実に自身を求め、ディーネがどれほど強く彼を抱きしめ返しても――


(……どうしてこんなに、遠いんだろう)


 触れている。

 声も聞こえる。

 体温も伝わってくる。


 それなのに、なぜか遠かった。




「あぁっ……ディーネ……ッ! お前だけだ……っ」


 やがて彼は大きく背中を反らせ、彼女の最奥で狂おしい熱を解き放った。


 しかし、その激しい愛情の証が、彼女の胎内に触れることはない――


「ん……っ」


 彼の重みと荒い呼吸を受け止めながら、ディーネは静かに目を閉じた。


 いつもなら彼と共に弾けていたはずの彼女の熱は、行き場を失った迷子のように、身体の奥底でただ静かに冷えていく。


「……愛してる」


 汗ばんだ髪に口づけを落とす彼に、ディーネは何も答えなかった。

 ただ、その大きな背中をゆっくりと撫でた。

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