第10話「湯浴みの夜」
土埃と疲労が蓄積した流浪の旅路。
日が落ちかけ、空が薄暗い藍色に染まり始めた頃、二人は一週間ぶりとなる宿場町へと足を踏み入れた。
賑わう通りを歩きながら、二人の視線は自然と同じものを探していた。
言葉を交わすまでもない。それは“湯浴みができる宿”だ。
いつからだろうか。
気まぐれで始まったこのあてのない旅の中で、温かい湯に浸かれる宿に泊まった夜は、必ず互いの身体を求め合う――そんな暗黙のルールが、二人の間にできつつあった。
「ここにするか」
数軒を見て回り、ようやく見つけた小ぎれいな宿。
簡素な部屋に荷物を下ろすなり、彼が少しだけ視線を泳がせながら言った。
「……お前、先に入ってこい。俺は荷物を整理しておく」
その言葉の裏にある“期待”を察取り、ディーネのつり目気味の瞳が面白そうに更に細められた。
「へぇ。なんだか今日のあんた、随分と殊勝じゃん」
からかうように口の端を吊り上げてみせたが、彼女の内心はひどく上機嫌だった。
(……本当は、今すぐあたしを押し倒したいんだろう?)
湯着を受け取り、湯殿へと足を運ぶ。
熱い湯を張った木桶の前にしゃがみ込むと、ディーネは水色の髪を項でふわりと束ねた。
そして、手ぬぐいを湯に浸し、無駄な肉のない引き締まった自身の身体を、ゆっくりと丁寧に洗い始めた。
普段の野営や行水なら、烏の行水で手早く済ませてしまう彼女だが、今夜ばかりは違う。
首筋から鎖骨、均整のとれた胸元、そして引き締まった太ももの内側まで――
これから数時間後、愛しい大男が触れ、愛撫し、熱く口づけるであろう場所を一つひとつ確かめるように、念入りに汚れを落とし、肌を磨いていく。
(……あたしも、随分と変わっちまったもんだ)
柱だった頃なら、湯に浸かるたびに次の修行や次の戦いのことしか考えなかった。
なのに今は違う。
湯気の向こうにいる大男が、今どんな顔をしているのか。
そんなことばかり考えている。
彼の分厚い胸板や、切羽詰まった低い声、そして自分だけを狂おしく求めるあの熱を想像するだけで、胸の内側がじんわりと甘く疼き始めていた。
やがて、全身を磨き終え、熱い湯船にゆっくりと身を沈めようとした、その時だった。
ギシッ……
背後の脱衣所から聞こえた微かな床板の軋み。
立ち込める湯気の中、ディーネは振り返ることなく、自身の滑らかな腕を撫でる手を止めずに静かに口を開いた。
「……何か用?」
湯音に混じって響いたディーネの艶やかな声に、背後の巨大な影がビクリと震えるのが気配でわかった。
「……いや、背中でも流そうかと思って、な」
普段の厳しい鍛錬の時とは全く違う、どこか遠慮がちで、けれど隠しきれない熱と期待を孕んだ不器用な声。
それを聞いたディーネは、湯気の中でひっそりと口角を吊り上げた。
(……そんなにかい……)
一週間ぶりの宿。温かい湯。それが意味する『暗黙のルール』を、彼がどれほど待ちわびていたか。背中から突き刺さるような熱い視線だけで、痛いほどに伝わってくる。
すぐにお湯へ招き入れてもよかったが、ディーネの中に持ち前の少し意地悪な、彼をからかいたい衝動がむくむくと湧き上がった。
「悪いね。今日はゆっくり一人で入りたいんだ」
振り返らずに冷たく言い放つと、背後の大きな気配が、目に見えてシュンと萎んでいくのがわかった。
「そ、そうか、済まない……」
「気持だけもらっとくよ」
肩を落としてすごすごと引き下がっていく大男の足音を聞きながら、ディーネはクスクスと肩を揺らして笑いをこぼした。
(……あんな情けない顔して。今夜は特別可愛がってやるか)
その情けない反応が妙におかしくて、なぜだか機嫌まで良くなってくる。
ディーネは、じんわりと温かみが広がっていくのを感じながら、残りの湯浴みをゆっくりと堪能した。
部屋へ戻れば、きっとあの大男は気まずそうな顔で待っているだろう。
その顔を思い浮かべるだけで、ディーネの口元は自然と緩んだ。




