第4話 夕暮れの森と、冥王の迎撃
夕暮れは、嫌に赤かった。
焼け残った家屋の隙間から差し込む西日が、村の地面を血のように染めている。
さっきまで魔甲虫と盗賊に怯えていた村人たちは、ようやく安堵しかけたところで、再び張り詰めた空気に飲み込まれていた。
皇冥斗は村の外れに立ち、森の奥を見据えていた。
見える。
右目の奥に灯る、滅びを観る魔眼。
木々の陰に潜む熱源。
鉄の擦れる音。
抑えた呼吸。
地を蹴る準備に入った複数の足。
数は二十八。
うち前衛が十九。
弓兵が六。
そして後方に、異質な魔力を纏った術者が一人。
さらに護衛らしき者が二人。
さっきより面倒だ。
だが、だからこそやることは明確だった。
「ヴァルシア」
「はっ」
黒血の戦乙女が即座に膝をつく。
この反応の速さだけは本当にありがたい。
「村の中央に負傷者を集めろ」
「承知いたしました」
「動ける者には水を運ばせ、火の手は消し切れ。家屋の陰に伏せられる者は伏せろ。子どもは絶対に前へ出すな」
「御意」
ヴァルシアは一瞬だけ目を細めた。
たぶん、意外だったのだろう。
冥王らしからぬ細かな指示だったからかもしれない。
だが冥斗にとっては当然だった。
組織戦でも現場でも、まず被害を減らす。
これは強者ぶるより優先順位が高い。
「それと」
「はっ」
「敵は森の正面だけじゃない。左右に回り込もうとしている弓兵がいる。西側の柵沿いは捨てろ。南側へ人を寄せろ」
「……すでにそこまで」
ヴァルシアの声に、抑えきれない熱が混じる。
「恐れながら、我が王。敵の配置を、すでに全て?」
「視えている」
短く答える。
実際、視えているのだから仕方ない。
「動け」
「はっ!」
ヴァルシアが駆ける。
その背に迷いは一切なかった。
冥斗はそこで一度、深く息を吐く。
正直に言えば、消耗は残っている。
魔甲虫相手の一撃はかなり重かった。
左腕の奥にはまだ熱が残り、全身の芯が少しだけ怠い。
だが、ここで退く選択肢はない。
なぜなら今、自分の背後には村があるからだ。
学校では誰にも期待されていなかった。
ただの痛い中二病。
生暖かく見守られるだけの存在。
それが今は違う。
この世界では、自分の言葉一つで誰かが安心し、誰かが怯え、誰かが救われる。
その重さは、思っていたよりずっと現実だった。
「……やるしかないか」
小さく呟く。
すると、そのすぐ横でか細い声がした。
「あ、あの……」
視線を落とすと、さっき母親を助けた少女が立っていた。
顔は涙と煤で汚れている。
それでも両手で何かを抱えて、まっすぐ冥斗を見上げていた。
「なんだ」
「こ、これ……」
差し出されたのは、少し欠けた素焼きの器だった。
中には水が入っている。
「お礼、です。あんまりきれいじゃないけど……」
冥斗は一瞬だけ言葉を失った。
たぶんこの少女にとって、今できる最大限なのだろう。
助けてもらった。だから返したい。
その気持ちが、そのまま器の中に入っているみたいだった。
冥斗はそっと受け取る。
「……ふん。供物としては粗末だが、受け取ってやる」
精一杯、冥王っぽく言ったつもりだった。
だが少女は、ほっとしたように笑った。
「はいっ」
その笑顔を見て、胸の奥に少しだけ熱が灯る。
悪くない。
少なくとも、守る理由としては十分だった。
冥斗は水を一口飲み、器を返した。
「下がっていろ」
「でも――」
「我が背を見ていろ」
口にした瞬間、少しだけ恥ずかしくなった。
今の台詞、だいぶ決まりすぎていないか。
しかし少女は目を丸くしたあと、強く頷いた。
「……はい!」
よし。
通った。
その時だった。
森の奥から、鋭い笛の音が響く。
合図。
次の瞬間、木々の間から黒ずくめの男たちが一斉に飛び出してきた。
「行けぇッ!」 「村を制圧しろ!」 「冥王だろうが何だろうが、数で押し潰せ!」
怒号。
剣戟。
弓弦の音。
冥斗の右目が熱を増す。
前衛、正面から十四。
左右から回り込む者五。
後衛の弓兵が矢をつがえ、術者はまだ森の奥で様子見。
「まずは前を削る」
冥斗は左手を軽く持ち上げた。
大技は不要。
さっきのような一撃必殺は消耗が大きすぎる。
なら、中規模を連打する。
頭の中に、自然と術式が浮かび上がった。
「封印されし滅界左腕――黒圧展開」
左腕の紋様が淡く光る。
足元に黒い円陣が広がり、そこから幾筋もの影が地を走った。
蛇のように、槍のように、細く鋭い闇の帯。
先頭の男たちが一斉に顔色を変える。
「なっ――」
「遅い」
影の帯が、前衛の足元を薙ぐ。
悲鳴が連続した。
「ぎゃっ!」 「足が――!」 「ぐああっ!」
斬ったのではない。
砕いたのでもない。
膝から下の動きを奪うように、影の圧で叩き伏せたのだ。
先頭の七人がまとめて地面に転がる。
その隙を、ヴァルシアが見逃すはずもなかった。
「我が王の御前で、無様を晒すな」
黒い閃光が走る。
一閃。
二閃。
三閃。
男たちの武器が弾かれ、喉元へ剣が突きつけられる。
殺していない。
戦闘不能に留めている。
この辺りの加減は、本当に優秀だ。
「う、うそだろ……!」 「たった二人で……!?」
敵の動きが目に見えて鈍る。
当然だ。
先陣を切った仲間が、一瞬で潰されたのだから。
人は、想定外に弱い。
行動経済学で言えば、損失の予感は利益の期待より強く効く。
目の前で仲間が倒れると、「勝てるかもしれない」より「自分もこうなる」が先に来る。
だから組織戦では、最初の一撃が重要なのだ。
冥斗は静かに一歩前へ出た。
「まだ来るか」
低く、冷たく言い放つ。
「我が前に立つこと自体が不敬と知れ」
敵兵たちの顔が引き攣る。
効いている。
かなり効いている。
その時、左右に展開していた弓兵が矢を放った。
狙いは、冥斗ではない。
村の中央へ逃げた住民たちだ。
「ちっ!」
冥斗は反射的に右目を見開いた。
矢の軌道が、線となって視える。
「ヴァルシア、右!」
「左は我に」
言うより早く、冥斗の左手が動く。
「黒障壁」
村人たちの前に、半透明の黒い壁が立ち上がった。
放たれた矢が次々と突き刺さり、その表面で止まる。
同時にヴァルシアが左側へ跳び、飛来した矢を剣で弾き落とした。
「お怪我は!」
村人たちへ振り返る彼女の声に、何人もが首を横に振る。
守れた。
冥斗は内心で安堵しつつ、森の奥を睨む。
今のは試し撃ちではない。
明確に、住民を狙った。
「外道が」
低く吐き捨てた瞬間、森の奥から嗤うような声が響いた。
「外道、か。面白いことを言うな」
ゆっくりと現れたのは、灰色の長衣を纏った男だった。
年齢は三十代半ばほど。
痩せた顔。細い目。
指先には不気味な指輪が幾つも嵌められ、背後には黒い煙のような魔力が揺らめいている。
直感した。
こいつが術者だ。
「魔甲虫を操っていたのは貴様か」
冥斗が言うと、男は口の端を吊り上げる。
「さすがは“冥王”。そこまで見抜くか」
わざとらしく両手を広げる仕草。
芝居がかっている。
嫌いなタイプだ。
「名乗れ」
「ベラドン。辺境で少しばかり術を売っている者だ」
嘘だな、と冥斗は思う。
少しばかり、で済む気配ではない。
この男の魔力は、ねっとりとしていて、何より悪意が濃い。
ベラドンは倒れた部下たちを一瞥し、さほど惜しむ様子もなく肩を竦めた。
「せっかくうまくいくと思ったのだがな。村を魔甲虫に襲わせ、混乱したところで回収する。簡単な仕事だった」
「回収?」
「生贄だよ」
村人たちの顔から血の気が引く。
少女が、小さく息を呑んだのが分かった。
「近頃、旧冥界領では古い封印が緩み始めていてね。人間の命と恐怖は、実に質の良い触媒になる」
さらりと言う。
本物の外道だった。
冥斗の中で、何かがすっと冷えた。
「つまり貴様は、この村を丸ごと潰すつもりだったわけか」
「その予定だった。だが、思わぬ大物が引っかかった」
ベラドンの細い目が、冥斗を品定めするように眺める。
「本当に冥王なのか、それとも古代遺物を拾っただけの幸運な小僧か。いずれにせよ、解体して調べる価値はある」
その言葉に、ヴァルシアの気配が変わった。
殺気。
空気が冷えるほどの純度の高い怒りが、彼女から噴き出す。
「不敬者」
声は低かった。
だが、その一言だけで周囲の温度が数度下がった気がした。
「我が王へ向ける言葉ではない」
ベラドンは薄く笑う。
「忠犬がよく吠える」
次の瞬間、ヴァルシアが地を蹴った。
速い。
黒い閃光そのものだ。
だがベラドンはそれを読んでいたらしい。
足元の魔法陣が光り、地面から黒い腕のようなものが何本も突き出す。
「おっと」
ヴァルシアが空中で身を捻り、切り伏せながら着地する。
しかし完全には届かない。
「召喚系か」
冥斗は短く吐き捨てた。
面倒な相手だ。
距離を取り、雑兵を盾にし、こちらの消耗を待つ。
たぶん性格も悪い。
だが、だからこそ対処法はある。
「ヴァルシア」
「はっ」
「前衛は任せる」
「御意」
「術者は我が潰す」
ベラドンの笑みが、ほんの少しだけ引き攣った。
「……ほう?」
冥斗は左手をゆっくりと持ち上げる。
さっきまでより、少しだけ深く。
少しだけ重く。
術式が組み上がる。
大技ではない。
だが確実に仕留めるための形。
「滅びを観る魔眼――術式解析」
視界の中で、ベラドンの周囲に浮かぶ魔法陣が分解されていく。
線。
節点。
循環。
核となる魔力の流れ。
見えた。
こいつの術は三枚構造。
外側の防壁、足元の召喚陣、胸元の護符。
防御の本命は胸元だ。
「……なるほど」
冥斗は静かに口元を吊り上げた。
少しだけ、冥王らしい笑みだった。
「貴様、存外に小心者だな」
ベラドンの眉がぴくりと動く。
「何?」
「正面から我と相対する胆力もなく、三重に命綱を繋ぐとは」
「貴様――」
効いた。
人は、自分が隠したい弱さを言い当てられると反応する。
しかも部下の前で。
ならなおさらだ。
ベラドンの魔力が一瞬だけ乱れる。
その隙で十分だった。
「封印されし滅界左腕――黒針」
左手の指先から、無数の細い黒い光が放たれる。
槍ではない。
針だ。
細く、速く、避けにくく、術式の節点だけを貫くための一撃。
ベラドンの外側の防壁が反応する。
「甘い!」
だが黒針は防壁の面ではなく、節目へ突き刺さった。
魔法陣が悲鳴のような音を立てて歪む。
「なっ――」
二本目が召喚陣を裂き、三本目が胸元の護符を砕く。
ベラドンの顔色が初めて変わった。
「ば、馬鹿な! 一目で術式の綻びを――」
「綻びではない」
冥斗は一歩、前へ出る。
「貴様が浅いだけだ」
決まった。
自分でも少し痺れるくらい決まった。
そして今の言葉は、たぶん事実でもある。
少なくともこの魔眼の前では、相手の隠し札は隠し札にならない。
ベラドンが舌打ちし、後退る。
左右の護衛が前へ出ようとする。
だが、その二人をヴァルシアが斬り伏せた。
「お下がりを。不敬者ども」
黒き戦乙女の剣が、夕日を受けて赤く光る。
冥斗はそのままベラドンへ視線を固定した。
逃がさない。
魔眼がそう告げている。
「終わりだ、ベラドン」
「ふざけるな、小僧がァ!」
ベラドンの足元から、最後の術式が立ち上がる。
自爆型。
周囲を巻き込む広域呪術。
まずい、と冥斗は理解した。
こいつは村ごと吹き飛ばすつもりだ。
「……そう来るか」
冥斗は左腕の奥に残る熱を、さらに深く引きずり出した。
正直、きつい。
まだ消耗は重い。
でもここで止められなければ、守った意味がない。
「なら、上から潰す」
掌を空へ向ける。
黒い円陣が一つ、二つ、三つ。
夜のような光が空中に重なり、ベラドンの頭上へ巨大な印が形成される。
「何を――」
「我が真名の下に命ずる」
空気が重くなる。
村人たちが息を呑み、敵兵たちが震える。
「落ちろ」
ただ、それだけだった。
直後。
頭上の円陣から、圧縮された闇の柱が垂直に落下した。
轟音。
大地が揺れる。
ベラドンの展開した術式ごと、地面へ叩き潰す。
光も、呪文も、断末魔も、一瞬で黒に飲まれた。
数秒遅れて、衝撃波が村の端を揺らす。
土煙が上がる。
そして、静寂。
「……え」
誰かが漏らした声が、やけに大きく聞こえた。
冥斗はしばらく、その場から動かなかった。
いや、動けなかった。
今のはかなり重い。
膝が笑いそうだ。
喉も渇く。
視界の端が少しだけ暗い。
だが、倒れるわけにはいかない。
冥王だから。
そういうことに、今なっているから。
土煙が晴れる。
そこには大きく抉れた地面と、完全に沈黙したベラドンの姿があった。
生きているか死んでいるかまでは分からない。
だが少なくとも、もう戦えない。
残っていた敵兵たちの顔が、一斉に引き攣る。
「に、逃げろ!」 「勝てる相手じゃねぇ!」 「冗談だろ、あんなの……!」
蜘蛛の子を散らすように、男たちが森へ逃げ込んでいく。
追う必要はない。
今この場で必要なのは、壊滅より収束だ。
「ヴァルシア」
「はっ」
「深追いはするな。逃げる者は放置でいい。動ける賊だけ縛れ」
「御意」
ヴァルシアは即座に従い、そのまま部下への指示を飛ばし始める。
異形兵たちも音もなく動き出した。
統率が取れている。
たぶんこの軍、かなり優秀だ。
村人たちはしばらく呆然としていたが、やがて誰からともなく膝をついた。
「冥王様……」 「お救いいただき……!」 「我らは、何とお礼を申し上げれば……」
その声が、波のように広がる。
冥斗はそれを見下ろしながら、胸の奥に奇妙な感覚を覚えていた。
嬉しい、とは少し違う。
誇らしい、でもない。
たぶんこれは責任だ。
今、自分の一挙手一投足が、この村の明日を決める。
言葉一つで、人が安心も絶望もする。
そのことが、少し怖かった。
だからこそ。
「礼は不要だ」
静かに言う。
「生き延びろ。それが我への返礼となる」
村人たちの間に、すすり泣きが広がった。
また少し、決まりすぎたかもしれない。
でも今はそれでいい。
すると、さっきの少女が再び前へ出てきた。
今度は涙を拭い、必死に冥斗を見上げている。
「冥王さま」
「なんだ」
「……わたしたち、ここにいてもいいんですか」
良い質問だった。
襲撃を受けた村は、次も狙われる。
ここに残れば危険だ。
だが行く場所があるとも限らない。
冥斗は数秒、考える。
そして答えは自然に出た。
「ここは我が領だ」
村人たちが顔を上げる。
「我が許す限り、貴様らの居場所は失われない」
それは約束に近かった。
少なくとも、冥斗はそういうつもりで言った。
ヴァルシアが、その言葉を聞いて、ゆっくりと片膝をつく。
「我が王」
「なんだ」
「恐れながら、申し上げます」
彼女は紅い瞳をまっすぐ冥斗へ向けた。
「その御言葉を、旧冥界領全土へ布告すべきかと」
「……は?」
思わず素が漏れた。
だがヴァルシアは真剣そのものだった。
「長き眠りの間、この地は荒廃し、民は王を失って久しい。されど今、冥王ルイン=クロノス様は再臨され、最初の村を自らの領として保護すると宣言なされた」
嫌な予感がする。
ものすごくする。
「これは号令です」
ヴァルシアは断言した。
「終焉の王が、再び世界へ覇を唱える第一声にございます」
違う。
そんなつもりじゃない。
ただ、困ってる村人を守るって言っただけだ。
だが周囲の空気は、もう完全にそういう流れではなかった。
村人たちは畏れと希望の入り混じった目で冥斗を見つめ、異形兵たちは静かに頭を垂れている。
やばい。
これ、思ったより話が大きくなっている。
冥斗は内心で頭を抱えたくなったが、もちろんそんなことはできない。
「……好きにしろ」
苦し紛れにそう言う。
するとヴァルシアの顔が、ぱっと輝いた。
「はっ!」
駄目だ。
多分いま、かなり大事なゴーサインを出してしまった。
その瞬間だった。
森のさらに奥。
ベラドンが現れた方角より、もっと深い場所から、ぞくりとするような気配が流れてきた。
冷たい。
暗い。
古い。
魔眼が反応する。
「……まだいる」
「我が王?」
冥斗は西の森の向こうを睨んだ。
人ではない。
術者でもない。
もっと根源的で、嫌なもの。
まるで地中深くに埋まっていた何かが、こちらを覗き返してきたような気配。
「ベラドンは前座か」
右目の奥が熱い。
左腕の封印も、わずかに脈打つ。
遠く、遠くから。
呼ぶような声がした気がした。
「……原初の、夜……?」
自分でも意味の分からない言葉が、ふいに口をついて出る。
その時、森の最深部から、空へ向かって一本の黒い光が立ち上った。
夕焼けを塗り潰すほど濃い、夜そのもののような光。
村人たちが息を呑む。
ヴァルシアが剣に手をかける。
そして冥斗は、直感した。
あれは、自分に関係がある。
たぶん、とても面倒な形で。
冥王の再臨は、まだ始まったばかりだった。




