11:ヒュプノスを祓う_3
柔らかい秋空色の眼差しを感じて、ハノーニアも自然と笑みが零れる。だからつい、額にキスをした。
「閣下。おはようございます…いいえ、おそようございます」
「…おそよう?」
「はい。もう朝はとっくに過ぎていますから。おはようではありませんので」
「ふむ…なるほど。
だがなハノーニア。お前とて…遅かったではないか」
「あ、う…それは…はい、それについては、大変申し訳ございませ、んぅ」
ハノーニアが口にした謝罪は、エルグニヴァルの両手でやんわりととらえられた。
「…いいや、いいやハノーニア。あれは、わたしが悪かったのだ。
すまなかった。心から……あぁ、わたしの心なぞ、たかが知れているが…。なけなしの、これっぽっちしかない心だが…それでも、どうかお前に。お前に、受け取ってほしい。
許してほしい、ハノーニア」
両の頬を包み撫でられて、ハノーニアは心地よさに目を瞑る。やんわりと引き寄せられるままに、もう一度、エルグニヴァルの額にキスを贈った。
「勿論です、閣下。トゥエルリッヒ様。
…小官こそ、私こそ、どうか、お許しください。貴方が好きです。そして、貴方が恐い。そんな心を、許してください」
「あぁ、勿論だとも」
エルグニヴァルの顔に、柔らかい笑みが浮かんだ。そんな彼から同じように額へキスをされて、ハノーニアは苦しくなるほど嬉しかった。
嬉しさのままに、体が動いて仕方がない。いつもはきっちりすきなく後方へ撫でつけられている髪も、今は幾らかほつれている。身じろいだために額へ流れてきた数筋の金髪を、ハノーニアは努めて優しく丁寧に上へと払う。
指先が触れた拍子に、エルグニヴァルが浅く目を瞑った。その顔があんまりにも――
「――、可愛い」
「…可愛い?」
ハノーニアがハッとするのと、エルグニヴァルが目をぱちくりと瞬くのとは、ほぼ同時だった。
「わたしがか? ハノーニア」
空色の視線にじぃっと凝視されて、ハノーニアはうろうろと目を彷徨わせた後に観念した。
「ぁ…ぅ…はい。閣下は、可愛いと思います。…その、お笑いなった時とかは、特に…。その、私にとっては、ですが…」
白状しつつ、ハノーニアは記憶を振り返る。口から出たのは今が初めてだが、思い返せば、そう感じることは何度もあったのだ。
「…そうか。そうか、お前にとってわたしは可愛いのか。生まれ始めて言われた言葉だ」
「え、生まれて、初めて…ええいや、そんな馬鹿な。小さい頃…赤ちゃんの時とか」
「記憶にないのだ」
「あ、いえ…それは…そうですね」
頷きつつも、ハノーニアは内心で「いやでも」と独り言つ。
(お母さんのおなかの中にいた時、外から聞こえたこととか憶えている人もいるらしいし…。…閣下がそうですって言われても、まったくおかしくない)
むしろ「閣下らしい」と納得すらする。
「…でも、きっとその頃も、閣下は可愛かったと思うのです。きれいな空色の目に、美しい金髪ですから。天使の如き可愛さだったでしょう」
「ふ、はは。天使…か。
金の髪も、青の目も、この帝国ではありふれたものだ。ごまんといる。…だが…お前にとっては、違うのか。違って見えるのか、わたしと、その他は…。
…嗚呼、いいな。なんといい気分だろうか」
言葉通り、手を伸ばして頬に触れてくるエルグニヴァルの表情はとても良さそうに見えた。
「可愛いのは、お前だろうよハノーニア」
「ん、」
くすぐったさと心地よさ、それから生まれた熱のお陰で、ハノーニアは緩む口元を抑えられない。
「……だ、だとしたら。それは、閣下のお陰です。閣下が可愛いと、事ある毎におっしゃって下さるから。伝えてくださるから。自然と、私自身もそうなろうと、そうなりたいと思って。そう、変わっていっているのだと、思います。
呪文と、同じですね。あるいは言霊…ご存知でしょうか、極東の国で信じられ、その昔は実際に使われていたという…」
「あぁ、知っている」
「さすが閣下! 博識でいらっしゃいますね」
笑うハノーニアの頬を、エルグニヴァルの手が優しく撫でていく。
「だが、わたしにも知らないことはある。分からないことも多くある。…例えば、お前の心であったり…。いつか、お前の幼い頃のことを、教えてくれるだろうか? その時、何を感じ、何を思っていたのか…」
「はい。閣下が、お望みであれば。…その代わり…閣下の事も、どうか、教えてください」
「うむ。お前が望むならば。…ただ、恐らく何の面白みもないだろうが…いや、それはわたしの主観にすぎんな。お前がどう感じるのか、どう思うのか…気になるところだ」
「私もです。
…物心ついた時にはもう、母も父もおらず、教会付きのあの施設におりましたので…」
エルグニヴァルの手がそっと滑り、米神辺りから髪をすき撫でていく。
視界の端で揺れ動く明るい灰色を見ながら、ハノーニアは細く息を吐いた。
「…閣下の、お陰です」
「ハノーニア?」
「私は、灰髪に琥珀目ですから…。…ですから、父母にも、縁がなかったのかな、なんて。思うこともありました」
後頭部に回った手でくっと引き寄せられたので、ハノーニアはついに、エルグニヴァルの胸に身を寄せた。
「お前は、可愛いよ。可愛い、可愛い、わたしのハノーニア。
…一つ、伝えよう。お前の父母は、どちらもお前を愛していた」
「…ご存知、なのですか…」
ハノーニアは顔を上げてエルグニヴァルを見てから、「当然か」と思い直す。軍の最高官職に就くエルグニヴァルは、それこそ若い頃から要職にあったのだ。前世を色濃く思い出してきたハノーニアからすれば、四十路あたりの今現在でも十分に若い方だという感覚だが。
「あぁ。顔を合わせたことがある。
お前のことを、それこそ生まれてくる前から、愛していた。当時、まだ心がなかったわたしですら“あぁこれが愛というものなのだろう”と思うほどだった。それは、お前が生まれてからも変わらず、損なわれることなどなく、むしろ増して…お前に注がれていたと思う。
……どうか、信じてほしい。そう願うほか、わたしには出来ぬが…」
眉がしゅんと下がって見える。そんなエルグニヴァルに顔を覗き込まれて、ハノーニアは息を吐く。思ったよりも大きかったそれは、けれど柔らかいものだった。
「はい、閣下。ありがとうございます、トゥエルリッヒ様。
…そっか、そうか…よかった…。…私、…そっかあ…」
とんとんとん、と背中を優しく叩かれる。鷹揚とした普段とは違って、どこかぎこちなさを感じる手つきが、嬉しさと可愛いさを生む。喉奥も胸も、ハノーニアは痛みを感じなかった。
「…ハノーニア」
「はい」
「その、だな…。
…あんなひどい言い方になってしまったが…どうか、結婚してほしい」
エルグニヴァルの言葉に、ハノーニアは身を起こす。
後を追って上体を起こしたエルグニヴァルと見つめ合って、続く言葉を待った。
「あの時の言葉にも、今のこの言葉にも嘘偽りはない。空言にもしたくはない。事実としたい。
……で、あるから…。
どうか、やり直しをさせてほしい。前車の轍を踏むことがないよう、今まで以上に勉強に励む。
どうか、どうかもう一度、機会を与えてほしい」
真剣そのものであるエルグニヴァルの顔を――秋空色の目を見つめて、ハノーニアはつい微笑んでしまった。その笑みのまま、首肯する。
「はい。はい勿論。……あ、でも…」
「でも?」
和らぎかけた秋空色の目が見開かれる。それに申し訳なさを感じつつも、ハノーニアは口を開く。言わない後悔か、言っての後悔か。どちらがいいかなんて人によるだろうし、時と場合にも大いによる。それでも『察してくれ』の呪いにかかって苦しむよりはマシだ、と思って。
「あの…駄目で元々の発言なのですが…。…私から言っては、いけません、よね…その、結婚してください、って…。流石に、はしたない、かな…とは、その…思ったのですが…」
「………。
……お前という…。
…嗚呼、あぁなるほど。うむ、分かる、分かるぞ。これは、可愛くもあり、格好いいともいうものだ。わたしとて、学習しているのだ」
「閣下?」
少しだけそっぽを向くようなエルグニヴァル。彼の頬はほんのりと赤く見える。目を細め、唇を柔らかく曲げるその表情は、ハノーニアにとってはまさに。
「あ、可愛い」
「む…」
結局、一拍ほど置いて二人揃って笑みを零したのだった。
(22/05/08)




