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夢の寿命の限りまで  作者: 真神
第二部
46/50

09:ヒュプノスを祓う_1


 言葉通り、ハノーニアはシュエンディルに抱えられたまま風呂場へ連れていかれた。

 世話をする侍女はいるかと聞かれたので、それは丁重に断った。シュエンディルと共に退室していく侍女たちへも会釈をして、ハノーニアは服を脱ぐ。


(…見られて困るものなんてない。けど…驚かせるのも、いい気分じゃない)


 くすみなど一片もない大きな鏡に映る自分の体を一瞥して、ついわらいが零れた。

 しかしそんな苦い笑いは、湯船に浮かべられた色鮮やかな花びらを目にして跡形もなく吹き飛ぶ。

 水面を覆い尽くす色彩。湯気と共に立ち上る芳香。柔らかいお湯。


「至れり尽くせりだ…」


 肩までどころか頭の天辺まで浸かって、ハノーニアは束の間を味わった、

 風呂から上がり、肌触りの良いタオルで体を拭く。用意されていた着替えを身に着ける。その間もずっと、湯に垂らされていたアロマオイルの柔らかい香りが漂う。強い香りが苦手で普段そう言った類は避けがちハノーニアだが、鼻に合うとでも言えばいいのだろうか、これは不思議と心地が良かった。

 廊下に繋がる扉をそっと開ければ、感じていた気配通り、シュエンディルがソファに腰かけていた。


「お、お待たせいたしました」

「ううん。ちゃんとあったまれた? あ、においは嫌いじゃなかった?」

「はい。お湯の加減も、オイルの香りも、大変素敵でした。ありがとうございます。その、お花も…すごく、きれいで…」

「んふふ、それは良かった。こわばりが少しでもほぐれたようで何より」


 こわばりとシュエンディルに柔らかく言われて、ハノーニアは自分の頬に触れる。

 殴られた訳でもなければ、ぶたれた訳でもない。だから、触れた手のひらに感じるのは湯で温まった心地よい熱だ。

 ハノーニアは、きゅと唇を食む。その癖を柔らかく窘める声は、此処にはない。


「さ、おいでハノーニア。お部屋に案内しよう」

「は…はい」


 差し出されたシュエンディルの手に自分の手を重ねて、ハノーニアは案内されるがまま、この屋敷の中を進む。

 無言のまましばらく歩いた先。「此処を使って」と通された部屋は、エルグニヴァルの私邸での自室に負けず劣らずの広さと絢爛さだった。ただ、色合いなどは此方の方が幾分か好みに寄っている気がして、ハノーニアは不思議さを覚える。


「気に入ってくれた?

 留学中、何度かおしゃべりしたでしょう。その時にね、きっとこういうのが好きなんだろうって思って。当てが外れてないようで一安心だ」

「あ、ありがとうございます…」


 顔に、態度に、出ていたらしい。それも随分と前から。恥ずかしいやら、やっぱり恐ろしいやら。

 自分には腹芸なんてやっぱり無理だ、なんて苦笑しながら。ハノーニアは促されて部屋へと入り、天蓋付きの寝台の傍に置かれた一人掛けソファに腰を下ろす。

 あめ色の丸テーブルを挟んで、反対側のソファにシュエンディルが腰を下ろしたところで、先ほども見た執事が銀色のワゴンを押して入ってきた。丁寧に、且つ手早く、載せてきた軽食や飲み物を丸テーブルに配膳した執事は、微笑みと共に一礼して去っていく。

 水差しを並々と満たす水の中には色鮮やかなレモンやオレンジなどの輪切りにされた柑橘類が浸けられていて、見た目と共に爽やかな香りでもってハノーニアを楽しませた。

 シュエンディルがその水差しを手に取って、手ずからグラスに注ぐ。柔らかく笑う彼がそのグラスを渡してきたので、ハノーニアはおずおずと受け取った。


「では。束の間のおしゃべりを祝して。それと、お風呂の後の水分補給は大事だからね」

「は、はい」


 口を付けた水は程よく冷えていて、溶けだした柑橘類の甘酸っさが喉に心地よかった。


「まぁ、なんて言ったけれども。勿論君はこのままベッドで休んだっていいんだ。

 おしゃべりをするにしたってそう。君には沈黙する権利も、拒否する権利も、途中で投げ出す権利だってある」

「……どうして、ここまでしてくださるんでしょうか」


 かねてから思っていることを、この際だからとハノーニアは口にしてみた。

 シュエンディルは柔らかく笑った。


「それは勿論、君が好きだから、だね。

 いやはや、我ながら月並みな言葉だと思うが…。信じてほしい…けれど、それよりも伝わってほしい、かな。この気持ちを表すならば」


 柑橘水を一口味わったシュエンディルは、今度はにまっと悪戯っぽい笑みを浮かべてみせる。


「これね、前にトゥエルリッヒにも言ったんだ。ぼくの素直な気持ちを伝えたんだけれど…彼ったらものすごく顔をしかめてみせてね。もう…ぼくの心はズタズタにされたよ。

 本当のことほど、素直な気持ちほど、伝わらなかったり、信じてもらえなかったりするのは…んふふ、さて、どうしてでしょうねぇ」


 そう言葉を結んだシュエンディルは、もう一口グラスをあおった。

 ハノーニアはそんな彼を見て、それから自分のグラスに視線を落とす。無色透明の水面からは、相変わらず柑橘類の爽やかな匂いが香ってきて、それを味わうために少し深めの呼吸をした。


「……好き、だから」

「うん」

「好きだから、色んなことを、してくださる…」

「ぼくは、ね。他がどうかは、流石に明言を避けよう。これでも立場上というか、色んな人間を見てきたけれど、とは言えそれが全てじゃあない。

 特に、君の好きなひとに似ている、当てはめることが出来る人間なんて…んふふ、いたら是非とも会ってみたいなあ」


 シュエンディルの柔らかい笑い声が部屋に滲んでいく。


「…私の、好きな、人…」

「ん。違った? トゥエルリッヒ・フォン・エルグニヴァル。この帝国の最高官職。そこに座する男。

 君のことを好きになった男で、でも初めて尽くしだから力加減がまったく! これっぽちも! 分からない! きっと後世にも長く永く語り継がれるだろう朴念仁!! その究極体!!」

「えッそこまでですかッ!?」


 シュエンディルの力が入った、しかしあんまりなエルグニヴァルの評価に、ハノーニアは思わず声を出した。


「本当はもっとある」

「もっと…」

「聞きたい?」

「…、…ま、またの機会に、えぇ、はい」

「うん。嬉しいなあ、ハノーニアと次もおしゃべりが出来るなんて」


 言ってしまって、ハノーニアはそっと唇を押さえた。しかし放たれた言葉が戻ってくるわけも、消えてなくなる訳でもない。大人しく沙汰を待つことにして、ハノーニアは一口、喉を潤す。


「………。…えぇ、はい。そう、ですね。好き、です。好き、なんです。分不相応だと分かっていても、この目の…『宵の薄明』の囲い込みの一環だとしても。好きなのです。まんまと、好きに、なってしまっているんです。

 でも。

 でも………こわい」

「そう…。どんなところがこわいの? さっきみたいなところ?」


 シュエンディルの声は、変わらずに柔らかい。

 ハノーニアは目を瞑って反芻した。


「…そう、かもしれません。はっきりと、此処が、此処だけがこわい…と、言い切ることも、出来ないのです。

 好きで、でもこわくて。こわくて、でも…好き、で…。

 どちらが、本当の気持ちなのか…分からない、のです…」


 深く息を吐いて、ハノーニアは目を開ける。

 視線を感じてシュエンディルの方を向けば、肘掛に肘をつき、頬杖を付いた彼と目が合った。丸眼鏡の向こうで、鮮やかな紫の瞳が煌いている。


「うん。…分からなくても、いいんじゃないかな」

「え…」

「だって、それはどちらもが君の気持ちだ。君の心から生まれた、正真正銘の君のおもいだ。

 どれもこれもが本物だ。嘘ものなんて、そもそもが存在しない」

「…でも…」

「うん」

「でも、私は、閣下が、あの方が…好きで…お慕い、していて…。…きっとあ――」

「うん。

 でも、だからって。それこそ全部すべてを好きになる必要があるのかい?」

「、」


 ハノーニアの唇を人差し指で優しく押さえながら、シュエンディルはもう一度微笑んだ。


「全部すべてを好きになる。それは、なんて素敵で、なんと素晴らしいことだろう。

 そうしてしまえば、あぁ成るほど、いっそ楽かもしれない。

 でもさ、そうじゃないところがあったっていいんじゃないかな?

 ほら、自分自身のことだって全部すべてを好きになる人間も、そういないだろう? なら、違うもの同士だもの。

 それに、全部すべてが好き…が、全部すべてが嫌い、に変わってしまったら。流石にかわいそうだ」


 ハノーニアはゆっくり瞬きをする。何処かが、ほんの少し楽になった気がした。

 そんな変化を感じ取ったのだろうか。シュエンディルは笑みを深めて、押さえていた人差し指を放す。


「うん。

 あぁ、突然ごめんね。でも、やっぱりその言葉は彼に言ってあげて」

「…はい」


 自分がなんと言おうとしていたか思い出して、ハノーニアは頬が熱くなるのを感じる。


「んふふ、可愛い。

 いい子いい子、可愛い子。指、噛み千切らないように我慢してくれてありがとうね」


 シュエンディルにそっと頭を撫でられながら、ハノーニアはぎこちなく笑った。

 長い指が目の前に出されたあの瞬間――反射的に「ぱくり」といきそうになったのだ。否、イメージでは噛み付いていた。


(……こわいのは、自分自身に対しても…なのかもしれない)


 シュエンディルの手が離れて、ハノーニアはグラスをそっとあおる。水はまだ冷たくて、喉を通る感触が気持ちよかった。

 グラスはそうして空になった。シュエンディルにすすめられたのもあるが、純粋にすっきりしておいしかったのもあり、もう一杯だけハノーニアは柑橘水を貰う。

 それをゆっくり、無言で飲み干したところで、自然と今日のおしゃべりはお開きの空気となった。


「今日はもう此処に泊っていきなさい。トゥエルリッヒ…うーん、エルンスト君がいいかな。彼にちゃんと連絡しておくから。

 ゆっくり休んで。それで、明日元気に会えばいい」

「……どんな、顔をして…会えば…」


 そんなことは自分で考えなければいけない。だのに、つい本心が零れて出た。

 思わず俯いたハノーニアは、シュエンディルの弾けるような笑い声を聞いて、即座に顔を跳ね上げる。


「なに、そんなのは決まってるさ。

 満面の笑みで。

 ついでにこう言っておやりよ。

 プロポーズやり直し! って」

「………ぷ、ぷろぽーず――ぷあ」


 言われてみれば。鬼気迫るような雰囲気で迫られ、それでいてどこか淡々とした声で紡がれていた内容は、はて、確かそんなものだった。

 大遅刻してやって来た感情の突沸に、ハノーニアは顔を覆う。持ったままだったグラスが眉間に当たってとても痛かった。


「うぅーー」

「ありゃあ。

 ささ。ほら。寝た寝た。睡眠薬いるかい?」


 グラスを手からやんわりと奪われつつ、最後の申し出は丁重に断って、ハノーニアは促されるまま隣の寝台へすごすごと退散し、ふかふかの布団の中へ身を隠した。

 シュエンディルの柔らかい笑い声がそっと上から降ってきて、ぽんぽんと布団越しに撫でられるのを感じた。


「いい子いい子、可愛い子。

 おやすみ。良い夢を。また明日。ちゃんと送って行くからね」

「……お先に、失礼いたします。…おやすみなさい、良い夢を」


 そのやり取りを最後として、シュエンディルは部屋をそっと出て行った。

 靴音も気配も遠くなってから。ハノーニアは枕と掛け布団の間から顔を出す。少しの間動いて体勢を整え、ひとまず目を瞑った。


「…明日…」


 ハノーニアは体を丸め、ブレスレットをもう片手でさすりながら頬に当てる。


(……嫌われたら、どうしよう…。…いや、嫌われる――嫌うのも好きになるのも、閣下の自由だ…)


 深呼吸して、力を抜いた。

 軍人兵士として、何処でもいつでも、眠れるときに眠る。そう体に教えてきたし、それを会得した。だから、こんな安全も何もかもが確保された場所で眠れない、なんてことはない。

 つまるところ――次に覚醒した時は朝だった。ちなみに快晴である。


(訓練、万歳)


 バッチリしっかり眠ることが出来た自分に苦笑いが零れて仕方ないハノーニアは、身支度を整え、適当な時間に尋ねてきたシュエンディルと共に朝餐を取ることになった。

 テーブルに並んだしっかりしたメニューにハノーニアが目を見開けば、向かいに座ったシュエンディルに「朝もしっかり食べるって聞いたから。体が資本だものね」と微笑まれた。誰から聞いたのか、気にならない訳ではないが聞く覚悟はなかったので、ハノーニアは元気よく「はい」と頷くだけにした。


「さてさて。オタノシミ。総統府へ乗り込むとしようか」

「…ぎょ、御意のままに…」


 公用車に意気揚々と乗り込むシュエンディルに手を引かれて、ハノーニアは彼の隣に座ることになった。運転席で待機していた副官とバックミラー越しに目が合う。クレヅヒェルトで世話になったあの一人だ。


「あ…お久しぶりです。お元気そうで、何よりです」

「ノイゼンヴェール中尉殿も。お会いできて嬉しいです」


 ハノーニアの挨拶に、副官の彼も目を柔らかく細めて会釈を返してくれた。

 そんな和やかな雰囲気は、お約束というか、シュエンディルによって瞬殺されるが。


「さあさあ、出してくれ給え。いざゆかん。魔王の元へ。その心臓、刺し貫いてくれるわ!」

「たたたた大将閣下!?」

「んふふ、そんな可愛い顔しないでハノーニア。大丈夫。ぼくが刺そうが首を落とそうが、トゥエルリッヒは死にやしないよ。だって、怪物を倒すには色んな手順がいるんだもの。特別なおまじないだって必要でしょう。ほら、例えば乙女の祝福とか」


 シュエンディルから完璧なウインクを貰ったハノーニアは、しかし話について行けていない。

 笑みを深めたシュエンディルが、肉薄してきた。


「怪物を生かすも殺すも、君次第ってコト」

「っ、なに、を」


 身を離して座席の背もたれにもたれかかるシュエンディルは、蠱惑的に微笑む。


「お前が望むようにしたらいいのさ。奴の首根っこにかぶりついて、振り回して、地面に壁に叩きつけて、動けないようにして、それからゆっくり味わったっていい。

 勿論、お前がそうしたくない、そうなりたくないっていうなら、その(すべ)だって教えよう。

 言ったろう。ぼくはお前が好きなんだ。出来ることはすべてしてあげたいと思うほど、ね」


 いっそ無邪気ささえ感じる笑みを浮かべるシュエンディルに、ハノーニアはぎこちなく深呼吸した後。


「……やはり、好きってこわいものなのですね」


 そう呟くのがやっとだった。

 それからしばらく、帝都の中を総統府まで走る車内は静かだった。


「あぁそうだ。念のため伝えておこう」


 沈黙を下ろすのもシュエンディルなら、それを破るのも彼だろう。

 朗らかそのものの声音で、シュエンディルは話を再開した。


「あの家にはいつでもおいで。トゥエルリッヒと喧嘩した時とか、トゥエルリッヒの分からず屋に愛想が尽きた時とか、エトセトラ、エトセトラ。

 勿論、おしゃべりでも大歓迎。

 君は既ににおいを覚えたから。迷うことはないよ」


 指折り数えるシュエンディルの顔は、やっぱりというか楽しそうだ。

 ハノーニアはつい、自分の鼻の先を触った。

 そんなやり取りをしている内に、車はついにとうとう総統府へと到着する。


「ようこそ御出で下さいました、ヴォルフォツェール大将。

 ノイゼンヴェール中尉、随行ご苦労」

「はっ」


 正面玄関にて、ハノーニアはシジルゼートとその第一副官からの出迎えを、シュエンディルの傍らで受けた。

 朝食の席で「機密文書の受け渡し、および護衛…という設定で行こう」と、ノリノリなシュエンディルから説明を受けたことを思い出す。そんなハノーニアは、敬礼を返しつつ、目が合ったシジルゼートからこれまた素敵なウインクを貰って、スンとなるしかなかった。

 諸々の入庁手続きを済ませて、一行は総統執務室へと進む。

 部屋が――エルグニヴァルが近づくにつれて、胸の辺りが詰まるように痛みだしたが、ハノーニアは呑み込んで切り替える。

 シジルゼートとシュエンディル、副官たちに続いて入室したところで、ハノーニアは執務机から顔を上げたエルグニヴァルと目が合った。


「総統閣下。ノイザ・ヴォルフォツェール大将をお連れいたしました」


 後ろで扉が閉められる。


「やあ、元気そうでなにより。ちょっとでも弱ってたらその首貰っていこうかと思ってたんだけれど」

「フン」


 秋空色の目が不機嫌そうに細められ、シュエンディルを射貫く。

 そうして、再びハノーニアと視線が結ばれた。途端に和らぐ眼差しを見つめ返して、ハノーニアは敬礼する。


「ノイゼンヴェール中尉、只今帰還いたしました。

 まずは、勝手きわまる行動を心よりお詫び申し上げます。申し訳ありませんでした。

 ……次いで、恐れながら申し上げます。

 エルグニヴァル総統閣下はいずこでしょうか。ルシフェステル准将閣下」


 ――しかして。

 締め切られ遮断された広い執務室内に、笑い声が弾けたのだった。



(22/04/17)

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