08:アトロポスのベール_2
――教会の一室。その前で呼吸をなんとか整えたハノーニアは、顔見知りのシスターと共に入室する。
部屋の中は、どこか優しい香りがする。変わっていないことに安堵して、質素だが粗末ではない寝台へ、足早に、しかし音を忍ばせながら近づいて。ハノーニアはそっと、声をかけた。
「…シスター・ゲルトルーディス様」
「…ああ、ハノーニア…」
寝台で仰向けになっている老女が、うっすらと目を開ける。ほとんど吐息と同じくらいの微かな声を、ハノーニアはしっかり聞き取り、頷いて見せた。案内してくれたシスターに勧められた椅子に浅く座り、身を乗り出すようにして寝台の上のシスターと顔を合わせる。
「シスター」
「ええ、ええ、ハノーニア。わたしの、かわいい、ハノーニア…きて、くれたのですね…うれしい、わ…」
「はい。はい、シスター。来ました。走って、飛んで、来ました。シスターに、会いたくて」
嘘でも比喩でもなく、夜が深まる帝都の中を走ってとんで、まさに最短距離で教会までやってきた。
微笑むハノーニアにシスターも淡く笑いかけ、手を伸ばしてきた。気づいたハノーニアは、その手を握る。シワの刻まれた手はなんだか随分と小さく感じて、鼻の奥がツンと痛んだ。
「ああ、こんなに、ひえて…夜の風は、かわらずひえるから…」
「えぇ、そう、ですね」
「ハノーニア、かわいい、かわいい、ハノン。泣かないで、ちょうだい」
もう一方のシスターの手が伸ばされて、確かめるようにハノーニアの頬を包む。溢れた涙をゆっくり拭うシスターが、また「ふ」と柔らかく笑った。
「おおきくなっても、泣き虫ね…かわいい、ハノン」
「…シスターの、前でだけ、ですよ」
ふふ、と吐息で笑ったシスターはこう言う。
「わたし以外にも、きっと、泣き虫のあなたを、かわいいと思う、ひとは、いるわ…いえ、もう、いるのかしら?
その誰かを、みることができないのが、こころのこり、ですね…」
「シスター」
「ハノン。ハノーニア。かわいい子。みまもって、いますから…ね」
シスターの手が、頬を撫でていく。
下りてきたその手を、ハノーニアはしっかりと握った。シスターの手もきゅ、と握り返してくれた。その後暫くして――そっと、力はほどけていって。それっきりだった。
***
――シスター・ゲルトルーディスの葬儀は滞りなく行われ、そして終わった。
関係者の一人として参列したハノーニアは、同じく参列していたエルグニヴァル共に私邸へと帰宅する。そして、一人。着替えもそのままに、邸内の礼拝堂へ足を向けた。
堂の隅に置かれたピアノの前に座り、蓋を開けて鍵盤に指を置く。一呼吸の後に、奏でるのは聖歌だ。協会付きの施設で育った幼年の頃に覚えた曲と歌――シスター・ゲルトルーディスが、こっそり教えてくれたもの。それは今でもハノーニアの指がちゃんと覚えている。
前世を憶えていて、尚且つ夢で見て思い出すために、どこか周りの子どもたちとはずれていた。そんな自分を「いい子」だと撫でてくれる大人たちが殆どだったけれど、それでも内心で薄気味悪く思う者もいたことを、ハノーニアも感じていた。それでも、ゲルトルーディスをはじめとするシスターや神父たちがよくしてくれた。
初回の一斉健診で『魔力適性あり』とされて軍に徴用されるまでの、さほど長くない時間だった。けれども、あたたかい思い出として、ハノーニアの心を支えてくれている。
最後の一節を歌い終え、最後の音を弾く。
堂の高い天井に響きがとけて消えた。
その一呼吸ほど後。鷹揚な拍手が鳴る。
「――…閣下」
一人分の気配は、早いうちから感じていた。
そもそも、此処はエルグニヴァルの私邸なのだ。主人たる彼が何処へ行こうが何をしようが、自由で当然のこと。
礼拝堂の出入り口に佇むエルグニヴァルもまた、まだ礼装のままだった。
「聞き惚れるほど、見事であった」
「いえ、過分な評価でございます。お耳汚しを…」
拍手を終えたエルグニヴァルが、ゆったりとした歩調で歩いてくる。迎えるために立ち上がったハノーニアは、向かい合った途端、彼に抱き寄せられる。
「ハノーニア」
エルグニヴァルの腕の中に収まったハノーニアは、背中を撫でる手に促されて彼の肩に顔をうずめる。それから少しの間、そうしていた。
「…ハノーニア」
「はい」
「かなしいか」
「…はい」
「そうか」
「はい。…かなしくて、さみしいです」
エルグニヴァルの手がそおっと頭を撫でた。
「…そうか。
ハノーニア。ならば…わたしが死んだときも、お前はかなしんでくれるか?」
ハノーニアは勢いよく顔を上げてエルグニヴァルを見た。静かな空色の瞳と、視線が結ばれる。
「わたしが死んだときも、さみしがってくれるだろうか?
今のように、聖歌を奏で、歌ってくれるだろうか? わたしをおもって」
「…、はい。はい閣下、かならず…必ず。
ですから、…ですから! どうか、どうか今は、今だけは。そんなこと、おっしゃらないで、ください…」
感情が涙となって目から溢れ、嗚咽となって口からこぼれた。ハノーニアは必死に耐えようとしたが、ことごとく失敗した。喉の奥は詰まるように苦しいし、胸の辺りが冷えるように痛んだ。
「…すまない、ハノーニア。すまなかった…泣いてほしいわけでは、なかったのだ。ただ、確認したかっただけなのだ。あぁどうか、許してほしい…」
顔をそっと寄せられて、丁寧な動作で絹のハンカチーフで涙が拭われていく。合間合間にあちこちにキスを贈られる。
唇が肌に柔らかく触れる都度目を瞑りながら、ハノーニアは自分の唇が歪ながらも笑みの形を作っていくのを感じた。
(……あぁ、嗚呼…あー…あ。駄目だ。駄目だ、駄目だった。やっぱり、もう、ダメだった。
傷付きたくなくて、囲い込みの一環だって自己暗示。ハニートラップだって言い聞かせて、それでもいいって。何度も。何度だって。
……あぁ、うん。それで、いいんだ)
ハノーニアは微笑んだ。
「……閣下、閣下。もう、もう十分です。もう、十分です」
「ハノーニア?」
「もう、十分です。ですから、もう…これ以上、なにもくださらなくて、けっこうです。もうわたしは、十分ですから。十分、過ぎています。いただいた分すら、きっと…返せません。でも、ですが」
ハノーニアは微笑んだまま、エルグニヴァルから一歩程距離を置き、跪く。
「この身、この目、この力…この命。すべてをもって、お仕えいたします」
深く垂れた頭を上げて――ハノーニアは目を見開く。
エルグニヴァルも、此方を見下ろしていた。その彼の唇が、戦慄いている、ように見える。『明の薄明』が灯った目が見開かれ、震えている、ように感じる。
ハノーニアが「閣下」と呼びかけるよりも速く、エルグニヴァルの口が言葉を放った。
「何故、はなれる」
聞き取った言葉の意味が、ハノーニアは分からなかった。
「何故だ。
言ったであろう、お前が。貴様が。
呪いも愛も同じだと。貴様が言ったのだ。だのに、何故はなれる。
其処ではない。そこでは遠い。此処へ来い。わたしの傍へ、今すぐにだ」
「、かっか」
掴まれた腕は勿論、力が伝わった関節まで痛んだ。ハノーニアは走った激痛に顔をしかめる間もなく、再びエルグニヴァルの腕の中へ。ただし、今度は抱き締めるなんて優しいものではなかった。
息が詰まるほどの力で胸に押し付けられる。幾つも付いた装飾が、冷たくてこれまた痛い。
何とか呼吸を確保しようと身じろげば、丁度エルグニヴァルの演算珠が米神辺りにあたって。銃口を突き付けられたイメージがフッとハノーニアの脳裏を過っていった。
どくどくと、伝わり鳴り響く音は、心臓の音だろうか。これは果たして自分のものなのか。それともまさかエルグニヴァルのものなのか。
「ハノーニア」
呼ばれて、ビクリと体が跳ねた。
「ハノーニア。ハノーニア、責任をとってくれ。わたしに、こんなものを、心とやらを持たせた、その責任をとってくれ。
重たくて、かなわんのだ。体が思い通りにならぬ。お前がいなくては、立っていることさえままならん」
突然、左目に光が刺さる。
取り払われた眼帯の行方を気にかける余裕など、とっくにハノーニアにはなかった。
顎を掴まれて上を向かされ、エルグニヴァルと視線が合わされる。
「ああ、嗚呼。もうよい。もうよい。
もうよいだろう。
ハノーニア、結婚しよう」
礼拝堂には相応しく、しかし、今この状態には似つかわしくないだろう言葉が、エルグニヴァルの口から聞こえた。
「結婚してしまおう。ハノーニア。
そうすれば、わたしはお前の夫で、お前はわたしの妻で。つまりは、それが理由になる。名実ともに、わたしがお前の、お前がわたしの傍にいる理由になる。互いが互いのものだと証明になる。そうであろう」
瞬きさえ憚られる。そんな気配をまとうエルグニヴァルは、無表情だった。
微笑みは勿論、眉さえちっとも動かない。
「結婚してほしい、ハノーニア」
ただただ、煌々と灯る『明の薄明』が。そこにある。
引きずられるように、ハノーニアは自分の口がわななきながら開くのを感じる。
(…此処で、頷けば…あぁ、きっと…楽になれる…)
そう思った。きっとそれは、間違いではないだろう。
あわよくば、もっと、より一層、傍に。そんな気持ちが一粒もなかったなんて、嘘は吐けない。
望みが、叶う。だのに、ハノーニアは、咄嗟に唇を噛み締めた。
それと時を同じくして、礼拝堂の扉が乱暴に開け放たれる。
「プロポーズは大事なこと。一世一代の大ごとだ。そして女の子たちの夢でもある。
そんな夢を、ぶち壊すのは、何処のどいつかしら?
貴様だよトゥエルリッヒ・フォン・エルグニヴァル。
そんな大悪党に、そんな可愛い子はあげられない。教皇が許そうがこのぼくが許すものか」
激しい音を立てて扉を開けて入ってきたシュエンディルは、一息にそう言った。
そう言って、わらう。逆光の中で『宵の薄明』がわらった。
エルグニヴァルにも、シュエンディルにも、隙などなかった。
なかったので――作った。
「頭を冷やせばーか!! 特別にやり直しを認めてやるから出直してこい!!
でないと、この子はかえしてやんないからなー!!」
――ハノーニアは、シュエンディルの腕の中にいた。
シュエンディルにしっかりと抱きかかえられながら、彼の肩越しに見た光景――ルシフェステルとシジルゼートの二人によって取り押さえられたエルグニヴァル――は、きっとそういう事なのだろう。
そこでようやく、瞬きが出来た。乾いた目が涙で潤う前に、景色が飛ぶように変わる。
ように、ではなかった。シュエンディルは実際に飛んでいた。
『梟』の魔力種に相応しい無音の飛行で、瞬く間にエルグニヴァルと――彼の私邸と離れていった。
「よしよし。怖かったね」
「、でん…か」
いつの間にか、帝都の街並みはかなり下にあった。防御壁が張られているお陰で、冷たい風も感じない。
撫でられて顔を上げれば、柔らかい紫の目と視線が結ばれて。ポロリと、ハノーニアの琥珀色の目から涙が零れ落ちた。
それを航空中にもかかわらず、器用にすくって拭ったシュエンディルは、微苦笑を浮かべた。
「あぁもう、あのばか。
…本当は、このまま連れ去って帰ってしまいたいけど…。…ぼくだって、そこまで意地悪じゃあない。君には、嫌われたくないし、いいひとでありたいから…。
ちょっと、気分転換。ね?」
首をかしげるしぐさは、年上と分かっていても無邪気さを感じずにはいられなかった。
思わず頷いてしまったハノーニアは、髪にシュエンディルからそっとキスを贈られる。
「いい子いい子、可愛い子。
……さ、着いた着いた」
笑うシュエンディルが、そうして衝撃もなく降り立ったのは見事な庭園の一角だった。
青々と茂る芝生はきれいに刈り揃えられていて、傾いてきた陽光を受けつつ煌いている。その上を、シュエンディルに抱き抱えられたままハノーニアは行く。
「まずはあったかいお風呂に入って、着替えて…。甘いものでもつまんで。そのままひと眠りしてもいいし…おしゃべりしたっていい」
執事が開けたステンドグラスで飾られた扉をくぐりながら、シュエンディルが優しく言う。
「…出来れば。そのおしゃべりのお相手は、どうぞぼくに。
女の子じゃなくてごめんね」
そこら辺、否、下手な貴族の婦女子よりも麗しい微笑みを零して見せるシュエンディルを見上げて。ハノーニアは此処でやっと、ふ、と息を零せた気がした。
(22/04/03)




