ニーズヘッグの巣_2
――体が重い。
呼吸さえ億劫になるこの感覚は、いくから前に経験した。出来ればもう二度と御免だという願いは、どうやら却下をくらったようだ。
不意に、自分以外の手が頬に触れた気がした。鈍化した触覚が、そこからじんわりと精度を取り戻していく。陽炎のようにはっきしなかった意識のピントが合っていく。
周囲の音が、さわさわと近寄ってくる。
気配は、さほど多くない。行ったり来たりと忙しなかった。
ツンと鼻の奥をつつくのは、消毒液に似た臭いだ。
(どこ、だ…びょういん…?)
目はまだ開けない。なんとなく、そうしたほうが良いと思った。
麻酔を打たれた時のようにぼんやりとする感覚を必死に研ぎ澄ませて、情報をかき集める。
そんなハノーニアの集中を散らすように、また誰かの手が肌を滑った。
「素晴らしい」
落ち着いた男の声が真上から降ってくる。
その声は、どうしてかハノーニアに想い人を連想させた。その歓喜によく似た恐怖で満たされる心の震えが、体にも伝わってしまう。
声が微かに笑い、その男のものだろう指が優しくハノーニアの唇に触れた。
「…どうか、あと少しそのままで。
そう…いい子ですね」
囁いて、男の指は気配と共に離れていった。
ハノーニアは必死に呼吸を潜める。薄くでも目を開けという意志と、見たくないという本能的な恐怖がせめぎ合って、奥歯を噛み締めた。
(――か、っか)
祈るように、心の中で唱えたのはそれだった。
刷り込みと言われようが依存と言われようが、ハノーニアが縋るのはもうその存在だった。
あの澄みわたった秋空色の目を見たい。あの目で見つめられたい。
あの深く落ち着いた声を聞きたい、あの声で呼んでほしい。
あの匂いに包まれたい。肺胞の一つすら残さずに満たされたい。
悪夢なら覚めてほしい。
そのためには、嗚呼――目を開けなければいけない。
「――……、…」
気配が近くにないことを確認して、ハノーニアは薄く瞼を開いた。
まつ毛の隙間からの視界は当然狭く、焦点も合わせづらい。それでも、今いる場所が自分の知らないところであることは分かった。
分かってしまったので、知らなかった時には戻れない。口を吐きそうになる悪態を必死に噛み殺して、周囲をそれとなく見回す。
(……雰囲気は、研究所に似ている、か…)
漁った記憶の中で、摘まみ上げたのは帝国の魔導研究所。それから、クレヅヒェルトの研究所。どちらも様々な機器が所狭しと並んでいた。そんな雰囲気は似ているが、此処よりも明るさは保たれていた。
此処は、空気に淀みこそ感じないがどこか閉じられた暗さを感じる。
(…地下?)
ふと、夜気とはまた違う水気を含んだ冷たさを感じ取って、ハノーニアは溜息を吐きかける。
(なにそれ…お約束ってか?)
此処に至るまでの記憶は、きれいさっぱり途切れてなくなっている。歓待式からどれだけ時間が経っているかもわからない。未だミノーレア国内なのか、クレヅヒェルトに戻ってきたのかさえ不明だ。
ただ、芳しくない状況――捕らわれの身となっていることは、把握した。
(最悪極まる)
一度強く瞬きを挟む。はてさて、単騎でどこまでやれるかと知識や知恵を巡らせる。けれども、いっその事何も考えず滅茶苦茶に暴れてしまおうか、なんてやけくそになりかける。これでも白兵戦は得意――というかよく遭遇した。
しかし頼みの綱どころか生命線の演算珠がない。補助演算珠もご丁寧に外されていて、泣きたくなる。
丸腰はこんなにも恐ろしいものだったか、なんて。今はもう何もかもが夢でしか憶えていない前世は、やはりすごい世界だったのだなぁとわらえてくる。
(…あぁでも、それだけじゃないんだろうね…。…あの人を…閣下を感じることが出来ないから…、…あぁ、ちくしょうめ…)
幸か不幸か、ハノーニアの自嘲は誰に拾われることもない。
そもそも、行き来する気配はあれど、ハノーニアの元へ近づいてくるものは先ほどの男以外にいない。遠巻きにされている雰囲気さえ感じるようになってきた。
「おや…一体何をそう驚かれるのか? いや…恐れている、のか」
男がわらった。それはハノーニアではなく、どうやら周囲で動く者たちへ向けられたもののようだ。
「新しい『宵の薄明』が来たと、喜び勇んで運び込んだのはお前たちだろう?
あぁ…確かに、これほど状態が良好な『宵の薄明』はいつぶりだろうか。大方が精神、もしくは身体に傷を負って…時には自我まで既に遠くかなた…。
嗚呼、本当に…美しい。それ故の恐怖…畏敬、畏怖…そういったものならばわたしにも分かる。むしろ、それらで胸がいっぱいだ」
男の気配だけが靴音と共に近づいてくる。
もう起きていることがバレているハノーニアは、今度こそその目――『宵の薄明』で男を睨みつけてやろうとして、それは一瞬しか叶わなかった。
口走りかけた唇を、再び男の指で優しく抑えられたからではない。
男の雰囲気が、あんまりにもエルグニヴァルにそっくりだったからだ。
「…嗚呼、本当に素晴らしい」
男は目の動きでハノーニアへ沈黙の継続を命じると、ようやく口を開いた白衣の研究者たちへ顔を向けた。
「いつ起きるやもしれぬ」
「それは狼だ。起きてしまえば我々の手に余る」
「リインはきちんと投与したが? わたしが注射するところを確認していただろう」
「花に対する用量だ。心もとない…」
「増やすか? いやしかし、今後に支障が出ては元も子もない」
にわかに賑やかとなった周囲に肩を竦めた男は、微笑を浮かべてハノーニアを見下ろす。
「知っての通り、リインは魔力や魔導に関わる諸症状の万能薬として名高い。つまり、魔導師たちには良くも悪くも効き目が強い。薬として使用されることが一般的であるが…当然、毒としても有効だ」
「なに既知の事をつらつらと」
「追加投与をするのか、それともこのまま始めるのか。さっさと決めろということだ。
そろそろ時間も、少なくなってきたのではないか」
「……。…あぁ、花が…」
「花よ」
「我々が手塩にかけて育てた花よ」
声たちが、一斉にある一点を向いたのが分かった。
男がさりげなく位置を移動し、周囲から死角を作った。拍子に、羽織る白衣がはためき、ベルトに付けられた装備がカチャカチャと揺れて音を立てる。
そんな男の目が、顔が。まるで促すように向こうを見る。
ハノーニアは、細心の注意を払い、最小限の動きでもって顔を向けた。
息は呑まなかった。
少し離れた隣の寝台に、アルス・ゲシェンクが力なく横たわっている。ほっそりとした少女らしいその体を、いくつもの星座石に囲まれて眠るその光景は、ある意味神秘的だろう。ただし、石一つひとつが溜めこみ、アルスへと流し巡らせている魔力は、彼女自身のものだけではなかった。
遅れてやって来た吐き気に似た感覚を、ハノーニアは奥歯を噛んでぐぅっと耐える。
「手塩にかけた…か。
それにしては、随分と貧弱な出来だ。…まぁ、ミノーレアはそういう場所だからな。花壇や中庭…果ては温室とあだ名されるのは、単なる揶揄嘲弄だけではない」
「……口が過ぎますぞ。いかに貴方と言えど…」
「わたしと言えど…はて、どうする? どうしてくれる?」
男がまた移動し、アルスと彼女を囲む幾人もの白衣の人物たちから、ハノーニアを遮るように陣取る。
「なにが出来る、貴様たちに。
己が花の可愛さ余りに、結局は適切な処置を行えず、そうして寿命を縮めただろう?
いたずらに『混線』を誘った。結果、帝国のみならず魔女の国の介入まで招いた。大梟は墓をも見ていった。じきに黒鷲どもが軍勢でもって踏み荒らしに来る。
だから、わたしは言っただろう。わたしは言ったぞ。石は使うべきではないと。この花には合わないと。それに足も付きやすい。法が整備されて久しく…あちこちで目は光り、耳は澄まされている。体から離れている分、ずれやすい。気配も残る」
男は片手で額を押さえると、悩ましそうに軽く俯いた。彼は首をゆるゆると振って続ける。
「クレヅヒェルトへ行くことも、わたしは止めた。
石に引っ張られ、引き千切られ、すでに自我は薄く…持たないだろうと。そんな状態で、魔力の溜まり場として名高いかの地を訪れるなど…。
案の定、暴走だ。あまつさえ、あのエルグニヴァルの御気に入りに歯向かったと聞く…。嗚呼、いっそ運命的だな。
『裏切り者』とも叫んだ、とか。なるほど。石に留まった奴らも相当奴を思っているからな…。さぞ感動的な対面だったのだろう…。直に見ることが叶わなかったのは、あぁなんとも、心から悔やまれるが…」
言葉とは裏腹に、男の表情は嬉しそうだ。そのちぐはぐさが、ハノーニアの背筋をぞわりと撫でていく。
「待ち望んでいた『宵の薄明』…。それをわざわざ人目に晒す…その意味が、わたしには分かりかねる。
しまっておけばよかろう。大事に大事に、温室の中で育てていけばよかろう。
何度だって言ってやろう。ミノーレアは、そういう場所だ」
いつの間にか囁きすら止んだ。
静まり返ったこの広い部屋に、男が両腕を広げる衣擦れの音が、やけに大きく伝わる。
「さぁ…時間のようだ」
「!」
ざわめきが突沸したのは、男の言葉が原因か。それとも。
「――閣下?」
いっそ自然に。いっそ愛らしく。夢うつつのアルス・ゲシェンクが突如として覚醒したからか。
白衣の研究者たちが騒然とする中、男は音も微かにハノーニアへ振り向いた。
胸辺りで翳された大きな片手に身構えたハノーニアは、しかし、男が袖の中を滑らせて取り出したものが自分の演算珠と補助演算珠だと気が付いた。
ハノーニアが眼を見張るのが先か。男がそれを胸元にそっと落とすのが先か。
慣れ親しんだ金属の重みを感じるや否や、ハノーニアは演算珠と補助演算珠を鷲掴みにすると同時に体の隅々まで魔力を伝える。
次いで、隣で動く気配から嫌な予感が全身を駆け巡った。
星座石が滑って落ち、硬い音を立てて辺りに散らばった。
一呼吸ほどの間を置いて、悲鳴にも似た声を上げて飛び掛かってくる少女を、ハノーニアも寝台から転がり落ちることで辛くも避ける。
素早く立ち上がり、少しでも距離を取るためその場から飛び退く。ついでに引っ掴んだ男から上がるのは悲鳴でも非難の声でもなく、喜色にまみれた賞賛だった。
「素晴らしい、素晴らしいぞ! あれだけのリインを投与したにもかかわらず、この短時間での覚醒、しかも自我を保っている! あぁ身体能力の向上作用も予想以上だ!!」
「ッ! やはり、狼め…」
男に黙れと一喝するのが先か。恨めしいとばかりに此方を見つめる研究者たちを張り倒すのが先か。ハノーニアは寝起きの立ち眩みに似た感覚の中で一瞬だけ考えて、とりあえずそれは横へと蹴飛ばした。
「…あぁ…やっぱりというか…まずは、君をどうにかしないと、…先には、進めない…らしいね」
ねぇ、ヒロイン。
ぽろりと零れた単語は、きっとそのヒロイン自身に硬い床ごと踏みしめられて潰れてしまった。




