ニーズヘッグの巣
ミノーレア国軍との引継ぎも、滞りなく進んだ。
一番警戒していたアルス・ゲシェンクの身柄引き渡しも、つつがなく終わった。
シュエンディルの供の一人として随行した歓待式は、諸々の事情から規模は小さくとも、華やかさで溢れていた。
「いかがお過ごしでしょうか。
クレヅヒェルトと近しい部分も多い我が国ですから、お口に合うものもあるとは思うのですが…」
「えぇ。この通り、お相伴に預かっております。大変おいしく頂いております。
わざわざお声をかけてくださり、ありがとうございます。ティハルト殿下」
シュエンディルとは程よく距離を空けて食事をいくつか摘まんでいたウルリカは、近付いてきた人物に向き直りニコリと微笑んで礼を取る。
仲良くなった――と言うにも言われるにも、遺憾であるが――ティハルトは、こちらも顔なじみになってしまった騎士の青年を伴ってウルリカの傍で足を止め、柔らかい溜息をそっと零した。
「良かった」
「おや…そこまで気にかけてくださっていたのですか?」
「えぇ…。…その、貴女にはお世話になりましたので。沢山」
柔らかく苦笑したティハルトに、ウルリカも生温かい笑みを返すに留めた。
「それに、色んなお話も出来ましたから。
…明日にはお帰りだと伺っております。出発の際はお忙しいでしょうから、こうしてお話が出来るのも最後かと思いまして…」
「光栄です」
なので回れ右して帰っていいかな?なんて内心ではガクガクブルブルと震えながら、しかし今はウルリカなのだからと活を入れて、胸に手を当てる。演算珠の存在が大事な心の支えだ。
「…とはいえ。お言葉ですが…一つよろしいでしょうか、殿下。
殿下は、留学期間をまだ残しておいでではありませんでしたか? 今の口振りですと……もう学園へは、おいでにならないのでしょうか?」
「……正直、揺れております」
苦笑いを浮かべほんの少し下を向いたティハルトは、一呼吸程置いて口を開いた。
「王子の一人として、世界屈指と名高いマガドヴィウム魔導学園にて研鑽を摘むことは名誉であり、また義務であるとも思っております。……しかし、…彼女の事が、気がかりでなりません」
名前を口には出さなかったが、『彼女』が誰かなど明白だ。
(……王子ルート、確定ってことでいいのかなぁ…)
とはいえ、そんなものはあくまでもゲームの中でなんて言う但し書きが付いてこその話だ。
好感度の数値化もなければ、会話の選択肢も視界に出てくるわけもない。相手の過去を垣間見ることの出来るイベントもない。運命を決定付けるスチルの挿入も望めない。当然、攻略本もサイトもある訳がない。
ないない尽くしの現実だ。それでも、生きていかなければならない。
(わぁ辛い。辛くて泣きそう。…そんな暇もなさそうだけれど)
改めて、忘れたままでいた方が、生きていくには楽だったかもしれない。なんて、思わず零れた自嘲は、苦笑でなんとか隠せたようだ。ほぼ同時に零されたティハルトの細くて深い溜息にも、きっと感謝をしなければならない。
「…一人に溺れていては、いけないと…分かっているのです。ですが…離れがたくて…」
「……ならば、そんな大事な方の存在を、おいそれと他国に漏らしてはいけませんよ」
「ベルシュタイン大尉…」
ハッとして目を見張ったティハルトに、ウルリカは少し大げさに肩を竦めてみせた。
「におわせてもいけませんよ、本来なら。貴方様はそういうお立場でいらっしゃる。そして、貴方様が想う方も、いずれはそういうお立場…少なくとも、近しいものとなるのでしょうから。
息を休める場所も、心の休める相手も…きちんとお選びくださいませ。
――なぁんて。小官如きが言うまでもなく、殿下はお分かりでしょうが。つい、老婆心ながら…。ご無礼を、どうかお許しください」
深く頭を下げながら、ウルリカ――ハノーニアはもう一度自嘲する。
(全部、ぜんぶ…自分にも返ってきそうなことばっかりだ…)
身分違いという点なら、此方もどっこいどっこいだ。こみ上げる遣る瀬無い想いを、どうにか細い息にして吐き出した。
「面を上げてください、ベルシュタイン大尉。
無礼だなんてとんでもない。お気遣い、痛み入ります。……ただ」
言い淀んだティハルトに内心ビクついたウルリカだったが。
「老婆心、なんておっしゃらないでください。
貴女はお若く、そして美しいのですから」
煌く常緑の瞳に見つめられて、思わず笑みが零れた。
「ありがとうございます、殿下。
まぁ…殿下や、殿下の想い人には負けますが」
合わさるささやかな笑い声は柔らかかった。
それからもう少しだけ言葉を、そして最後に握手を交わして、ティハルトは他へと去って行った。
彼の細身でありつつもピンと張った背中を見送りながら、ウルリカは脇におろした右手をそっと握る。
――その手を、音もなく握り包まれた時は流石に肝が冷えた。
「ッ――…たい、しょう…」
「驚いた? ごめんね、ウルリカ。どうか許して、ぼくの可愛いひと。嫌わないで、愛しいひと」
「ゆ、るします…し、嫌いませんよ、……心臓は、まだバクバク言ってますけれど」
「おやおや、どれどれ」
「耳を寄せようとしないでください大将。公衆の面前です」
「部屋ならいい? 二人っきりの…」
胸元から変わって耳元へと寄せられるシュエンディルの柔らかく笑う口元を片手でどうにか抑え込んで、ウルリカは内心で叫ぶ。
(アーーッ!! セクハラ反対ッッ!!)
しかし悲しいかな。前世の近代よりかは女性の社会進出が叶ってはいるようだが、まだまだ男性優位というか数の偏りは大きい。故に、この考えが育ってくるのはまだ先の事だろう。
いっそそう言う活動にでも身を投じればいいのだろうか、なんてズレ出したウルリカの思考は、シュエンディルに右手を繋がれたことによって正される。
「さて、挨拶もすんだし。列車に戻ろうか。
ここの料理も悪くないけれど…やっぱり料理長の料理を味わいたいし、ね」
「御意」
勿論、ミノーレア国側から滞在中の部屋や世話の申し出もあった。それを「下ろしてすぐ帰るから」と、最低限の補給のみで愛想よく辞退したのはシュエンディルだ。機関車は火を絶やすわけにはいかないということもあるし、どうせなら歓待式を済ませたその足で帰路につきたいという気持ちもあるようだった。
シュエンディルがこっそりと「引き留められて帝国をはじめとするあちこちとの矢面に立たされるのはごめんだねぇ」と美しい笑みを浮かべてみせたのは、記憶に新しい。どころか、きっと長く残るだろう。
「お家のベッドとはいかないけれど。列車のベッドもなかなか悪くはなかったでしょう?」
「大変快適です」
歩きだしながらウルリカが頷けば、シュエンディルも嬉しそうに微笑んだ。
「うんうん。安全と快適さは確保しておくに越したことはないからね。
そうじゃないと…おしゃべりもおちおち出来やしない」
「ね」とシュエンディルに優しく顔を覗き込まれて、頷き返す。
そっと放された右手の中は、空っぽになっていた。




