エリスはリンゴを振りかぶる_2
アルス・ゲシェンクの護送の準備と共に、ハノーニアのクレヅヒェルト軍人化計画も進んでいった。
シュエンディルが寄越してくれた情報部員のお陰で、クレヅヒェルト語は順調に上達したし、変装技術もものにしていっている。こと変装においては、状況報告として披露すれば、シジルゼートたち古参兵は目も見開いて驚愕し、エルグニヴァルは目に見えて不機嫌になるくらいには身に付いた。
「…あの、閣下…。…そ、そんなに、気に入りませんか…?」
今日の授業が終わったので、小道具として被っていた濃い灰髪の長いかつら――人毛製である――を丁寧に脱ぎながらハノーニアがおずおずと聞けば、腕組をしたエルグニヴァルはへの字に曲げた唇をゆっくりと開く。
「…断じて、断じてお前が気に入らぬわけではない。
シュエンディルに似通っているという点において不愉快極まるだけだ」
「そ、そうでありますか…」
ハノーニア自身はそこまで感じなかったが、エルグニヴァルをはじめとする帝国側の感想は『王弟殿下にそっくり』で一致したのだ。
視線の動かし方。姿勢。表情の作り方。そして、魔力の混ぜ方や動かし方。様々な事を教わり実践した結果、そしてその評価に、ハノーニアは苦笑するしかない。
微苦笑を浮かべつつ、乱れた髪を整えるために鏡台へと向かう。
伸びてきた髪にブラシを通しながら、ハノーニアは呟いた。
「ウルリカ・ベルシュタイン」
それこそが、ハノーニアの二つ目の名前だ。
シュエンディルから賜った一覧の中から選び、つけられた、変身の呪文。
唱えれば、自然と目が細まり、口の端が持ち上がる。
「……気に入ったか?」
「はい、閣下」
歩み寄ってきたエルグニヴァルに背後から抱き締められ、彼女はされるがままに体を預ける。
「閣下が付けてくださった名前ですもの」
「そうか」
見上げれば、淡く微笑むエルグニヴァルと視線が結ばれる。釣られて、彼女の口からも柔らかい笑みが零れた。
* * *
シュエンディルから氏名候補の一覧を賜って早々に、ハノーニアはエルグニヴァルへ願い出た。
「どうか、閣下に付けていただけませんか。私の、二つ目の名前を」
「あぁ、勿論だとも。
……実を言うと、その言葉を待っていた。
先にもいったが…あぁ、例えばシュエンディルが断りもなしに付けようものなら…どうしていただろうか」
細められた秋空色の目の中に厳冬の吹雪を見た気がして、ハノーニアは必死に唇を引き結んでなんとかかんとか笑みの形を保った。
「まぁ、例え断ったとしても、付けさせてやるものか。
お前は…わたしのもの、なのだから…」
「はい…」
覆いかぶさるようにしてハノーニアを抱き締めたエルグニヴァルは、しばしそうしていた。
ハノーニアも、エルグニヴァルの体温や心音に浸るように目を閉じて待つ。
それからやや間を置いて。ハノーニアを腕の中に抱きながら一覧を開いたエルグニヴァルは、一通り目を通したかと思えば、すぐさまパタンと閉じてしまった。
「閣下…?」
「……ウルリカ。
ウルリカ・ベルシュタイン」
秋空色の目で見つめられて、大好きな声で呼ばれて、ハノーニアは目を閉じる。
「ウルリカ…ウルリカ・ベルシュタイン…」
ハノーニアは、自分の舌で付けられた名前を転がす。エルグニヴァルが「あぁ」と頷いた。
「私の、琥珀の狼。
どうだろうか?」
目を開ければ、此方をじっと見つめるエルグニヴァルと目が合った。
彼女は、琥珀色の目をとろりと細めて笑みを零す。
「気に入ってくれたか?」
「はい。勿論です。ありがとうございます、トゥエルリッヒ様」
* * *
付けてもらったその時を思い出して、ハノーニアは湧き上がる感情を笑みとして零す。
微笑みながら、あの時聞きそびれた疑問を口に出してみることにした。
「……閣下。一つ、お聞きしてもよろしいでしょうか?」
「あぁ。わたしに答えることが出来るものだといいが…。…答えられずとも、どうか嫌いにならないでほしい」
「勿論です」
鼻先を合わせてそんなじゃれ合いを挟んでから、ハノーニアはそっと尋ねる。
「……『リンシュガルデン』では、ないのですね」
自分で口にしておいて、アルス・ゲシェンクの言葉が脳裏を過る。苦くしかめられる顔は、なんとか苦笑で留めることが出来た。
目と鼻の先にあるエルグニヴァルの表情も、似たようなものになった。
「あぁ、そうだ。
それは付けぬ。
それを、何人たりとも、お前に付けさせはしない。お前は帝国で生まれ、帝国で育ち、そして帝国で死ぬのだ」
身を寄せてきたエルグニヴァルが、そっと首筋に顔をうずめた。
「お前は、今生もまた、わたしのそばで死ぬのだ。
だから、その姓は…そのまじないは、お前には必要ない」
きっぱりと言い切ったエルグニヴァルの引き締まった背中に手を添わせながら、ハノーニアは頷いた。
「なるほど、分かりました。
閣下…。……私は…私はいつも、閣下の御側で死ぬことが出来るのですね」
「あぁ」
「……私は……私は、そうしていつも、閣下を置いて死ぬのですね。この前お話ししてくださったように…」
「あぁ…そうだ」
「そうですか…。…そうでしょうね、私は弱いですから。比べることもおこがましいですが、閣下よりも、少将よりも、准将よりも、准尉よりも…うんと弱いですから…」
それこそ、夢で見るように何度も生まれ変わっていたとしても、だ。
魔力持ちで魔導師になって、『バイカラー』なんてものを覚醒して、極めつけは、その中でもさらに希少な『宵の薄明』なんてものになった。けれど、上には上がいるのだから。世の中甘くない。
ハノーニアは、けれど清々しく笑いながら、エルグニヴァルの肩にちょんっと顎を乗せる。
「うんと弱い私ですが…。…せめて、貴方を守って死にたいです。前の私たちも…きっとそうであったと思うので…。
…まぁ、生きる努力も、戦闘にならない努力も、勿論全力でいたしますが…」
自分のレベルじゃハードモードだろうなぁ、なんて。ハノーニアは苦笑いした。
「……そうだな。
わたしも、そうしよう。お前と、生きるために。お前と、ゆくために」
しかし。同じく肩に顎を乗せたエルグニヴァルから、表情は見えないものの、穏やかでしっかりした声でそう言われてしまえば。
「はい」
ハノーニアはそう頷くしかないのである。
そうして。日は暮れ、夜が明けを繰り返し――刻々とクレヅヒェルトからミノーレアへ向けて発つ日が迫ってくるのだった。




