空の淵を覗き込む
柔らかく細められた秋空色の目に見つめられて、ハノーニアも破顔する。
緩んだ顔のままそっと身を寄せれば、エルグニヴァルに優しく抱きしめられて笑い声が零れる。
「…ご機嫌だな、ハノーニア」
「はい。だって、閣下と一緒に過ごせるんですもの。例え、片時であっても…」
「…もっと、もっとと、ねだってもよいか?」
「閣下?」
ハノーニアが首元に軽くうずめていた顔を上げて見れば、頬にエルグニヴァルの手が添えられる。指の腹で目元を撫でる彼の手に、ハノーニアも自分の手を重ねた。
「手を打とう。すべて。何もかもを駆使して、出来うる限り早く、可能な限り静かに終わらせよう。
…お前は、目立つことを好まんだろう?」
「…はい。
……許されるのなら、穏やかに、そっと…過ごしていきたいです。軍人兵士にあるまじき言動ですが…」
「よい。よいのだ。
…今のわたしには、その気持ちが分かる。共感することが出来る……出来ている、筈だ…」
なんとも自信なさげに付け加えられた言葉に、ハノーニアは再びエルグニヴァルへと身を預けた。彼の体温とにおいに包まれて、多幸感が溢れてやまない。
「閣下は、いつでも寄り添ってくださいます。本当に…小官、私には過ぎたものです…。…でも、もう戻れません。貴方様なしの生活など、想像するだけで総毛立ちます。
ですから。ですから、閣下。お願いです。私を見てください。…あの娘…アルス・ゲシェンクなぞ見ないでください」
今度はハノーニアから、エルグニヴァルへと触れる。
頬を包むように両手を添え、優しく固定した顔を見つめる。透き通った空色の目を覗き込む。
一呼吸程間を置いて、エルグニヴァルの口から笑い声が漏れた。低い低いそれは獣の唸り声にも似ていて、臆病なものなら身が竦むだろう。
エルグニヴァルは、歯をむき出しにしてなおわらった。
「アレとお前を比べるか、ハノーニア。嗚呼、嗚呼! なんたること!!
何故だハノーニア。わたしが、お前よりアレを取るなどと…何ゆえそう思う。アレに何を怯える? アレに何を重ねる?」
回された手に絡みつかれた腰や、大きな手で掴まれたうなじから後頭部がみちりと軋んだ気がする。ぐぅっと距離を詰められながら、ハノーニアはエルグニヴァルから目をそらさない。
「嗚呼…嗚呼教えておくれわたしの可愛いハノーニア。どうしたらお前の憂いを取り除くことが出来る? どうすればお前にわたしを信用してもらえるのだ」
「…お、言葉ですが、閣下。私は閣下を信じております。先ほどお伝えした通り、食べてしまいたいくらいに、えぇ、お慕い申し上げております」
「あぁ…分かっている。ちゃんと、あぁ伝わっているぞ」
「嬉しい限りです、閣下。
…閣下。お願いがございます。私の憂いを取り除いてくださるというのなら…どうか、聞いてはいただけませんか? 聞いたうえで、叶えるかどうか…ご判断願います」
「…ふふ、わたしを気遣うか? それとも…隙を見せてよいのか?」
「? 隙?」
「食べてしまいたいのは、お前だけではないという事だ」
かすめ取るように鼻先に口付けを落としたエルグニヴァルに、ハノーニアは目を白黒させた。不意打ちに慌てふためく姿を微笑まれて、きまりが悪いったらない。
「さあ、教えておくれ。お前が望むことを。わたしに出来うることならば、勿論、叶えてみせよう」
「……こほん。
………では、閣下。お願いいたします。どうか、今ここで。私の目の前で…ルシフェステル准将になってみせてくださいませんか?」
エルグニヴァルは空色の目を瞬いた後、さみしさと不機嫌さがない交ぜになったような複雑極まる顔をした。そして一言、消え入りそうな声で呟く。
「……ハノーニア。お前は、わたしのことが…嫌い…なのか?」
「んええッ!?」
思ってもみなかった反応に、ハノーニアは心底ギョッとした。
キスをされた先ほどなんて比でないくらい慌てふためいて、肩を落としそっぽを向いてしまったエルグニヴァルを力の限り抱き締める。
「閣下!? 待ってください閣下!! どうしてそんなことおっしゃるんです!?」
「………奴が好きか」
空色の目にジィッと睨まれて、ハノーニアは正直に伝えた。
「好きです。好きか嫌いかと問われれば、好きでありますと答えます。大変お世話になりましたし、そして今後もお世話になるのでしょう。
ですが、閣下。准将に対する好意と閣下に対する好意では、違うのです。どう違うのかと、言葉にするのはなかなかに難しいのですが……。…そうですね。
ハグは准将とでも出来ます。シジルゼート少将とも出来ます。勿論閣下ともしたいです。ですが、き…キスは、閣下としか、したくありません……」
途中でつい素面に戻って照れてしまったが、ハノーニアは言い切った。
言い切って、耐えきれずそっぽを向いて俯いた。
(…は、話が…進まん! いや私が悪いんだっけ!?)
大きく息を吐いて、吸って、そうしてハノーニアが顔を戻せば、また不意打ちのキスが贈られる。両の目元に優しく触れるエルグニヴァルの唇は、あたたかい。
「……か、っか」
「取り乱してすまなかった。
好意の違いについては分かった。奴に成るのは構わん。お前の望みを叶えると言ったばかりだからな。…だが、理由があるのならば、聞かせてほしい。よいだろうか?」
「はい。勿論です」
説明責任は果たすつもりだ。ハノーニアは頷いて、口を開く。
「先日のあの『魔力の暴走事故』にてミノーレアの魔導師、アルス・ゲシェ――ンンッ、ミノーレアの少女兵が口走って下りました。閣下を見て、『閣下』…と」
アルス・ゲシェンクの名前を出した途端不機嫌さがぶり返すエルグニヴァルの雰囲気にビクつきながら、ハノーニアはこのところふと気になっていた点を伝えた。
「我々帝国側や、様々な事情に通じていらっしゃるであろうシュエンディル殿下方は『何故バレた』と驚きました」
「あぁ」
「……ですが、バレていなかったとしたら?
ミノーレアの少女兵はそのまま――閣下が扮するルシフェステル准将を見て『閣下』と叫んだのだとしたら、と…」
「…ほぉ」
エルグニヴァルの手に優しく丁寧に髪をすき撫でられながら、ハノーニアは束の間目を瞑る。訪れる闇の中に投影されるワンシーン。振り向いたルシフェエステルの髪が朽ち葉色へ、その目が空色へと塗り替えられる。
ハノーニアは生前の記憶の欠片から、現実へと目を向ける。
「…閣下。ルシフェステル准将より以前お聞きしました。准将は、閣下の分枝体なのだと。いつか…いつか、閣下に成られるのだと。
それは、身分だけでなく、……身も心も……でしょうか?」
ゲームに、エルグニヴァルの姿はなかった。正確には、名前が出てきただけだった。
ルシフェエステルは、ラスボスとして登場した。否、乙女ゲームなのだから数多の恋の障害の源と言った方が良いのかもしれない。選ぶ攻略対象、進むルートによっては、そんな結末だってあった。
だがここは、ゲームではない。ゲームに瓜二つの現実で、ハノーニアにとってはある意味死後の世界とも言える、しかし生きている世界だ。
(……あぁでも、どっちもあんまり大差ないのかも…)
好意の種類の違いこそあれど、好く思う存在なのだ。悪にされてたまるものか。死後の世界だろうがなんだろうが知ったことか。攻略対象もルートも、知ったことか。
ハノーニアは一つ、深呼吸した。
「……閣下。私も、約束をお一つ、果たそうと思います」
「ハノーニア?」
「……お話しします。『混線』で見たこと。
夢の残骸が、果たしてどこまでお役に立てるか…分かりませんが」
しかして、ハノーニアは口を割る。ルシフェエステルが『総統閣下』として君臨する世界のことを。
当然、生前だの創作物だのの部分は『混線』で見た・『雑音』で聞こえたという風に置き換えた。果たして、権謀術数の中で生き残ってきた――むしろ張り巡らせる側だろう――エルグニヴァル相手にどこまでごまかしが効くか疑わしいけれど。
くわえて、相変わらず夢でしか思い出せないし、その見た夢だってそう長く憶えていられない。
「――ふむ。つまりアレはこの世以外、例えば前世と『混線』している可能性がある、とお前は考えている訳か…」
「はい…。
夢路はあの世に繋がっているなどという話も聞いたことがあります。それに、シュエンディル殿下も…死者の星座石の使いまわしの可能性を示唆しておられました。そして、私が時々見る『混線』――ルシフェステル准将が…閣下として、座する光景…。
魔法の触媒である星座石を中継にして、死者や、それさえ飛び越えて、前世の怨念や執着といったものに触れて……」
「発狂した…か」
エルグニヴァルの歯に衣着せぬ言葉に、ハノーニアは唇をきゅっと結んだ。
「お前が気に病むことはない。
例え、お前がその切っ掛けだったとしても。前のお前が関わっていたのだとしても。
恨み辛み、そしてそれが生む呪いは、まったくもってどうやって買うか見当もつかんからな…」
エルグニヴァルの指によって唇を撫でほぐされながら、ハノーニアは「はい」と小さく頷いた。
人の心が分からないのは、生前の現代日本で生きていた頃も、疑似近代な帝国軍人として生きる今もおんなじだ。
「とはいえ、あくまでも小官の思い付きを具申したまでです…。
…確証もない、しかも穴抜けの事柄を閣下の御耳に入れることは大変申し訳なく…。…はぁ…ポンコツで、誠に申し訳ございません…」
「そんな事はない。そもそも、夢は忘れるものだ。それをこうしてまとめ説明するまで保っている。大したものだ」
「閣下…。…ありがとう、ございます」
力が抜けてふにゃりと微笑んだハノーニアは、不意に持ち上げられた手――その指先にエルグニヴァルから口づけを贈られて目を白黒させた。
「かっ、閣下!?」
「知っているか? ハノーニア。指先へ口づけるその意味を」
「んえっ?」
間抜けな声が出た口を、持たれていない手でもって押さえる。もはや照れで熱いのか、恥ずかしさで熱いのか、ハノーニアは分からなくなってきた。
「ゆ、指、指先…えっと、ま、待ってください! た、確か…しょ、賞賛!!
……賞賛?」
生前から雑学は好きだった。これでも前世だって女だったので、キスの意味だって調べた時期もあった。意外と細かいところまで意味が付けられているんだなぁと感心したのを、今ついでに芋づる式で思い出した。
そして、賞賛されるようなことをしただろうかとハノーニアは首を傾げる。
「ふふ、正解だ。
先ほども言った通り、夢をこうも大量にそして長く記憶にとどめていたことは賞賛に値する。少なくとも、わたしはそうする」
「閣下に、賞賛していただけるのならば、それだけで…。……むしろ、過分なのかも、しれません…」
「ふむ…。…ならば、次はどうだ?」
微笑んだまま、エルグニヴァルは手のひらへと唇を落とす。
「手のひらは……確か、…懇願…」
「そうだ。
わたしは、もっとお前に思いが伝わればと切に願っている。もっとお前が…わたしを求めてくれるように、とも」
「閣下…。…っ」
次に、手首に口づけられる。そして次は手の甲。
「好意、と…敬愛…」
「立場上、そして身分上、わたしはお前を使わねばならぬ。盾にすることさえあるだろう」
「はい」
ハノーニアはしっかりと頷いた。それを見てエルグニヴァルの空色の目がそっと細められる。さみしげに見えた顔に、思わず手を伸ばして頬を包むようにして触れた。
「だが、それでも……出来うる限り、お前に好意を伝えたい。お前と親しみ、お前を尊重したい」
「はい…ありがとうございます、閣下」
頷いたエルグニヴァルは、そうして腕にそっと口づける。軍服越しであったけれど、触れられたそこはあたたかく、込められた意味に心が熱をはらむ。
「腕の、意味は…確か、」
「あぁ。恋慕、だ」
笑ったエルグニヴァルに腕を引かれるまま、ハノーニアは彼の胸へと倒れ込む。
「閣下…?」
「…ふん。あの化け物の治世か。さぞ見ものであろう。成程、遅かれ早かれそうなるだろう。そうなった世もあったな。
……して、それよりも。お前は何処にいた。先ほど話ではアレの事ばかりであったからな。そろそろ教えてくれ。いや、奴の隣しかあるまい。非常に腹立たしく口惜しい…が、奴に任せる他にあるまい。いつの世も、奴以外、わたしになれるものはおらぬからな」
不機嫌さがぶり返しているのだろうか。少し早口で話すエルグニヴァルにキョトンとして、その後、ハノーニアは苦笑して首を横に振った。
「…ならば、シジルゼートか。
彼奴め、図々しくもお前を下賜せよとほざいた。未だに思い出しても腸が煮えくり返る」
「へええッ!?」
寝耳に水の内容にギョッとしたハノーニアだったが、ひとまずかぶりをふって意識の外へ飛ばず。遠くへ飛ばしてから、また「いいえ」と改めて首を振った。
「…ならば、どこへ。お前は、何処にいた? 何処へ、いった。ハノーニア」
「……閣下。いいえ。私は…いません。いないのです、どこにも」
「………そうか」
「はい。
もしかしたら、影や形はあったのかもしれません。ですが、私は…閣下は勿論、ルシフェステル准将の、シジルゼート少将の…誰の隣にもおりません。
私は、どもにも、いませんでし」
た。と結ぶ前に、ハノーニアはエルグニヴァルにきつくきつく抱きしめられた。
「よい。もうよい。
そうか。そうだな。わたしがおらぬのだ。お前も、おらぬ。あぁ当然だ。当然のことだった。
お前は、わたしのもので。わたしは、お前のものなのだから。
片方がいなくなったのだ。片方がいないのだ。もう片方とて、あぁ、いらぬ」
「閣下…」
「お前を知った。貴様の味をおぼえた。お前を、わたしは憶えている。……ならば、それ以前に戻れるわけもない」
「…はい、はい閣下。私もです、エルグニヴァル閣下」
自分をジッと覗き込む空色の目を、ハノーニアも真っすぐに見つめ返して首肯した。
頷き返したエルグニヴァルは、やや置いて口を開く。
「……名を」
「?」
「…そろそろ、名を…呼んではくれぬか?
……せめて、わたしとお前の二人っきりの時など……。…駄目だろうか?」
貴方が首を傾げる仕草は反則だと叫びたいのを必死に耐えながら、ハノーニアは答える。
「っ、いいえ…いいえ。光栄です。嬉しいです。トゥ…トゥエルリッヒ様」
どうしても照れが勝ってつっかえてしまったハノーニアだったが。蕩ける笑みを浮かべて再びしっかりと抱き締めてきたエルグニヴァルを、そっくりな笑みでもって抱き締め返したのだった。




