目を合わせてはいけなかった
「閣下。ノイゼンヴェール様をお連れいたしました」
結局、シジルゼートに部屋の中まで付き添われて、ハノーニアはエルグニヴァルの前に差し出される。道中、「今更逃げませんよ。というか、少将相手に逃げ切れると思っていません」と心から伝えたが、にっこり微笑みを添えて「小官がこうしたいので」なんて言われるだけ。ガッチリと繋がれた片手が放されたのは、扉の一歩手前だ。
「それでは、小官はこれにて。部屋の前にて控えております」
礼と共に退室したシジルゼートに、エルグニヴァルは一瞥をくれるどころか手で払うことすらしない。ひたすらに此方を見つめる秋空色の目から視線を外さないようにして、扉が閉まる音と共にハノーニアは足を踏みだした。
部屋の奥、出窓に面した壁際に置かれたソファに腰かけたエルグニヴァルの目の前で立ち止まり、ハノーニアは彼の言葉を待つ。
「………ハノーニア、来てくれたのか」
「はい」
伸ばされたエルグニヴァルの手に自分の手を重ねれば、優しい力で引っ張られる。そのまま、ハノーニアはソファに腰を下ろした。
「……来ては、くれないのかと…」
「閣下がお望みであれば、何処へなりとも」
「……朝から、姿が見えなかったが」
ぱちくりと目を瞬いて、ハノーニアはお手上げだと笑う。
「申し訳ございません、閣下。ノエリア陛下がたから朝食のお誘いがありまして…」
「あぁ…。…そうだった」
苦々しく顔をしかめたエルグニヴァルに、さてどうしたものかと考える。考えながらサイドテーブルへ目を向ければ、殆ど手付かずの軽食がそこにあった。
「…閣下? その、お聞きしても? もしや、お食事の途中でしたか?」
「あぁ、これか」
朝食にしては遅く、昼にしては少し早い。見たところ冷めきっている訳でもなさそうだ。
軽食に一瞥をくれたエルグニヴァルがなんだかきまり悪そうに見えて、ハノーニアはつい首を傾げる。
「どうぞ。小官のことは気にせず、召し上がってください。お邪魔であれば、一旦退室いたします」
「いい、行くな」
「はい」
腰を浮かせかければ、すかさず言葉と手でもって制止される。引き寄せられて、膝や太ももが触れ合った。
「いくな、ハノーニア」
「……お傍に、いても、よろしいので?」
エルグニヴァルが、一度深く呼吸した。
「当然のことだ。…だが、言わねば、伝わらぬのだな…。口にせねば、お前に、届かぬのだな…」
優しく頬に触れられて、ハノーニアは頷く。
「はい。…申し訳ございません。察しが悪く…」
「逆であろう。お前は、よく気が付く」
「そうでしょうか? そうであれば、嬉しいです。…鼻は、よく利くつもりですが…」
冗談めかして言えば、エルグニヴァルの顔がゆっくりと近付いてきて、ちょんと鼻先が触れ合った。
秋の澄み渡った高い空。朝焼けの淡い青。何よりも美しい宝石が、目の前にある。
そっと浮かぶ笑みの理由は喜びなのか。喉や胸の奥が詰まるように痛む原因が、好きだと思う感情なのか。
(…あなたたちは、分かったのかな。ねぇ、前世の私たち)
「……閣下」
「あぁ」
「閣下。…トゥエルリッヒ・フォン・エルグニヴァル総統閣下。
お慕い申し上げております。心より」
そういえば、エルグニヴァルからの言葉に返事をすることはあっても、自分から気持ちを伝えるのは初めてだったかもしれない。
告白の時は、笑って。なんて、そんな夢を見たこともあったっけ。あった、気がする。
現実は、ちっとも笑えないものだ。吐いた言葉の重さに引きずられるようにして、心臓やひいては魂なんてものまで出て来てしまいそうだ。胸元を――演算珠を押さえながら、ハノーニアはエルグニヴァルを見つめる。
「好きです、閣下」
「……どれほどだ? お前は、貴様は、どれだけわたしを…好きだという?」
ゆっくりと瞬いた空色の目。そっと紡がれた言葉。か細い息が震えた気がして、ハノーニアはエルグニヴァルを抱き締めた。
ぴくりと反射的に震えた体は、やはり見た目以上に引き締まっていて逞しい。すり寄った首元だけでなく、すべてからいい匂いがする。
堪らなくなって、笑みが零れ落ちた。
「どれだけ…そう、どれだけでしょうね。
……お伝えしても、よろしいですか?」
「あぁ…」
「…お怒りに、なりませんか?」
「あぁ」
「………お嫌いに、なりませんか。私の、こと…」
「あぁ。勿論だ」
エルグニヴァルの腕が回された。きつく抱きしめられる
ハノーニアは、顔を上げる。
「…好きです。えぇ、好きですよ。閣下。貴方のことが。
…えぇ。
食べてしまいたいくらいに」
エルグニヴァルが、目の前で笑う。それはそれは、嬉しそうに。
細められる前、その空色に映った口の端を吊り上げてうっとりと笑う女が、見たくなかった自分の一面だろうとハノーニアは確信した。あるいは、混ざりつつある前世たちだとも。
(……あぁ)
あぁ、と漏れそうになる溜息をハノーニアは必死に呑み込む。
前世の自分たちは、よくも我慢できたと感心する。立派すぎていっそ泣けてくる。
(……食べてしまいたい。ほんとうに。…食べて、食らい尽くして…全部ぜんぶ、わたしのものに出来たら…)
アルス・ゲシェンクは勿論、前の自分にすら渡したくない。
混ざってきた故の激情なのか。それを考えようとする冷静さは、真っ先に牙の奥へ放り込んだ。
「……あぁ、でも…まだだめだ」
「っ、…ハノーニア…」
理性ではない。理性なんていいものではない。それでもって、ハノーニアは迫るエルグニヴァルの頬を包んでそっと押しとどめる。
「まだなのです。まだ、だめ…食べられない。食べては、いけない…。
……だって。
好きなものは、一番最後に」
これは、癖だ。生前も今も変わらない。きっと数少ない、アイデンティティなるものだろう。
そうだといいい。そう、ハノーニアは願うしかできない。自分しか分からないことも多いが、きっと自分でも分からないものだって多いだろうから。
「……ならば、早く済ませてしまおう」
「閣下…」
エルグニヴァルが、左手をそっと外して薬指に口付けをくれた。ついばむようなくすぐったい痛みを伴うそれを甘受しながら、ハノーニアはなお釣り上がろうとする口の端を耐えるのに必死だ。
「早く、片づけてしまおう。何もかも。
お前に、食われるために」
「……。…はい、閣下」
そんなこちらの苦労なんてつゆ知らず。
破顔していうエルグニヴァルが、憎たらしいほどに可愛くてしかたなかった。




