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結-10-

「何で、自分で返さないんだ」

 研ぎを手伝ってくれと、言ってくれればよかったのに。

 その言葉は呑み込んで、宵は当然の疑問を口にする。確かにすっかり夜も更けてしまったが、今夜は外出禁止令が敷かれている。そんな状態で何かあるとは到底思えないので、返すのなら明日でもいいはずだ。

 不思議そうに見遣る先で、珍しく、湖底の視線が泳ぐ。ばつが悪そうに眉根を寄せ、あらぬ方を向いたまま、ぽつりと。

「……絶対、怒られる」

 呟かれたそれで、宵は理解する。脳裏には、自分達の背を二度も押した準師範の顔が浮かんだ。重篤患者をあいつ呼ばわりし、終始浮かべられていた笑みは確かに、怒りに満ちていた気がする。

 つまり、直接返しに行ったら必ずお小言を貰う事は目に見えているので、それだけは避けたいから、自分達に代役を頼みたいと。

 彼女は、そう言いたいらしい。

(あ、可愛いかも)

 思わずそんな風に思ってしまうのだから、先の臣をとやかく言えない。

 背後を顧みた宵は、遣り取りを見守っていた仲間へ視線だけで問う。どうやら答えは皆同一のようで、にこりと臣が笑うのを見て、宵は仁へ向き直った。

「断る」

 拒否されるとは思っていなかったのだろう、僅かに瞠られた瞳は初めて見る表情で、こんなにも感情豊かだったのだと、改めて認識する。

「自分で返せ」

 そうして、しっかりと叱られて来い。

 言外に含ませたそれを聡い彼女が読み取れなかったはずがない。事実正確に宵の意図を読み解き、細めらえた碧の瞳がそこに恨めしげな色を覗かせる。普段から感情を表に出さない相手だからこそ、僅かな変化さえ色鮮やかに写る。ふて腐れた様にも見えるその反応はやはり可愛いと思えてしまった。

 正確な年齢は知らない。けれど、明らかに自分達よりも年上だろう女性に対して抱く感情としては些か失礼な気もするが、そんな風に思える距離に立てている事が、何よりも、宵達には嬉しかった。

「……仕方がない」

 諦めた様に溜め息を吐くも、やはり何処か気の進まぬ様子のままの仁は、禊終えた刀を左手に、踵を返す。亥の刻を知らせる鐘が遠くから響く。これ以上引き留めるのは傷を悪化させかねず、宵達はその背を見送ろうとした。

 その足が、ふと、止まる。

 どうしたのかと見つめた先で、銀髪が揺れる。翳り始めた月明かりの下、仁は肩越しに振り返った。

「臣、宵、紫溂、智晴、月音、葩瑠」

 澄んだ声音がそれぞれの名を呼ぶ。その声は、どうしてこんなにも清らかに耳に残るのか。

 一人ひとり、ゆっくりと目を合わせて、浮かべられた優しい微笑み。

「おめでとう」

 たった一言、空白に落として、その背は闇に紛れる。

 気配すら消えた回廊に立ち尽くし、既にそこにはない背を、宵達は見つめ続けていた。

 贈られた祝福の言葉は、この数時間でそれこそ何十と貰った。それでも、実に彼女らしい飾らない一言は、胸が苦しくなる程に、ただただ嬉しかった。それが、心からのものだということがわかるから。

 片側だけ増えた重みにはまだ慣れない。それでも、腰に佩いた刀はやはり誇らしくて、洟を啜っているのは芭瑠あたりか。

「そろそろ行こう。錬士になったからといって、明日早いことは変わらない」

 年長者の臣の促しに、宵達は素直に従う。彼の言う通り、これが終点ではない。長い準備期間を経て、ようやく始点に立つことが出来ただけだ。ここから先は、今まで費やしてきた時間よりも更に、長い。

 それこそ、命が尽きる、その時まで。

「そうだな。寝坊して、いつもより数倍怖い玻綾先輩の叱責を受けるのだけは御免被りたい」

 その原因が誰であるのか、知っているからこそ通じる戯れだ。肩を竦めた宵に、皆にようやく笑顔が戻る。

 にこにこと嬉しそうに笑っている臣にまた頭を撫でられて、いいお兄さんに育ったね、と。そう言われているようで何だか癪に障る宵はその手をやはり乱暴に払い退けて、それがまた笑いを呼ぶ。

 賑やかな気配は、六人が去った後もしばしその場に満ち、波が引くようにやがて闇夜に霧散する。その頭上で皓々と輝く望月が、徐々に欠け始めていた。


***


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