結-8-
伸びてきた手、頭を撫でられて、その温もりには覚えがあった。どうしても掻き消せない絶望の淵から、そっと優しく掬い上げてくれたもの。
焦点を結んだ先に、静かな微笑があった。
「もう、大丈夫」
紫水晶の瞳を瞠る。瞬きも忘れて見遣る、その微笑みは慈しみを深くし、春の日差しの様に優しくて。
「宵」
その声はまるで、風のよう。宵の心を吹き抜け、そこに檻のように沈殿していたあらゆる感情を攫っていく。その耳朶を、軽やかな音が叩き、それは、髪を撫でていた手が自分の腰に佩いた刀を叩いた音だった。
恥ずかしいとは、思わなかった。
透明な雫が頬を零れ落ち、それが涙であると、認識した時には止まらなくなっている。ただ静かに泣き続ける宵に代わり、その雫を拭った手は月明かりの下で更に青白く映った。
「臣、悪いと思うのなら、もう二度と、生きる事を諦めないことだ」
何故自分が泣いているのか、宵自身もきちんと理解はしていない。ならば事態を見守っているしかなかった紫溂達四人の困惑は一入だろう。その中で唯一、理由も意味も理解している臣へ叱責が飛んだ。
「目の前で大切な人を失う痛みを知る君が、その与え手になってはいけないよ」
決して、声を荒げた訳でもない。その平坦な声音が揺れた訳でもない。ただ静かに、諭すように紡がれるそれを、臣は聞く。
――尤も、私も人の事は言えないけれど。
夜の気配に溶ける様に落ちた呟きは今は意識に残らず、黒縁眼鏡の奥の瞳はとめどなく流れ落ちる涙を拭う宵を映し出す。
そういえば、この友人が泣く姿は、随分と久し振りに見た気がする。涙は弱者の証、だからもう泣くまいと、そう誓った横顔はまだ幼さを残していた。
臣は、無意識に手を伸ばしていた。あれ程厭った涙を流し続ける宵の頭をそっと撫でる。高見の姓を名乗る前、二人で寄り添うようにして生きていた時のように。あれから時が経ち、随分と精悍な青年へと成長し、今では命を預ける相棒となったが、臣にとってはいつだって、弟のような存在だった。
「ごめん」
そんな彼を、ここまで追い詰めたのは、自分だ。
「もう絶対、諦めないから」
どれだけ時を重ねようとも、身長差は変わらない。自分を見上げてくる泣き腫らした目に、臣はにこりと笑った。
臣が眦の雫を拭う、それを最後に宵の涙は止まる。そこでようやく気恥ずかしさが沸いてきたのか、未だ宵の頭を撫でている手を些か乱暴に払われた臣は、その紺色の双眸を瞠ったのち、すぐに破顔した。一度は払われた手で再び、今度はかなり乱暴に頭を撫でれば、露骨に嫌そうな顔をして宵は振り解こうとする。それは兄弟がじゃれ合っているかのようで、微笑ましい光景についつい和んでしまい、危うく本来の目的を忘れるところだった。
くすり、と。仄かに零された笑い声は心地よく耳をくすぐり、その主は既に、母屋に落ちた薄闇に紛れようとしていた。
「仁!」
今が何時であるかも忘れ、思わず、その背を呼び止める声は大きくなる。
意識の片隅で無視されるのではないかと危惧したが、彼女は歩みを止めてくれた。緩慢に振り返り、闇の中でも煌めきを失わない碧色が問う様に見据えてくる。その強い視線を涙の名残がある瞳で、宵は正面から受け止めた。
「助けてくれた事は礼を言う。有難う」
世界は容易に裏返る。あまりにもそれは突然で、その性急さに置いていかれた心はようやく現実に追いついて、こうして頭を下げる事に躊躇いは既にない。
胸の前で右手の拳を左掌に当てたまま低頭する宵に、臣達も倣う。
その頭上から、冷めた声が落ちてきた。
「助けた訳じゃない」
突き放すようにも聞こえる淡泊な言い様に、心がざわつく。頭を上げ、投げた視線に籠めた険に気付かないはずがないのに、その表情はやはり、動くことなく。
「代償を払ったのは君達自身で、私はただ、契約の履行を守っただけ」
だから、礼はいらない、と。
それはいっそ、冷酷に聞こえる程に。何処までも事実のみを語り、感情の介在する余地を排除した物言いが、だから。
どうしようもなく、苛立つのだ。




