結ー7-
祝宴の開始を告げる鐘に、結局戻ってこなかった患者に何一つ伝えられぬまま、宵達は一度医務室を離れた。今宵の祝いの席での主役は他ならぬ自分達であり、無礼講といかないまでも、いつもは厳しい先輩達が心からくれる祝福を無碍にすることなど出来ない。何よりも、ただ純粋に、試練を乗り越え、冠位を授けられた事が嬉しかった。見習いが半人前の錬士になっただけではあるが、明確に二者間に引かれる一線の深さを、高見の姓を名乗る者であるならば例外なく思い知っている。
だから、しばしの間この胸に蟠る感情を無視するに値するだけの理由が、そこにはあった。
そうして、後輩の羨望の眼差しと先輩方の時には些か行き過ぎた祝福を存分に受け、宵達が再び医務室の扉を叩いたのは、すっかり夜も更けた、あと半刻もすれば亥の刻になるだろうという遅い時間だった。
今日一番の重傷患者だ、流石に眠っているだろうと思い翌日にしようかと躊躇っていた宵達の背をまたもや押したのは玻綾で、譲れない事はその日のうちにやっておきなさいと言う準師範の言葉に従い、こうして訪れてみたはいいものの。
「……まだ、戻らないって」
その笑顔の恐ろしさが五倍程に増した主治医から告げられた事実は、もう呆れるしかないだろう。それでも捜しに行こうとしない医師に理由を尋ねれば、彼女にも医術の心得があるからだと、分かったようなそうではないような、微妙な答えを返された。阿修羅の如き主治医へそれ以上の意味を問えるような勇者は幸いにもおらず、ただ、一つだけ確かなのは、医師達が仁へ向けるそれは信頼だということだ。
いつ戻るか判らない相手を医務室の前で待っている訳にもいかず、結局、宵達は来た道を引き返した。必要最低限の灯りしか入れられていない薄闇に沈んだ廊下を進む彼等の間に落ちるのは沈黙。まるで、ここで一言でも零そうものなら、そのまま、その胸中に溜まった激情が溢れてしまうとでも言いたげに、皆一様に口を一文字に引き結び、廊下を進む。
母屋と第七鍛練場を繋ぐ回廊の先に、果たして、その姿を見つけたのは誰が最初だったのか。
「……あ」
誰からともなく、立ち止まる。視線を遣った先、灯篭さえ灯されていない、月明かりだけが差し込む青白い回廊を歩いてくる姿がある。宵闇からずっと捜し求めていた彼女は、半ば茫然と立ち尽くす自分達の前まで来ると、足を止めた。彼女の行く手を阻むようにして六人が廊下を埋め尽くしているのだから、それは当然の結果であった訳ではあるが。
小首を傾げて見上げてくる碧色の瞳に、宵達は咄嗟に言葉が出てこず、必然的に、落ちるのはやはり沈黙で。
「……何?」
怪訝な色を増した湖底の双眸が瞬く。短く問われて、それでも、何故だろう。その姿を見つけるまでは、焦燥感にも似た激情に突き動かされていたはずなのに。いざ、月光を背に受けて凛と立つ姿を目の前にすると、口は開けどそこから零れ落ちる音がない。
困惑したように眉を下げて途方に暮れる六人に対して、何を感じ取ったのか。倦怠感を孕んだ吐息が落とされ、その異端の色を宿した瞳は、年長者の錬士を捉えた。
「臣」
中性的な声音がその名を呼ぶのは何度目だろう。
「いって!」
小気味よい音が響いて、続いて、額を押さえた臣が若干涙目になりながら自分よりも小柄な姿を見下ろす。
同じ光景を、宵は白く化粧を施した森の中で見た。
「……そんなに怒らないでよ、仁」
容赦なく指弾されて赤くなっている額を宥めながら、何処か甘えるような声で訴える臣が理解している彼女の行動理由が、宵にはまだ解らなかった。高低差のある二人を交互に行き来していた宵の視線が、不意に向けられた碧色に絡め取られる。




