結ー2-
高見家全体が祝福の宴に包まれている中、そこに一点だけ黒い染みを落としている張本人は、東の空が紺色に染まり始めた頃、母屋に設けられた先見の間の扉を開けた。一礼し、厳粛な静けさが満ちる室内に踏み入る。
少し離れた所に端座するその一挙手一投足を、正面の高座には高見家当主が座し、その下座左右に正師範が一人ずつ、対面する形で師範が五人ずつ両側に並び、計十三名――高見家の中枢を担う全員が、見つめていた。
己に向けられる何対もの鋭い視線を受け止めながらも尚、揺るがない碧の双眸はただ、正面に端座する高見家当主を映し込んだ。
「傷の具合は?」
斬り付けるような静寂を破った第一声が労いの言葉だった事に対して、仁から零されたのは呆れたような笑みだ。いかにも貴方らしい、と。
「痛み止めが効いているようで、大分楽になりました。右腕に痺れが残っている程度です。ご心配には及びませんよ、当主」
元より、場を読み、それに相応しい振る舞いをするだけの柔軟さは持ち合わせている仁は、高見家中枢が集まる公の場で当主を呼び捨てにするような事はしない。他人行儀な遣り取りは明確な一線が引かれている証拠で、上辺だけの応酬を嘆く未熟さは、二人共に遠き過去に置いてきていた。
高見家当主の紫水晶の瞳が下段に座す正師範二人に落ちる。受けたのは悠絃で、久賢は鋭利な眼光で下座の仁をただ睨み付けるように見ていた。
「ならば、早々に本題に入るとしよう」
いつもならこういった場面で主導権を握るのは久賢が多かったが、彼が一向に口を開く気配がない為、些か面喰いながらも悠絃が口火を切る。
「事の顛末は大方、久賢正師範と南華より聞いた」
ふと、今まで真っ直ぐに見つめ返してきていた碧が長い睫に隠れる。視線が落ちたのは僅か瞬きの間、直ぐにその双眸は正面へ戻されたが、彼女をよく知る者ならその僅かな仕草にも微苦笑を禁じ得ない。
なら、自分をここへ呼びつける必要性などないだろうに。
そんな心の声が聞こえてきそうだった。
「俺達が聞いたのは、飽く迄も経緯だ。知りたいのは、仁。お前が何をしたのか、という事だ」
彼女は頭がいい。自分がここに呼ばれた理由にも大方検討がついていたはずだ。零された吐息がそれを如実に物語り、ある程度の諦めもついていたのか、黙秘という選択肢は少なくとも彼女の中にはなかったらしい。
ただ。
「大層な事はしていませんが。ただ、私は、妖と契約を交わしただけです」
端的な説明が全員に理解出来る様な代物であるかどうかは、また別の話である。
「契約とは、〝贄”となること、だったか?」
悠絃がついた核心は、それはまるで、凪いだ湖面に投じられた一石の如く。波紋が広がる様に、静寂に包まれた先見の間に、感情のうねりが生じた。
それが不信感や怒気である事を、一身に受ける彼女は理解しているだろうに。今朝の第七鍛練場で騒動を起こした時同様、向けられる感情を何一つ受け止めようとする様子は見せない。
「ケガレは人を求めて寄ってきます。自然と一所に集まるので、祓い手にとっては手っ取り早い。代わりに、〝贄”を護れと」
「それが、お前と妖との契約か」
「はい」
淀みない肯定に、悠絃は腕を組む。湖面に生じた波紋は既に細波となり、この場に満ちた不穏な気配がいつ爆発してもおかしくない状況にまで緊張は高まっていた。
それを感じ取っているからこそ、悠絃は敢えて沈黙を挟む。
師範達の困惑や不信、怒りは尤もだ。退魔師では祓えない異形のモノの餌にされたのだ。仁は契約と言ったが、妖が人間を絶対に護ると、どうして断言出来よう。契約は果たされず、大切な弟子がただ無残に死んでいたかもしれない。
いたずらに危険に晒したようにしか、師範達には映らなかった。
たとえ正師範とはいえ、次に発する言葉を間違えれば、危ういところで保たれているこの均衡を崩すことになる。そうなれば、殺気にも似た激情は間違いなくたった一人に向けられるだろう。
責任の所在を明らかにする為に収集したのではない。況してや重傷を負った娘を大人数で責め立てる為では、決してない。
そんな悠絃の苦悩は他の誰でもない、一人下手に座す彼女が一番知っていなければならないのに。
「…………」
落ちた溜め息は、緊迫した均衡を保つ空気をざわつかせる。次いで響いたのは、苛立ちさえ含んだ舌打ちだった。
その溜め息を、舌打ちを、何故彼女が落としたのか。
盆の水は溢れ、湖面に生じた細波は荒れ狂う渦へと変貌を遂げる。均衡は崩れ、激情はまるで嵐の様に室内を荒れ狂った。この部屋に刀は持ち込めないが、数百人を超す門下生の頂点に立つ者達だ。腰に佩いた得物がなくとも、華奢な娘を傷付ける事は容易いだろう。




