転ー8-
「玻綾」
華麗に着地して、その身に深い傷を負っているとは思えない程にしっかりとした足取りで近付いてくるその姿を、確かに見ていたはずなのに。名を呼ばれて、差し出された手を見てようやく、玻綾は彼女を認識した。
小首を傾げる彼女は、逆光でその表情が影になる。それでも、注がれる瞳が労わりに満ちている事を、玻綾は解っていた。
「……莫迦」
人を心配している場合ではないだろうに。自分なんて、激情に突き動かされ、体がついていかずにくずおれた時に膝を擦りむいたくらいだ。己の力量を弁えている久賢や南華は妖の穢れを受けているだけで、怪我はない。
この中で誰よりも深傷を負っているのは、今自分へ手を差し伸べている彼女であり、本当なら縋るべきではないのに。
伸ばした手はまだ震えていて。零された吐息は優しくて、体温の低い手がしっかりと握り返してくれた。引き上げる力は強く、まだ踏ん張りが利かないことにして、玻綾はその胸に飛び込んだ。危なげなく受け止めたその体から確かな鼓動音が聞こえてくる。
瞼を閉じて、しばらく玻綾はその命の音に耳を澄ました。何も言わなくても、不安、安堵、恐怖、孤独――玻綾が抱えている感情を理解しているかのように、ぽんぽん、と背を叩いてくる手はやはり優しくて。
いつまでもこうしていられない事を玻綾も理解している。だから数秒で包み込んでくれる温もりを手放す。玻綾が離れる間際、仁の左手がその腰に佩いた鞘を抜いた。刀を納める仕草一つとってもひどく手慣れたもので、それだけで彼女がそれを扱い慣れている事を物語っていた。
鞘に納められた刀、返されるのかと思いきや、仁はそのまま左手に持つ。その背に刻まれた傷にそっと当てられた手は、人のものではなく。
「君は、本当に……無茶ばかりする」
未だ血を流し続ける傷口を指先が撫でる。祇葵の生み出す氷が瞬時に傷口を塞ぎ、その際に生じた痛みに隠しきれなかった小さな呻き声は、間違いなく彼女の甘えだ。
それを解っているのだろう、祇葵は止血の為に凍りづけにした傷口を守る様に自身の纏っていた上着をその細い肩に掛けた。
「無茶ばかりするんはもう、嬢の魂の形やね」
それでも大事なのだから仕方がない、と。
何も言われずとも、祇葵は行動する。南華の腕に抱えられた少女を受け取ろうと両手を差し出した。
「いや、それよりも……」
南華の視線が、刀を手に銀髪を風に遊ばせる仁を見遣る。その意図を正確に読み取って、祇葵は困ったように笑った。
「その子はアワイや。まだ存在が揺らぎやすいねん。その匂いに妖も寄ってくる。俺が隠れ蓑になるのが一番いいんや」
きちんと理由を説明されて、南華は未だ気を失ったままの少女を祇葵へ受け渡す。
「代わりに、君が抱えてあげてくれてもええんよ」
戯れる様に言われて、南華は苦笑する。それが出来たらどんなにいいだろう。お互いに思う事は同じで、祇葵もまた諦観の笑みを唇に刻んだ。
その隣に仁が並ぶ。
「大丈夫やよ、嬢」
祇葵の腕に抱えられた少女を心配そうに覗き込んだ仁は、氷の瞳と視線を合わせて一つ頷く。久賢、南華、玻綾と、突風が吹き荒れる世界に立つ高見家退魔師を順に見遣り、その無事を確認し終えて。
「帰ろう」
短い一言を落とし、上着の裾を翻して歩き出す。その隣にはやはり、仁が身を挺して護った少女を抱いた祇葵が並ぶ。
着物の袖口に手を入れたまま腕を組んだいつもの恰好で、久賢がまずその後を追い、南華に続いて玻綾も歩き出した。淀みなく、先頭を歩く華奢な背は祇葵の上着に覆われていて、その下に刻まれたままの傷口は見えないけれど。甘えた心がふと零した痛みの声は玻綾の耳に残って離れない。
それでも、声は掛けない。聞きたい事も沢山ある。
その全ては、無事に家に着いてからでも間に合う。彼女自身が言っていたのだ、小言は全てが終わってから聞くと。
なら、〝神座の森”を抜けて、高見家の門を潜り、傷の手当てが終わってから、医務室の白いベッドの上でゆっくりと話をしよう。
大丈夫。
この身を包み込んだ温もりは消えていない。
鬱蒼と茂る木々の向こうに、光に満ちた出口が見えた。
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