転ー7-
他の妖が一目散に逃げ出す。強大過ぎる妖気を容赦なく叩き付けられたちっぽけな人間は、己の無力さを思い知らされ、玻綾は膝をつき、久賢と南華もその心に躊躇いが生じる。
突き付けられた圧倒的な力の差に、その場にいた誰もがその脳裏に死が過ぎった――はずだった。
震える両手、力の入らない体、肌に伝わる雪の冷たさ、絶望が支配する世界で、玻綾は確かに見た。
無造作に振り下ろされた腕、長い爪は確かに意志を持ち、その先に恐怖になす術もなく立ち尽くす姿がある。陽光を鈍色に弾く爪は、世界を切り裂き。
赤い花が、散った。
それは命の雫、流すは、蹲ったまま動けなかった少女と竜魔の間に躊躇いもなく滑り込み、身を挺して庇った者。
「しい……ッ!」
祇葵の悲鳴にも似た声が響く。
怯えた小さな体を腕に抱きかかえる様にして護り、代わりに竜魔の爪はその華奢な背を深く抉った。幼子の柔らかい肉を斬り裂く快感を得られなかったことに機嫌を損ねたのか、絶対の王者に牙を剥いた愚かな人間を、再び揮われた太い腕が無慈悲に薙ぎ払う。
少女を腕に抱いたまま払い飛ばされた仁は、充分な受け身を取ることも許されずに地面に叩き付けられる。降り積もった雪は衝撃を和らげる緩和剤にすらならないだろう。
雪煙を上げて地面を滑った華奢な体は、膝をついた玻綾の前で止まる。純白の雪は瞬く間のうちに紅く染まり、その鮮やかさが玻綾の脳裏に焼き付いた。
「仁……?」
鮮血を流し続ける彼女に呼びかけても、応えが返らない。向けられた背中は僅かも動かず、その姿が、玻綾の麻痺した感覚を揺さぶった。
「……仁!」
立ち上がり、やはり力が入らない足は再び崩れ落ちる。雪原についた両手は未だ震え、視界を歪めたそれは、無様な姿に対する怒りか、決して返らない応えに対する焦りか。
恐怖か。
自分はまた護れなかったのか。刀は妖の血に塗れて汚れているというのに、恐怖に震え、誓いは所詮は祈りでしかなかったのか。護れると、それはただの欺瞞でしかなかったと?
答えて。――応えてよ。
あたしはまだ、貴女を失っていないはず。
「仁……ッ」
それは慟哭に近かった。長く、高く響いて、その余韻が消え失せても尚、目の前の背中は動かない。
視界が滲む。堪えきれなかった涙が頬を流れ落ちて、顔を伏せた先、白い雪に点々と雫が落ちていく。喪失感に打ちのめされた玻綾の耳朶を。
「……五月蠅い」
不機嫌極まりない声は、聴き間違えるはずがない、どうしても欲しかったもので。
玻綾は顔を上げる。緩慢な動作で起き上がる背中に刻まれた爪痕は、あまりにも痛々しかった。
「勝手に殺すな」
身に刻まれた魔の跡の痛みを感じていないかのように。意識を失っている少女を保護者でもある南華に預け、銀髪を掻き上げた仁は気怠げな溜め息を吐いた。
「……まったく」
ゆっくりと立ち上がったその右手が握った刀は、つい先程まで玻綾が使っていたものだ。
玻綾だけではない、高見家の門下生全員が、異端の色を纏った娘が刀を扱っている姿を見た事がない。再三の促しにも拘わらず、鍛練にすら出てこない。そんな彼女に、何が出来よう。
刃に付着した血を払う、それだけで、仁の纏う気配が変わった。それは玻綾達がよく知っている、淡泊ながらも穏やかな気の流れが、そこから温もりを捨て、残ったのは、研ぎ澄まされた刃のような冷たさ。
白刃の如き気配が、闇を斬る。竜魔との距離を詰め、振り下ろされたその腕を土台に天空へ高く飛び上がる。その俊敏さに反応が遅れたそれは、地上の覇者でも、況して絶対の王者でもない。邪を孕む限り祓うべき対象であり、ただそれだけの事。
宙を舞う姿は、陽光に照らされて、見惚れる程に美しく。宙返りの遠心力と落下速度を利用した一閃は、傲慢な妖の首をいとも簡単に斬り落とした。
己の身に何が起きたのかを完全に理解する前に絶命したのだろう。地に転がり落ちた竜魔の首が虚ろに天の覇者を仰ぎ見、吹き出した鮮血が降り注ぐ。命を失った躯は地の裂け目へと落ちていき、残された生首もすぐに朽ち果て、谷底から吹き上がる突風に彼方へ運ばれてしまった。
妖は骸を残さない。
鮮血に染まった雪原だけが、確かにそこに一つの命があった事を語っていた。




