転ー5-
立ち止まり、懐から取り出した煙草を銜える。沈丁花の香りを纏いながら、その薄い唇が、行く先を塞ぐように立つ存在を、呼んだ。
「――鬼惺」
どれだけの妖が目の前にいるのだろう。極力抑えられた妖気は、単体であるなら影響力は低いが、これだけ一所に集まればそれはもう凶器だ。
「ここから先に進んではいけないよ。しい、帰りなさい」
数多の妖を従えた彼は、光なのか、闇なのか、まるで靄がかかっているかのようにその姿はぼやけている。世界を震わせる穏やかな声音は、されどそこには絶対の拒絶があった。
正面から対峙する彼女が、それに気付かないはずがないのに。
「アワイは狭間に漂うモノ。それは、私の領分です」
応える声も、決して揺るがない。
「あれはもう、ケガレに近い」
鬼惺の一言に、仁の纏う気配が変わる。それは斬り付けるような厳しさで、僅かな焦燥と危惧は、彼女が初めて見せた動揺だった。
その傍らに立つ祇葵は、心配そうに仁と鬼惺、二者の間をその氷の視線を彷徨わせる。
「何処へ。アワイは、何処へ行った」
「焔獄の谷へ」
赤い火を灯した煙草を持った手が、止まる。
「分かっただろう、しい。もう、遅い」
何が遅いのか。
その小さな背中を追いかけてこの森を進んできたけれど、一度だって自分達は、目の前で交わされる会話を理解出来なかった。
それでも、場に満ちる空気、声音の端に滲み出るもの、告げられる残酷さは、感じ取る事が出来る。
「たとえ〝謡う者”でも、救えない」
ならば、会話を理解している仁が感じているのは、絶望なのかもしれない。
――否。
「勝手に決めるな。選ぶのは私だ」
それは怒りだ。彼女から発される気の激しさに怯えた様に、両肩に乗っていた小さな妖達が飛び退く。
「退け、鬼惺」
誰であろうと、それが仮令、妖の長であろうと、彼女の在り方は変わらない。
細い指先が弾いた煙草が、二者間の空間に落ちて。
「私の邪魔をするな」
従うのは自らの心のみ。忠告も警告も聞き入れた上で尚、自分に命令できるのは、自分だ。
妖の長へ畏敬の念は持ちながらも、その碧色は揺るがない。二対の瞳は交わったまま、互いの心は語り終えた。それ以上の言葉はいらず、どちらが譲るのか。
あと一滴落ちただけで器から溢れ出てしまうような、危うい均衡を保っていた静寂を揺るがした笑みは、果たして。
「――祇葵」
長が呼んだ名は、人から与えられたものだ。
「見届けてきなさい」
空気を震わせた笑みは、駄々をこねる子供に手を焼きながら愛さずにはいられない、年長者特有の慈悲に満ちている。
風が吹く。世界が揺らぎ、酔いが醒めた様に視界が明瞭になり、そこには既に妖の姿はなかった。
耳に届いた深い溜め息は、意志を貫き通した者のそれではない。
「小言は全部終わってからちゃんと聞く」
先回りされてしまった祇葵は不服そうに眉を顰め、再度吐いた溜め息は諦観のそれ。くしゃりとその髪を撫でて、甘やかしている自覚はあるのだろう。それでも大切なのだから仕方がないと、その優しい横顔が語っていた。




