転-3-
「……届いた不吉な気配は、これであったか」
「……その様ですね」
冷静に事態を把握した上で刀の柄を握った正師範と師範の顔にも、厳しい表情が浮かんでいる。数多の死線を潜り抜けてきた久賢が孕む緊張が、この事態の異常さを物語っていた。
そんな彼等の警戒や闘志、そして不安を感じ取ったのだろう。振り返った祇葵は、それでも水色の瞳を笑みに細めてみせた。
「手を出したらあかんで? この子達は、退魔師である君達には祓えんねん」
だから、ここは俺に任しとき。
穏やかな声音でありながら、そこには抗えない強い響きがあった。経験の差なのだろうか、警戒を解かぬまま刀の柄から手を離す二人を視界の隅に捉える。それでも、玻綾はどうしても柄を握る力を緩める事が出来なかった。
恐ろしいのか、哀しいのか。ただ我武者羅に、必死に叫び続ける異形の上げる慟哭を受け止めきれず、体と心が乖離する。強張り、強く握り締めて体温を失いつつある玻綾の手を、その上からそっと包み込む手があった。
「遥か遠く 遠い 記憶の海に揺蕩う」
普段から体温の高くない彼女の手は、あまりにも優しい温もりをくれる。
「月の声 星の夢 天が哭き続けて」
庇われた背中越しに彼女を見遣る前に、届いた歌声は澄み渡り、ざわついた心を宥めてくれる。自分と左程背丈が変わらないから、肩越しに投げられた一瞥は、この手を握ってくれている温もり同様、優しかった。
「風に誘われた微睡の中で 懐かしい声が響く
今はもう傍らにはいないけれど」
憐れな異形の叫びも、それを包み込む雪嵐の音も、この歌声を攫っていくことは出来ない。薄い唇が紡ぎ続ける歌は、聴く者の心を鎮め、慰め、癒す。
「あなたの想いが降り注ぐ 煌めきの眩しさに
どうか 愛を聴かせて」
人であることを忘れ、妖にケガレと厭われたモノにとって、その歌声は唯一、縋れるものなのかもしれない。
「いつか蕾が開いて 満開の花を咲かせるこの世界を」
祇葵の操る雪の揺り籠が闇を包み込む。
それは透明な鎮魂歌を道標にして。
「ただ ありのままを ただ
この心で感じていたい」
天を埋め尽くす葉の向こう、紺碧の空へと消えていった。
その余韻が消える頃、世界が抱えていた胸を締め付けるような哀しみは癒され、静寂が戻る。そこでようやく強張っていた体から力が抜けて、寒いはずなのに汗が噴き出した。今感じている胸の痛みは生理的なもので、爆走する心臓を宥める為に荒い息を繰り返す玻綾の髪を、撫でる手がある。それは未だに玻綾の手を包み込む温もりと同じで、その微笑みは優しくて。
「謡ったらあかん言うたやないの、嬢」
飛んだ小言にその形のよい眉が跳ね上がる。向けられていた微笑は不機嫌なそれに変わり、怒られた仁だけでなく、自分から温もりを奪った男を玻綾もまた睨み付けた。
「ケガレは妖の領分や。俺に任せておけばいいんよ」
玻綾の恨みがましい視線は笑顔一つで受け流して、そっぽを向いて自分の正当性を主張する仁の髪を、祇葵はそっと撫でた。
「でも、嬢が心を鎮めてくれたお蔭で祓いやすくなったわ。ありがとう」
歌による鎮めは、それは異形だけではなく、相対する退魔師達もその恩恵を受ける。心が乱れればそれだけ負の気を増幅させ、祓う側の力を弱くする。
「仁」
一度はその行いを叱りながらも嬉しそうに髪を撫でている祇葵をそのままにして、自分を呼ぶ相手を碧の双眸が見遣った。
「先のあれは何だ。見習いを襲ったモノと同一か」
深く響く重厚な声が鋭く詰問する。袖口に手を入れたまま腕を組んだ久賢は、今まで守っていた沈黙を破り、異端の色を纏った瞳を正面から射抜く。それは決して逃げる事を許さなかった。




