転-1-
こんなにも深く、〝神座の森”に足を踏み入れた事は今までになかった。一歩進むごとに闇が濃くなっていくようだ。漂う妖気は距離に比例して強くなり、その威圧感に、これ以上進みたくないと思わず足が止まってしまいそうになる。
この奥に行っては、ならない。
それはまるで、本能よりも更に本質に違い、魂そのものに刻み込まれているかのような警告が、先程からずっと、玻綾の中から響いてきていた。
恐らく、一歩先を行く南華も、彼の更に二歩先を行く久賢さえも、同様の警告に必死に抗っているのかもしれない。
それなのに、退魔師三名を引き連れて雪化粧の施された森を歩く二つの背は、自分達が付いてきているのか確認する素振りさえ見せない。その歩みは乱れる事無く、過度に周囲を警戒している様子もなかった。
「……いつものように賑やかならいいのに」
闇に潜むモノ達の気配に気圧され、ともすれば逃げ帰ってしまいたい衝動を必死に抑えているこちらの心情を知りもしないで、そんな感想をのたまってくれたりする。
「せやなぁ。今日は大祓やけん。ハレの雨で報せたし、こんな日に出歩く物好きは相当の変わり者か、ただの阿呆しかおらん」
それは、そんな日にわざわざ〝神座の森”に足を踏み入れた人間に対する厭味なのだろうか。
玻綾は思わず、恨みがましい視線をその背にぶつけてしまう。さも当然とばかりに仁の隣を歩く水色を纏った男が何者なのか、今誰何したところで、欲しい答えは得られないだろう。何せ、些細なきっかけで命の狩り合いが始まりかねない緊張感の中でさえ、開かれなかった口だ。
「基本、妖は、ケガレを厭うからなぁ。しかも、今夜は百年に一度の月蝕みの日や。相乗効果で、何処も彼処も嘆きに溢れとる」
憂鬱な日や、と、仁は祇葵と呼んでいただろうか。あちら側、つまり森の住民であろう男が溜め息を吐く様は、あまりにも人間のそれと重なり、それがとても恐ろしかった。
思わず、警戒心を緩めてしまいそうになるから。
「これだけ静かなら、当然、聴こえる声も大きゅうなる。嬢、辛かったらちゃんと言うんやで。この五月蠅さは、正直……、俺でもちときついわ」
世界は、闇に潜むモノ達の息遣いさえ聞こえてきそうな程の静寂に包まれ、積雪を踏む足音しか、玻綾達には聞こえない。その異質な静けさの中に絶えず響く、自分達には決して捉えることの出来ないモノ達の声を、前を歩く彼等は聞き取っているというのか。
祇葵の労わりに、仁が頷く様子はない。それでも、返された沈黙が肯定であると、玻綾にはわかった。それは確実に、その隣に立つ男も同じであるはずだ。
「ほな、雑談でも続けよか。嬢、夜通し受けてた恋愛相談て、何やったん?」
「……よりによって選ぶ話題がそれ?」
「ええやん、気になるんやから。ほら、はよせぇ」
心底嫌そうな様子の仁には申し訳ないが、玻綾もちょっと興味があった。高見家の規則よりも、南華の説教よりも、同室者の心配よりも優先させた相談というのは、どれだけ深刻なものだったのだろう。
「淋しい寂しい神様が、短命の人間を好きになった」
神、と。仁は今、そう言っただろうか。
「紆余曲折あって相思相愛になったはずなのに、一度も愛していると言われたことがない」
「ほー、そら、辛いわなぁ」
しかし、後ろで聞き耳を立てているこちらの気持ちなどお構いなしに、祇葵は当然の様に相槌を打っている。
「月が綺麗ですね、とか。同じものを見ていたい、とか。この道は茨の道、とか。終いには死んでもいいとか言うので、置いて逝かないでと泣きついたら何故か殴られた、と」
羅列される言葉の数々は、確かに恋人が欲しいと思うものとは違う気がする。一緒に生きていきたいのに、死んでもいいなんて言われたら、玻綾なら怒るだろう。泣きつくなんて可愛い方、それなのに殴られた神様に同情した。
しかし、前方から流れてくる空気が、呆れというか、蔑みというか、温かみとは程遠いものであるような気がしてならないのは、何故だろう。
「愛してると言われるにはどうしたらいいのか、と相談された」
「……はあ。そんなん、知らんがな」
自分で話題を振ったはずで、恋愛相談に興味津々で、最初は語りの中の相手に同情したりしていたはずなのに、その祇葵の応えがあまりにも冷たい。




