承-13-
熟考は数秒だっただろう。俯き加減だった顔を上げる、その時には既に冴えた輝きが碧の双眸には宿っていた。異端の色を纏ったそれは、事態を見守っているしかなかった高見家の面々へと向けられる。
「久賢正師範。彼等は帰れますか?」
唐突に、何の脈絡もなく問い掛けられて、久賢は鋼鉄の表情筋を僅かに動かす。そのまま鋭い視線を高見家門下生へと滑らせた彼は、仁の選ぶ言葉の僅かな差異を正確に読み解こうとしているようでもあった。
状況を正確に理解出来なくとも、真っ直ぐに見返してくる幾対もの瞳を認め、最後に重々しく頷いた久賢は、改めて仁の視線を正面から受け止めた。
「問題ない。たとえ師範と準師範が抜けたとしても、森を抜けられよう」
久賢の正鵠を射た返答に、ふっと。
初めて、仁の表情が動いた。口角が僅かに上がる、それは確かな笑みだ。瞬き一つのうちに消えてしまったから、見間違いだったのかもしれなかったけれど。
「祇葵、君も来て」
上着のポケットから煙草入れを取り出し、そこから一本だけ取り出す。緻密な蒔絵が施された漆塗りの煙草入れは手製と分かる、それを臣の手に握らせて。
「……え?」
お守り、と。
短く残して、仁は既に歩き出している。
その間に久賢は門下生に今後の指示を出していたのだろう。南華と玻綾を従え、闇が蠢く森の奥へと進んでいく仁を追っていく。すぐに見えなくなってしまった背、心配そうに見つめていても、試験に合格したばかりの見習いに、何が出来よう。
臣が握り締めた漆塗りの煙草入れから、僅かに、沈丁花の香りが匂い立つ。先輩の促しに従い、宵達六人は森の出口を目指して再び足を進める。誰も口を開かない。先輩退魔師は、救護隊として怪我を負った後輩達を無事に家に届ける為に。後輩である宵達は、一度は失いかけ、今確かにここにある大切な仲間と共に帰る為に。
いつの間に、こんなにも深く森に踏み入っていたのだろうか。雪を踏み締める音だけが響く、互いの息遣いが感じられる程の静寂はやはり時間感覚を狂わせ、もう随分歩いたような、僅かしか距離を稼いでいないような、そんな不可思議な感覚に陥る。
出口は何処だろう。見渡す限り銀世界で、頭上を覆う木々が陽の光を遮る。深い森に整然と引かれた一本道は、その行き着く先は、本当に人の世界なのだろうか。
この道を通って奥へ進んだはずなのに、そんな馬鹿な思考がふと、湧いてきた。
「――いい匂い」
決して、周囲の警戒を怠っていた訳ではない。自己の思考に沈みながら、妖の気配には特に注意を払っていたはずだ。それなのに、見習いどころか、救護隊の門下生でさえ、すぐ近くに佇むその姿に気が付かなかった。
緩やかな薄柳色の髪は風と戯れる。体重を感じさせない足運びで、気が付いた時には常盤色の瞳が目の前にあった。
「人間なんて久し振りだわ」
突然の邂逅に反応出来ずにいた事が、結果として、最善の対応となる。驚きと恐怖に一人でもその腰に佩いた刀に手を掛けた瞬間に、きっと、ここにいた全員は死んでいただろう。美しい顔の中で、犬歯の覗いた赤き唇が女の身の内に潜む獰猛性を語っていた。
「あぁ……」
身を乗り出し、首筋に妖艶な気配を纏った女の吐息が掛かる。
「食べちゃいたいくらい……いい男」
間近で耳朶を擽る声音は熱を帯び、それはまるで、愛を囁くように。同性には目をくれず、一人ひとり、首筋の匂いを嗅いでいく。
「――……でも」
最後に臣の匂いを堪能して離れた女は、濡れた唇から深い吐息を零した。
「貴方の纏う香りは別のもの。――沈丁花の香り」
あ、と。臣が小さく声を上げる。意味も解らず持たされ、未だ手に握ったままだった煙草入れの存在を思い出したのだ。
「悲しませたくないの。だから、ちゃんと帰してあげる」
常盤色の瞳を細め、女は艶美な笑みを浮かべる。
その白魚の手が、すっと、臣の前に差し出された。
何かを求める様なその仕草の意味が分からず、彼は小首を傾げる。そんな臣の手を空いている方のそれで取り、軽やかな音は長い爪が漆塗りの箱を叩いた音。
「対価よ」
沈丁花の香りが匂い立つ箱、その中に収められている巻き煙草をどうやら女は求めているらしい。
しかし、これは預かり物で、持ち主は別にいる。何も言われていない。果たして、断りもなく中身を渡してしまっていいものか。
「いいのよ」
臣の心中を読んだかのように、女は妖艶に笑う。
「この箱の持ち主は、何も言わなかったのでしょう? だから、いいのよ」
さぁ、と。
長い爪を湛えた妖の手が、再び目の前に差し出されて。
臣は、慣れない手付きで漆塗りの箱を開ける。閉じ込められていた冬の香りが解き放たれて、しばし迷う様に揺れた指が選んだ本数は、四。
四本の巻き煙草を乗せた掌は、冷たかった。
「いい子ね」
選んだ答えはどうやら正解だったらしい。
初めて女は嬉しそうに笑い、細い指先が臣の顎をつい、と持ち上げ。その額にそっと、口付けを落とした。
「あの子が繋いだ道ですもの。大丈夫よ」
妖からの祝福を受けるという世にも珍しい体験をした臣は、黒縁眼鏡の奥の瞳を驚きに瞠ったまま目の前の女を凝視する。にこり、と。悪戯が成功した子供のような無邪気の笑みを、女は浮かべた。
「一本道の先に、貴方達の帰る場所があるわ」
まるで、先の不安を知っているかのように。
「お行きなさい」
言霊に導かれるようにして、退魔師の卵達はまた歩き出す。森の色を宿した姿が見えなくなり、その気配が消えてからもやはり、誰一人として口を開くことはなく。ただ、そこに、先程まで感じていたような不安は消え去り、やがて光が見えてくる。
あの妖が言った様に、一本道の先は人の世界で。
出口を通り抜け、沈丁花の香りを纏いながら、宵達は無事、高見家へ帰り着いた。
***




