承-12-
白刃を構えた己の前を悠然と横切っていった背中を紫水晶の瞳が貫き、最初に殺意を納めたのは久賢だった。現状の意味は読めなくとも状況を的確に読み、敵意がない相手と一戦交える価値なし、と迅速に判断を下したのは、流石、百戦錬磨の退魔師だ。
戸惑いを隠せない門下生達も、師範である南華が久賢に倣って刀を納めるのに続いて各々納刀する。救護要員として駆けつけてくれた先輩達の肩を借りながら歩き出そうとした六人の足が、自然と。
「気い付けてなー」
背を押す労わりの声に、止まった。
どうしたのかと訝しげな視線を送ってくる先輩達の手を辞し、自分の足で立った六人は歩いてきた道を振り返り、そこで、緩やかに手を振っているその男に深々と頭を下げた。
「助けていただいて、有難うございました」
年長者の臣が代表で謝辞を述べる。
六人もの人間に低頭される理由が分からずに目を瞬かせていた祇葵は、礼はいらんよ、と言った。
「君達は〝贄”やったん。お蔭で仕事がはかどったから、謂わば、等価交換や」
さも当然とばかりに説明されたが、宵達には何が何だかさっぱりだ。共通理解のない説明は未知の言語を聞いているかのようで、小首を傾げる六人に、その理由に見当がついたらしい。
祇葵はその長身を生かして即座に距離を詰め、無関係と言いたげに颯爽と先頭を歩いていた細い腕を掴んだ。
「嬢、何も説明しいひんかったんか」
引き留められて、前が止まれば後ろも止まる。腕を取る祇葵を顧みた碧の双眸は、心底面倒だとでも言いたげに。
「説明したところで理解は得られない」
突き放す様な言い方だった。
「結果としてはそうかもしれん。それでも、君には説明する義務があったはずや」
「祇葵、何をそんなに怒っている」
「当たり前や。今日は大祓やで? 本来なら人間が森に入ったらあかん日や」
「そんな事は今更言われなくても……」
「最後までちゃんと聞き!」
氷の瞳に火が燈る。厳しい一喝は、当事者よりも、周りにいた者達の肩を震わせた。
「ハレの雨で警告はした。それを無視して森に入ってきたのは人間や。本来なら、その時点で何があっても文句は言えん。それこそ、死であろうと」
同じような事を、宵達は数分前に聞いた。けれど、その時とは明らかに違う。あの時は呆れの色しかなかったそこに、強い怒りの感情があった。
「覚悟とはそういうもんや。だからこそ、嬢はその対価を彼等自身に求めた。贄となることで森の守護を得る。危険な契約や。せやけど、そうまでして嬢は護りたかったんやろ」
晴れ渡った空から雨が降り、それを闇からの警告だと告げられたあの時、その場にいた誰も理解出来なかった仁の行動理由を、祇葵は言葉にしてくれる。
「贄といっても、ほんまに遭遇するかは誰にも判らん。予想外なんて掃いて捨てる程ある。それでも、自分がそういう状況に陥るかもしれんと、知っているのといないのとでは、対応が違ってくるんや。今回の事かて、彼等が知っていれば嬢が出て行かんでもよかったかもしれん」
突如として変容した世界。鍔を手にして浮かれていた事は認めるが、認知しても理解が出来ない現実に、対処法など見つかるはずもなく。ただ恐怖に体も精神も絡め取られて、目の前で友を失うかもしれない状況にただ怯えていた自分を思い出して、宵は思わず、隣にいる臣の腕を掴む。
あの時、自分達は何も出来なかった。
「異形の前に飛び出して、その結果、怪我をしていたのは嬢だったかもしれん。最悪、死んでたのかもしれんのやで」
仁が僅かに顔を歪める。未だに祇葵はその細腕を離そうとはせず、掴むその手に力が加えられたのだろうか。
「自分がどれだけ危険な行動をとったのか……わかっとるんか、しいッ!」
純粋な怒気が膨れ上がる。空気が震え、その情の激しさは、傍観者も思わず身を竦ませてしまう程だった。
ただ、だからこそ理解出来る。凍えた瞳を燃やして激昂するのは、それだけその存在を愛しているからなのだ、と。
明らかに人間ではない存在から発された激情に世界が怯え、息を潜め、やがて静寂が戻ってくる頃。
「祇葵……」
開かれた唇から零れるはずだった言の葉は、一体、何であったのか。
「――嬢」
唐突に。
気配など、微塵も感じさせずに。
闇から、呼ぶ声があった。
「何」
呼ばれた本人に驚いた様子はない。ただ、この森に入って初めて感じる硬質な気配。
それは、確かに、警戒だった。
「アワイだ」
短く、闇から応えがある。
無機質な音の響きに、深い溜め息が重なった。それは長く尾を引き、ただ、事態の深刻さを伝える。
「わかった」
闇に潜み、姿さえ見せず、言い知れない不安だけを落としていった影が消えたのかさえ、分からない。
ただ、腕を組み、指先で唇に触れている仁の意識は既に闇には向いていない。少なくとも危険はないのだと、その姿で知るしかない。




