承-5-
森の闇から零れ落ち、遅々とした歩みながらも近付いてきていたそれが、ぶるり、と。それはまるで、人間が激情に躰を震わせるかのように。
『――……ぁ……』
震え続ける闇が裂けて、大きく開かれたそこから漏れたそれを果たして、声と称せるだろうか。
『ぁああああああぁぁあああっ!』
潰れたような、引っ掻いたような、高いような、低いような、脳が処理しきれない激情を叩き付けられて、突風が駆け抜けたそこにいた仲間が消えていた。
「月音! 芭瑠!」
臣の鋭い声が呪縛の鎖を打ち砕いた。闇の塊から伸びた触手に払われ、地面に叩き付けられた仲間二人からの返答はない。
「……んのッ!」
怒りは時として恐怖心を上回る。短刀を抜き放ち、智晴は駆け出す。
「戻れ、智晴!」
異常な世界の中で最も冷静に状況を把握している臣の制止も間に合わない。激情のまま地を蹴り、真正面から異形のモノに刃を振りかざそうとした智晴の体は、まるで人間が蚊を払うかの如く、振るわれた触手に拒絶された。受け身を取る事も出来ずに幹に叩き付けられた智晴は雪原に沈む。
「智晴!」
駆け寄った紫溂が智晴を抱き起こし、脈を確認して安堵の表情を浮かべたのを視界の片隅で捉える。冷え切った身体に温もりが伝わり、気が付いたらすぐ傍に相棒がいた。
「戦っても勝ち目はない。流石にそれくらいは判断できるよね、宵」
「当たり前だろう、臣。直情型の智晴と一緒にするな」
「ならよかった。智晴は紫溂に任せるとして」
「月音と芭瑠を連れて、とにかく逃げる!」
頷き合い、即座に体に命令を下す。
幸いにも、対峙した異形は動きが鈍い。触手はただ振り回しているだけで、明確な意思があるようには思えない。ただ我武者羅に蠢いているだけで、殺意が散逸している存在なら、逃げる事はそう難しい事ではないはずだ。
異形に背を向け、駆け出そうとしたその時だ。
『ああぁああうぅぅあああぁぁ……!』
怨嗟の声が追ってくる。それが明らかに自分達に向けられているものであると本能が理解し、顧みた視界に闇から伸びた触手が映り込んだ。抵抗する間も与えられずに捕縛され、そこで初めて、自身が下した判断が未熟であったことを知る。
意識ある者、ない者に拘わらず地面に縫い留められ、逃れようと必死に足掻く宵の視界に、それは飛び込んできた。
「臣!」
一瞬前までは確かに傍らで頷き合っていた友が、いない。幾本もの触手に絡め取られ、否応なく宙に浮いた状態で、闇に開いたそれは間違いなく口だ。
捕食行動。
緩慢な動作でありながら確実に捕えた人間を食べようとしている異形に、刀を授けられていない半人前に何が出来よう。数分前まではあんなにも誇らしく輝いて見えた鍔は、今はただの役立たずの装飾品でしかない。
幼い頃より共に育ち、同じ痛みを抱き、切磋琢磨しながら前に進んできた友が、目の前で妖とも呼べない異形に捕食されようとしている。
「臣ッ!」
伸ばした手は届かない。ただ見ているしかできない、名を呼ぶしかない、あの時と同じだ。何も変わっていない、絶望を前にただ願うことしかできない自分は。無意味だと知りながら、届かない手を必死に伸ばして。
あぁ、わかっている。本当は、わかっていた。
いつだって、自分は――自分達は、恐れている。
何もできないかもしれないこと、失うかもしれないこと、自分には結局誰も護れないということ。
あの警告を聞くべきだった、と。
「臣!」
名を呼ぶだけでは何も変わらないのに、その声に応える様に、不意に、臣と目が合った。
眼鏡の奥の紺色の瞳は、悍ましい異形と対峙しているとは思えない程に、あまりにも静かで。
形のよい唇が動く。笑みを浮かべ、瞳を閉じるその姿は、まるで――。
「つ――……ッ」
死を受け入れたその姿に、呼びかけることさえもう、出来ない。
――誰か。
自身の無力を嘆くのは後でいい。無様だと嗤われてもいい。愚かだと罵られてもいいから。
誰か、助けて。
今まさに大きく開かれた口に呑み込まれそうになっている友を凝視しながら、宵はただ、願った。
陽が陰る。
黒縁眼鏡が、雪原に落ちた。




