第8話 棚から消えた薬
薬屋の棚が、半分以上空いていた。
翌朝、俺――レクトはフィナ、ガレンと一緒に、セレスティアの市場へ来ていた。次の依頼に備えて薬を買い足すつもりだったが、止血薬の棚に残っているのは、小瓶が三本だけだ。
その下には『一組一本まで』と書かれた札が立ち、値札の上から新しい金額が貼られている。
「昨日より、また上がってるな」
ガレンが貼り直された値札を見て、眉をひそめた。大盾を受け取った左腕には、まだ新しい布が巻かれている。
「長期保存に向く保存薬が入らなくなったんだよ。止血薬も、解毒薬も、入荷する端から出ていく」
店主は一本を台へ置くと、残る二本を棚の奥へ寄せた。次に来る客の分まで、誰か一組に二本売ることはできないらしい。
隣の棚には、解毒薬の札だけが残っていた。棚板には丸い瓶底の跡が薄く並び、そこへ新しい瓶が置かれていないことの方が目立つ。
俺たちは止血薬を一本だけ買った。
必要な品を手に入れたはずなのに、足りないという感覚は強くなった。三人の誰かが毒を受ければ、今の手持ちでは対処できない。
「ネベル村の薬庫には、保存薬と解毒薬の記録がありました」
市場を出たフィナが、濡れないよう布で包んだ帳面を持ち上げた。村から持ち帰り、冒険者ギルドへ届けた薬庫記録だ。
「作った人まで追えれば、同じ薬をまた用意できるかもしれません」
「まず、回収された薬と記録が一致するか確かめよう。名前だけ追って、別の品だったら意味がない」
俺たちは買った一本を荷へ収め、市場から冒険者ギルドへ向かった。
ギルドの薬庫は、依頼窓口の奥にあった。
ネベル村から回収された薬箱はすでに検品を終え、使える品と傷んだ品に分けられている。薬庫の係員は、俺たちが持ち帰った帳面の横へ、回収時の記録を広げた。
「村の帳面には、作製者、納入日、用途が書かれています。こちらは回収した時の状態と、検品の結果です」
フィナが二冊の帳面の該当行を指で追った。俺は作製者を、ガレンは薬箱に付いていた札の印を見比べる。
保存薬の記録が三つ。解毒薬が二つ。麻酔と足止めに使う薬が一つずつ。
どの行にも、同じ名前が残っていた。
「リゼ・カルナ」
俺が読み上げると、係員が登録名簿を開いた。
「二十一歳、Eランク《調薬師》です。記録上、保存薬と解毒薬は回収時にも使用できる状態でした。麻酔と足止め用の薬も、表示と中身に違いはありません」
調薬師は、薬の材料を選び、用途に応じて加工する職業だ。名前だけでなく、時間が経った後の結果まで残っているなら、少なくとも偶然できた一瓶ではない。
「傷をすぐ治す即効回復薬の納入記録は?」
ガレンの問いに、係員は村の帳面をもう一度めくった。
「ありません。ギルドに残る別の記録にも、彼女が即効回復薬を納めた履歴は見当たりません」
棚から消えているのは、負傷をすぐ治す薬だけではない。俺たちが今必要としているのも、村の薬庫に残っていたのも、毒や傷が悪化する前に使う薬だ。
「居場所は分かりますか?」
「登録上は、工房街の共同工房を使っています。ただ、依頼を受けているかまでは分かりません」
俺は二冊の該当箇所を紙へ写してもらった。作れと迫るためではなく、何を作った実績があり、今どんな薬が足りないのかを伝えるためだ。
依頼にするなら、仕事の範囲と報酬も先に示す必要がある。
「採取が必要になれば、素材集めは俺たちが担当する。調薬の材料費と作業分は、完成品を買う代金とは分けて扱いたい」
「試作が完成しなくても、使った材料と作業まで無かったことにはしない、ということですね」
フィナが確認し、俺は頷いた。
「成功を約束させるんじゃない。記録どおりの強みで、今の不足を埋められるか確かめてもらう。その仕事に払う」
ガレンは写しを見下ろし、保存薬と解毒薬の行を太い指で押さえた。
「なら、話はこれで足りる。本人が断るなら、そこで終わりだ」
三人で条件を揃えてから、俺たちは工房街へ向かった。
最初の工房では、リゼは朝に来ていないと言われた。
二軒目では、受付の男が即効回復薬の注文書を束ねながら、露骨に首を振った。
「リゼにそれを頼んでも無駄だぞ。即効回復薬を作れないから、討伐隊の薬を用意する班からも外されたんだ」
「俺たちが探しているのは、保存薬と解毒薬を作った調薬師です」
俺が回収記録の写しを見せると、男は紙に残る検品結果を見て、口を閉じた。
代わりに、奥で薬瓶を洗っていた職人が顔を上げる。
「保存と解毒なら、あの子は細かいよ。麻酔も、効き始めるまでの時間を何度も測る。安全を確かめすぎて、注文を仕上げるのが遅れることはあるけどね」
「足止め用の薬も記録にありました。どこへ行けば会えますか?」
フィナが尋ねると、職人は通りの奥を指した。共同工房の中でも、他の薬の臭いが混ざらないよう、端に分けられた小部屋を使っているという。
工房の扉を探し当てた時、中から小さな金属音が続けて聞こえていた。
扉は少しだけ開いている。声をかけると、金属皿を並べていた若い女性が手を止めた。
「依頼の相談なら、先に言っておきます。私は即効回復薬を作れません」
名乗る前の言葉だった。
リゼ・カルナは、作業台の前から動かずに俺たちを見た。机には同じ形の小瓶が並んでいるが、札には、一本ごとに作製日と確認時刻が書き分けられている。
「即効回復薬を頼みに来たんじゃない。ネベル村の薬庫に残っていた、保存薬と解毒薬の記録を見て来た」
俺は部屋へ入らず、扉の外から記録の写しを差し出した。リゼはすぐには受け取らず、紙に押されたギルドの確認印を見てから手を伸ばす。
「回収されたんですか。中身は?」
「保存薬と解毒薬は、使用できる状態だった。麻酔と足止め用も、表示に間違いはなかったそうだ」
リゼの視線が、検品結果の行で止まった。
喜ぶより先に、日付を数えているようだった。指先で納入日と回収日を往復し、保存できた期間を確かめている。
「保管場所の温度は分かりますか。薬箱に水が入った跡は? 解毒薬は、瓶の底に沈殿がありませんでしたか?」
「そこまでは、この写しにない。必要なら係員に確認を頼める」
答えられないことを埋めずに返すと、リゼはようやく顔を上げた。
「……それなら、確認してから判断したいです。使えると書かれていても、状態が同じとは限りませんから」
仕事が遅いと言われた理由が、少し分かった。記録が一行あれば十分だとは考えず、その一行が何を確かめたものかまで遡ろうとする。
「判断してほしいのは、同じ薬をそのまま作れるかだけじゃない」
俺は市場で見た棚と、解毒薬が一本もなかったことを伝えた。俺たち三人も、毒に備える薬を補充できていない。
「薬不足を埋めるために、今の材料で作れる試作品を頼みたい。必要な素材があるなら、採取はギルドの依頼として受ける。危険度に合う護衛も外さない」
リゼは記録の写しを作業台へ置いたが、まだ頷かなかった。
「試作は、完成品ではありません。効き方を調べて、記録を残して、使ってはいけない条件も決める必要があります。途中で使えないと分かるかもしれません」
「その確認も作業に含める。材料費と作業分は、完成品の代金と分けて払う。使えると確認できる前に、こちらの都合で配ることもしない」
「期限を縮めるために、確認を飛ばせとは言いませんか?」
「言わない。ただ、いつまでに何を確認できるかは先に相談したい」
リゼは俺だけでなく、フィナとガレンにも目を向けた。
「私たちも同じ条件で聞いています」
フィナが答え、ガレンも短く頷いた。
リゼはしばらく黙ってから、棚の下にある木箱を引き出した。中には空の包み紙と、産地や状態を書き込むための札が束ねてある。
「解毒薬なら、主材は下級薬草です。毒を弱める薬に使う薬草で、湿った土と半日陰を好みます」
下級薬草。それが、解毒薬の主材になる正式な呼び方だった。
「市場には入っていませんでした」
フィナの言葉に、リゼは一枚の古い採取記録を広げた。
「以前は、セレスティア南の放棄水路沿いで採れました。水路脇は湿っていて、崩れた壁が日を半分遮るので、まとまって生えます」
記録の端には、古いEランクの印がある。その横へ、もっと新しい赤い印が重ねられていた。
「今はDランク扱いなのか?」
ガレンが赤い印を指した。
「水路の管理が途絶えてから、毒針を持つ群体魔獣の痕跡が増えました。だから今は、Dランクの護衛を含む依頼でなければ入れません」
薬がないから採りに行く。だが、採りに行く場所には毒がある。
備えなしで踏み込めば、足りない薬を求めて被害を増やすだけだ。必要なのは採取だけではなく、危険を見て退ける護衛と、持ち帰った素材を確かめられる調薬師だった。
「採取依頼の条件は、ギルドで確認する。俺たちだけで条件を満たせないなら、必要な護衛を探す」
俺が記録から手を離すと、リゼは空の包み紙を一枚取り出した。表には素材名を書く欄があり、裏には採取場所と時刻、傷みの有無を記す欄がある。
「採れた場所ごとに分けて、この札を付けてください。濡れたまま重ねず、根元を潰さないこと。それが守られて、下級薬草を持ち帰れるなら――」
リゼは新しい札の素材名欄へ、迷いのない字を書き込んだ。
「解毒薬の試作品を作れます」
リゼ・カルナ:21歳、Eランク《調薬師》/保存薬・解毒・麻酔・足止めが得意、即効回復薬は作製不可。
採取対象:解毒薬の主材「下級薬草」/セレスティア南の放棄水路沿い、Dランク護衛を含む依頼が必要。




