第6話 退路を守る役
住民の避難が済んだネベル村の入口では、片方だけ開いた戸が風もないのに小さく軋んでいた。
俺――レクトは、仲間二人と手押し運搬車を止めたまま人の気配を探す。呼びかけに返事はなく、炊事の煙もない。軒下には薪が積まれ、井戸のそばには桶が伏せてあるのに、暮らしていた村人の姿だけが消えていた。
住民は避難したと聞いて来た。それでも、卓上に椀を残した家や、干しかけの布が揺れる庭を目にすると、村全体が息を潜めているように見える。
「足跡は古い。大勢が戻った形跡もない」
俺は入口の土を確かめてから、村内を見渡した。斥候として先に探すべきは獣より退路だ。中央の村役場へ続く道は手押し運搬車二台分ほどあるが、奥の薬庫へ向かう脇道は狭い。
鍛冶小屋は入口に近い。重い工具を最初に積めば、薬庫までの狭い道で手押し運搬車を動かしにくくなる。
俺は荷重と帰路を考え、奥から回って、最も重い工具を帰る直前に積む順番を決めた。
「奥の薬庫、中央の村役場、最後にここの鍛冶小屋だ。工具は一番重い。帰る直前に積む」
「薬箱と地図筒は、私が封を見ます」
封緘術士フィナが、荷台の空きと固定紐を確かめた。封緘は物の開閉を一時的に止める術で、彼女なら回収品の封が破られていないかも見分けられる。
「ガレンは入口と後ろを頼む。建物へは無理に入らなくていい」
試行参加中の重装士ガレンは、背負った大盾の縁を握った。
「村の外へ戻れる道を見る。何か入ってきたら、先に知らせる」
俺たちは手押し運搬車を奥へ向けた。軒先から垂れた籠を避け、倒れた椅子を道端へ寄せる。生活の跡を踏まないように進むほど、人のいない静けさが濃くなった。
薬庫の扉は閉じていたが、押すと抵抗なく開いた。
俺が中を確かめ、フィナが棚から指定の木箱だけを選ぶ。蓋を留める封蝋と箱の番号を一つずつ見て、薬瓶が鳴らない向きで荷台へ積んだ。
「すべて封は残っています。角に湿りもありません」
フィナは固定紐を二重に通し、箱同士の隙間へ空の布袋を挟んだ。俺が荷台を押して揺れを確かめても、瓶の触れ合う音はしない。
ガレンは薬庫へ背を向け、脇道の入口に立っていた。盾を構えてはいない。村役場へ戻る角と、その先にある村の入口を交互に見ている。
「戻る道は空いてる。だが、右の家の雨戸が外れかけている。帰りに風で落ちれば、車輪へ当たる」
「先に外して壁へ置こう」
三人で持ち主のいない家へ一礼し、雨戸を道から遠い壁際へ寝かせた。危険は獣だけではない。荷が重くなれば、板一枚でも車輪を取られる。
中央の村役場では、記録棚の下段に革張りの地図筒がまとめて残されていた。
フィナは口金に巻かれた細紐へ指を添える。封に切れ目がないと確かめてから、筒を一本ずつ布で包んだ。
「これも指定どおりです。開けずに運べます」
地図筒は薬箱の上へ置かず、荷台の側板に沿わせた。工具を積む場所を中央に残し、上から別の紐で留める。
ここまでで荷はまだ押せる重さだった。だが、鍛冶小屋の工具箱を載せれば、止まるにも曲がるにも距離が要る。
俺は村役場の前から帰路を見直した。鍛冶小屋の角を左へ曲がれば村の入口だ。逆方向から何か来た場合は、役場横の細道へ逃がせる。
「最後の積み込みは急がない。工具箱を載せたら、ここまで一度戻して車輪と紐を見る」
フィナが頷き、ガレンは役場横の細道へ目を向けた。
「手押し運搬車は通る。盾を横にした俺もついていける」
鍛冶小屋の中には、指定票と同じ印のついた工具箱がまとめてあった。
俺とガレンで一箱ずつ持ち上げる。鉄鎚や挟みが詰まった箱は、先に積んだ薬箱より重い。荷台の中央へ下ろすと、板が低く鳴った。
フィナが留め金を調べ、封が残っていることを確かめる。残りも横へ並べ、左右の重さが偏らない位置で固定した。
取っ手を持ち上げると、車輪が柔らかい土へ指一本ほど沈んだ。
「帰りは下りでも押される。走らせたら止められないな」
俺が手押し運搬車を数歩進めた時、村の外れで木の折れる音がした。
一度ではない。低い柵が順に壊れ、湿った鼻息が近づいてくる。
「岩牙猪だ!」
入口を見ていたガレンが叫んだ。
街道で遭ったのと同じ、石のような牙を持つ大型魔獣が、村の端の畑から入り込んでいた。岩牙猪は、討伐ならCランクが対処するほどの脅威だ。鼻先を土へ擦りつけたあと、鍛冶小屋の前にある手押し運搬車へ顔を向ける。
荷の匂いを嗅いだのかもしれない。こちらへ来れば、重くなった車体を急には引けない。
俺たち三人が受けているのはDランクの回収依頼だ。正面から倒そうとすれば、手押し運搬車も退路も失う。守るべきは討伐の手柄ではなく、指定物資を載せた手押し運搬車と、全員で村を出る道だった。
「役場横の細道へ戻す。荷は全部このままだ」
地図筒だけ抱えて走る案も、工具箱を下ろして軽くする案も捨てた。一つでも置けば、回収は完了しない。
「俺が取っ手を引く。フィナは左輪と荷の紐。ガレンは猪を倒すな。鍛冶小屋の入口、次に役場の角、最後に手押し運搬車との間を守れ」
「三か所を順にだな」
ガレンは大盾を背から抜いた。顔から血の気は引いている。それでも、獣の正面へ走らず、最初に鍛冶小屋の入口へ盾を斜めに置いた。
岩牙猪が土を蹴る。
大盾は突進を受け止める壁ではなく、入口から手押し運搬車までを隠す戸になった。猪が首を振って盾の縁を牙で弾く間に、俺は取っ手を引く。
重い。
車輪は動き出すまで土を抱え込んだ。動けば今度は工具箱の重みが後ろから押し、曲がろうとする車体をまっすぐ進ませる。
「左輪、石です!」
フィナの声で俺は足を止めず、取っ手を半歩右へ切った。彼女が側板へ手を添え、浮きかけた紐を引き戻す。
盾を回り込んだ岩牙猪が、もう一度頭を下げた。
ガレンは盾を引き抜き、役場の角まで後退する。猪を見続ければ足が止まると知っているのか、何度も背後の細道と手押し運搬車を確認していた。
「角まであと四歩。右へ寄せろ、レクト!」
俺は取っ手を右へ引いた。だが、壊された柵の横棒が道へ転がり、曲がる先を半分塞いでいる。
避ければ左輪が軒下の段差へ落ちる。止まって棒を動かせば、猪が追いつく。
フィナは俺の指示を待たなかった。
「左前脚だけ、止めます!」
封緘具が鳴り、投げられた札が岩牙猪の脚へ張り付く。薄い光が関節の動きを一歩分だけ縛った。
巨体が前へつんのめり、牙が土を削る。
その一歩の間に、フィナは柵の横棒を道端へ蹴り出した。すぐ荷台へ戻り、薬箱の紐を両手で押さえる。
「道、空きました!」
俺は役場の角へ手押し運搬車を入れた。工具箱が横へずれかけたが、地図筒も薬箱も紐の中に残っている。
封緘の光が消え、岩牙猪が立て直した。
ガレンは角の外側に大盾を置いた。獣と正面から力を比べず、牙が曲がり口へ向くたび盾の面を傾ける。岩牙猪は押し切ろうとして壁へ肩を擦り、進む向きを何度も失った。
「手押し運搬車を先へ!」
俺とフィナで取っ手を引く。細道の中ほどまで入ったところで、ガレンが盾を引きつけたまま角を曲がった。
岩牙猪が追ってくる。
ガレンは手押し運搬車の後ろへ走らず、車体と獣の間へ大盾を滑り込ませた。牙が盾を叩くたび、彼は半歩ずつ退く。受け止める場所を決めず、俺たちの進む分だけ道を譲らせている。
細道の出口には、崩れた石垣が張り出していた。手押し運搬車は通れるが、岩牙猪の胴には狭い。
「そこを抜けたら左へ。荷を止めろ」
ガレンの声に従い、俺は車体を石垣の外へ引き出した。フィナと二人で取っ手へ体重をかけ、重い荷をようやく止める。
最後に抜けたガレンが大盾を横へ向けた。
岩牙猪は石垣の隙間へ鼻先を突っ込んだが、肩がつかえて進めない。しばらく土を掻いたあと、薬や工具の匂いを追うのを諦め、空き家の庭へ向きを変えた。
遠ざかる蹄の音を聞いてから、三人そろって息を吐いた。
指定された薬、工具、地図は、一つも捨てていない。
ネベル村を離れる前に、俺たちは荷の紐と車輪を調べ直した。
ガレンの左手には、盾の革帯が擦れた赤い傷ができていた。フィナが水で汚れを落とし、持参した布を細く裂いて巻く。俺の膝にも石垣へぶつけた浅い擦り傷があったが、歩くにも手押し運搬車を押すにも支障はない。
「盾を持てるか?」
「持てる。次は革帯へ布を巻く」
ガレンは痛みをごまかさず、包帯の上から指を曲げた。問題ないと確かめてから、村の入口ではなく手押し運搬車の右後ろへ立つ。
帰路では、下り坂のたび荷の重みが取っ手を押した。
俺が前で速度を殺し、フィナが横から箱の揺れを見る。ガレンは右輪が溝へ寄ると、盾を背負ったまま側板へ肩を当てた。
休憩のたびに手の位置を替えても、腕の痺れは抜けない。それでも、荷台から聞こえるのは工具の低い音だけだった。薬瓶は鳴らず、地図筒も濡れていない。
セレスティアの門が見えた時には、三人の靴も手押し運搬車の車輪も泥に覆われていた。
◇
街へ戻った俺たちは、そのまま依頼窓口へ回収品を預けた。
受付係が指定票と照らし合わせる。薬箱の封、工具箱の印、地図筒の紐が順に確認され、最後の地図筒が台へ置かれた。
「指定物資はすべて揃っています。これで依頼は完了です」
差し出された依頼報酬は、銀貨十八枚だった。
俺は枚数を確かめ、袋ごと受け取る。ここで分けることはしない。傷の手当て、汚れた装備、次の依頼に必要な品まで見てから、三人で決めるための金だ。
受付の脇では、出発前に交わした試行参加の契約書が待っていた。
「ガレン」
俺が声をかけると、彼は包帯を巻いた手で契約書を持った。しばらく試行期間の欄を見たあと、俺やフィナではなく、自分の大盾へ目を落とす。
「正面で敵を倒せと言われれば、次も動けないかもしれない」
ガレンは顔を上げた。
「だが、退路を守る役なら続ける。俺は、その役で二人と行きたい」
誰かに残れと言われた答えではなかった。
「俺も、その役を頼みたい」
「私もです。今日、荷を残さず帰れたのは、後ろに盾があったからです」
フィナが先に署名し、俺も続いた。ガレンは最後に自分の名を書き、三人で試行参加の契約から継続契約へ切り替えた。
正式な三人組になって最初にすることは、祝杯ではない。
傷と泥を落とし、装備を調べ、銀貨十八枚の使い道を決める。今回持ち帰ったものを、次も全員で帰るための形へ変える仕事が残っていた。
回収物:薬、工具、地図。
依頼報酬:銀貨18枚。
契約:試行参加から継続契約へ変更。




