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第5話 曲がり角まで

 共同宿舎を出て間もなく、貸与された手押し運搬車の右輪が朝露に濡れた石を踏んだ。


 回収物をまだ積んでいない荷台が大きく傾くより先に、右を歩いていたDランク重装士ガレンが取っ手へ手を添える。傷だらけの大盾は背負ったままで、車輪を持ち上げようとはしなかった。


「そのまま押せ。右へ切ると溝に落ちる」


 俺は正面の石を越えるまで、取っ手をまっすぐ保った。左側ではFランクの封緘術士フィナが荷台へ手を当て、空の木箱と少量の食料を固定した紐が緩んでいないか確かめている。


 セレスティア近郊から、避難済みのネベル村へ向かう朝だった。


 目的は村の薬庫に残された薬、鍛冶小屋の工具、村役場の地図を回収すること。帰りには空の木箱が埋まり、この程度の石でも今よりずっと避けにくくなる。


 前金の残りは銀貨二枚しかない。余分な薬を買い足す余裕も、手押し運搬車を壊して弁償する余裕もなかった。


「最初から道が悪いですね」


 フィナが車輪の跡を振り返った。街を出たばかりの道には浅い轍が二本続き、その外側は雨水に削られている。


「悪い場所を先に覚えられる。帰りは荷があるからな」


 俺は前だけでなく、手押し運搬車の両側を見る。街道の左には低い藪、右には緩い斜面。後ろから何か来れば、今の幅なら手押し運搬車を寄せて通せる。


 ガレンも敵を探すより先に、車輪が戻れる硬い地面へ目を向けていた。


 役割は昨日決めた。俺が前と退路を見て、フィナが荷と封を守り、ガレンが右側と後ろを受け持つ。


 言葉で繰り返す代わりに、俺は曲がり道のたび片手を上げた。フィナが手押し運搬車を止め、ガレンが後ろを見る。その間に俺が角の先を確かめ、危険がなければ手を振って進ませた。


 三度目には、合図から停止まで呼吸一つもかからなかった。


 ただし、順調だからといって道が安全になったわけじゃない。


 低い丘を越えると、土の街道は切り立った岩の間へ入った。両側から灰色の岩壁が迫り、手押し運搬車の横には人ひとりが歩ける程度しか残らない。


 俺は立ち止まり、先の曲がり角まで視線を走らせた。右の岩壁はほぼ垂直だ。左には獣道らしい切れ目があるが、入口へ転がった石と枯れ枝が張り出している。


 手押し運搬車は通れても、ここでは向きを変えられない。


「後ろは?」


 俺が尋ねると、ガレンは来た道へ目を戻した。


「十歩戻れば少し広い。だが、手押し運搬車を回せるほどじゃない。今の向きのまま退くなら――」


 ガレンの言葉が途切れた。


 岩の向こうから、硬いものが土を掻く音がした。一度。二度。続いて、湿った鼻息が狭い岩場へ反響する。


 曲がり角の陰から、黒褐色の巨体が現れた。


 岩牙猪だ。荷の匂いに寄ってくる大型獣で、下顎から伸びた二本の牙は石のように硬い。突進を正面から受ければ、人だけでなく手押し運搬車まで押し込まれ、逃げ道を塞がれる。


 空荷とはいえ、手押し運搬車には食料と回収用の木箱が積んである。岩牙猪は鼻先を上げると、俺たちではなく荷台を見た。


 手押し運搬車は荷台の前を曲がり角へ、取っ手側を来た道へ向けている。俺は曲がり角側で岩牙猪と向き合い、フィナは取っ手側、ガレンは車体の右後ろにいた。


「手押し運搬車を後ろへ。走るな」


 俺は短弓を下ろしながら告げた。


 フィナが取っ手を引き、荷台の前を岩牙猪へ向けたまま、手押し運搬車を来た道へゆっくり後退させる。急に動かせば、獣が追うきっかけになる。


 岩牙猪の前脚が地面を打った。


 どん、と腹に響く音がした瞬間、ガレンが動きを止めた。


 背負い帯へ伸ばした手も、踏み出しかけた右足も固まっている。顔から血の気が引き、息が喉で詰まっていた。


 怖くないふりは、していなかった。昨日、自分で話したとおりだ。地面が揺れるような突進を前にすると、身体が止まる。


 岩牙猪が頭を低くした。


「ガレン!」


 俺が呼ぶと、彼の目だけが動いた。獣ではなく、左の岩壁と手押し運搬車の後輪を見ている。


「左の切れ目だ」


 息を絞り出すような声だった。


「枯れ枝を払えば手押し運搬車が入る。入口は荷台より指二本分広い。中で右へ曲がってる。あいつの肩幅じゃ追えない」


 恐怖で身体は止まりかけても、道を見る目までは止まっていない。


「そこまで何歩だ?」


「手押し運搬車の後ろから十二歩。まっすぐ退ける。右輪だけ岩へ寄せるな」


 岩牙猪が土を蹴った。


 正面を任せれば、ガレンの身体はまた硬直する。なら、見る範囲と守る場所を一つに絞る。


 俺は考えるより先に、ガレンの役割を狭めた。


「敵を倒さなくていい。曲がり角へ入るまで、手押し運搬車の右後ろを守れ。猪の正面には立つな」


 ガレンが息を吸った。大盾を背から抜く動きは遅れたが、俺と獣の間ではなく、後退する手押し運搬車の右後ろへ足を運ぶ。


「右後ろ、曲がり角まで。分かった」


「フィナ、前脚を一度だけ止められるか?」


 封緘術士フィナは獣の脚と逃げ道を見比べ、予備札を一枚抜いた。


「脚全体は無理です。右前脚の関節なら、一歩分だけ封じます」


「十分だ。合図は矢が当たったあと」


 俺は岩牙猪の顔ではなく、左耳の横に見える岩へ矢を放った。


 鏃が石を叩き、乾いた音を上げる。獣の顔がそちらへぶれた瞬間、俺は街道の右端へ走った。


 岩牙猪は動くものを追って進路を変えた。牙の先がこちらへ向き、蹄が岩を削る。


 フィナが封緘具を鳴らした。


「今です――そこから先へ、動かないで!」


 投げられた札が岩牙猪の右前脚へ張り付いた。薄い光が関節を輪のように締め、一歩目だけが不自然に短くなる。


 巨体が傾いた。


 止まったわけではない。岩牙猪は肩を岩壁へ擦りながら、勢いのまま俺へ迫る。


 俺は牙が届く直前で左へ身を投げた。外套の裾を風が引き、石のような牙が背後の岩へ突き刺さる。


 鈍い衝撃が岩場を揺らした。


「レクト!」


 フィナの声に、俺は片膝をついたまま獣を見る。牙はすぐ抜けた。部分封緘の光ももう消えかけている。


「下がれ。切れ目まで!」


 フィナが手押し運搬車を引き、ガレンが右後ろから片手を添えた。俺は車体の左を抜けて二人より先に獣道へ入り、短剣《灰羽》を抜く。


 入口を塞ぐ枯れ枝は、見た目より太い。一本を斬り、絡んだ蔓を刃先で引き裂くと、手押し運搬車一台分の隙間が開いた。


 背後で、岩牙猪が牙を抜いた音がした。


「右輪、半歩左!」


 ガレンの声が飛ぶ。


 フィナが取っ手を切り、後輪が岩の出っ張りを避けた。手押し運搬車は後退したまま左へ寄り、向きを変えず獣道の入口へ尻から入ってくる。


 岩牙猪が再び走り出した。


 狭い街道では、蹄の一打ごとに音が重なる。ガレンの肩が跳ね、大盾の縁が岩へ当たった。


 それでも彼は獣を見に行かなかった。


 手押し運搬車の右後ろ。俺が示した場所に立ち、右輪と曲がり角の幅を見ている。


「あと三歩だ。フィナ、そのまま引け!」


 岩牙猪の牙が荷台の端へ届きかけた。


 ガレンは突進の正面へ盾を置かなかった。右後ろから大盾を斜めに差し入れ、牙の先を横板から外へ滑らせる。


 衝撃で盾が大きく鳴った。ガレンの足が土を削り、一歩、二歩と手押し運搬車の横へ押し込まれる。


 受け止めてはいない。盾の面を傾け、獣の勢いを街道の右壁へ逃がしている。


「曲がり角だ!」


 ガレンの合図で、フィナが取っ手を右へ切った。手押し運搬車の後部が岩の切れ目を抜け、荷台が獣道の奥へ折れる。


 俺は内側から車体を引いた。ガレンも最後まで右後ろを離れず、盾を岩牙猪へ向けたまま狭い切れ目へ滑り込む。


 岩牙猪が入口へ肩をぶつけた。


 巨体は入らない。牙だけを隙間へ差し込み、荷台から外れた岩肌を削っている。


「まだ下がってください。牙が届きます」


 フィナは振り返らず、手押し運搬車をもう一度引いた。俺とガレンも車体を押し、右へ曲がった岩陰まで運ぶ。


 入口が見えなくなると、追ってくる蹄の音も止まった。


 誰もすぐには口を開かなかった。


 ガレンは大盾の縁を地面へつき、浅い息を繰り返している。顔色は戻っていない。盾を握る手も震えたままだ。


「怖くなくなったわけじゃない」


 ガレンは自分の手を見て言った。


「最初は、何も動かなかった。今も、盾を捨てて逃げたかった」


「それでも、道を見つけました」


 フィナは破れた札を回収しながら答えた。


「私には、あの切れ目に手押し運搬車が入るか分かりませんでした」


 俺も入口と曲がり角を見返した。獣を倒した者はいない。得られる牙も肉もなく、矢を一本失い、予備札を一枚使った。


 それでも、三人と手押し運搬車はここにある。


 ガレンが守ったのは敵の正面ではなかった。手押し運搬車が曲がり角へ入るまでの十二歩と、その右後ろだ。


 敵を倒す盾ではなく、退く道を守る盾。


 俺はその役割を、自分の中で《退路守護》と呼んだ。何かの技能だと決めたわけではない。ただ、次に彼へ頼む仕事を見失わないための名前だった。


「ここを抜ければ、街道へ戻れるはずだ」


 俺は獣道の奥へ目を向けた。細い道は岩の間を回り込み、ネベル村の方角へ続いている。


「進めるか?」


 フィナは荷台の紐を引き直し、封緘具へ次の札を収めた。


「進めます。帰りにここを使うなら、荷を積んだ幅でも通れるか確かめながら行きましょう」


 ガレンは震えが収まるまで待ってから、大盾を背負い直した。


「右後ろを歩く。さっき盾を当てた横板も見る」


 誰も、勝ったとは大声で言わなかった。


 けれど俺たちは、決めた役割のまま初めて退き切った。


 岩間の道を抜け、再び街道へ出た頃には、日は頭上を越えていた。


 俺は曲がり角ごとに帰路の目印を確かめる。


 フィナは札と荷台を見た。


 ガレンは車輪が通れる幅を数えた。


 やがて、前方の丘の向こうに木組みの見張り台が見えた。


 その下には、ネベル村の低い屋根が重なっている。


 着いたはずなのに、炊事の煙は一本も上がっていない。避難済みの村だと分かっていても、風に鳴る戸板の音さえ聞こえない静けさは不自然だった。


 薬庫の薬、鍛冶小屋の工具、村役場の地図。回収対象は、あの静かな屋根の下に残っている。


 そして、帰りには今より重い手押し運搬車を、もう一度ここから運び出さなければならない。

残金:銀貨2枚。

消費:矢1本、予備札1枚。

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