第2話 同じ荷を守るために
「待ってください。その木箱を動かす前に、封を見ます」
荷台へ手をかけた俺を、フィナが呼び止めた。
夜明け前の街道中継所で、フォルディア王国東部の城塞交易都市セレスティア行きの二頭立て馬車が出発を待っている。積み荷は薬、包帯、保存食。どれも欠けずに届ける必要がある品だ。
この荷を失えば、信用も報酬も失い、無所属の俺たちに次の仕事はない。
「荷崩れがないか、先に揺すって確かめるつもりだった」
「封緘札は、一度こすれると印が読めなくなることがあります。動かしてからでは、いつ傷んだのか分かりません」
昨日までなら、俺は点検の順番を決めて伝えていただろう。だが彼女は、言われた物を閉じるだけではなく、自分で判断したいと言っていた。
「分かった。君が封を見る間に、俺は馬具と車輪を調べる。そのあと、二人で荷を揺すろう」
「はい。それなら、見落としも減らせます」
御者台から、四十代の御者ボルクが太い眉を上げた。薬品輸送を担うだけあって、荷台の覆いも手綱も手入れが行き届いている。
「護衛同士で揉めたかと思ったら、もう終わりか」
「順番が違っただけです」
「決まったなら助かる。こいつらは腹を空かせると、俺より機嫌が悪いぞ」
御者ボルクは二頭の馬の首を順に叩いた。俺は腹帯へ指を差し込み、締まり具合を確かめる。留め具に割れはなく、蹄鉄も緩んでいない。
車軸には新しい油。左右の車輪を回しても、引っかかる音はなかった。
フィナは荷台へ上がり、封緘札を一枚ずつ光へ透かしていた。薬箱の留め金には、細い封の光が残っている。誰かが開けば崩れ、検品時に分かる仕組みだ。
「薬箱十二、包帯四、保存食八。封は全部残っています」
「荷綱を引く。札が擦れそうなら止めてくれ」
二人で木箱を揺すり、荷綱の張りを確かめた。最後に俺が覆いを結び、フィナが結び目の位置へ小さな封を置く。
別々の手順を押し通すより、ずっと早く終わった。
「出せます、ボルクさん」
フィナが自分から告げた。御者ボルクは満足そうに手綱を鳴らし、馬車を東へ向けた。
無所属になってから、初めて受ける護送だ。
荷と馬と御者、それにフィナ。守るものを数えるほど、肩の傷より胃の奥が重くなる。今度は組織の誰かが後ろを埋めてはくれない。
それでも、何をするかは自分で選べる。
昼を過ぎる頃、街道脇の林から鳥の声が消えた。
俺は馬車の先へ出て、片手を上げた。御者ボルクがすぐに手綱を引き、二頭の馬を歩かせる。
「何かいますか」
荷台から降りたフィナが、声を落として尋ねた。
「まだ見えない。ただ、さっきまで鳴いていた鳥が一斉に黙った」
街道の柔らかい土には、犬に似た足跡が残っていた。一体や二体ではない。草むらの奥では、小動物の骨に肉が残ったまま捨てられている。
「群れが近い。食べ切る前に離れたなら、俺たちへ気づいた可能性がある」
「でも、この足跡は街道から林へ向いています」
フィナはしゃがまず、先に荷台を見た。馬車が止まったあとも、覆いの下で封緘札が小さく揺れている。
「風は止まっています。それなのに、右側の札だけ揺れています。荷台の陰を、何かが通ったのかもしれません」
俺は馬車の反対側へ回った。荷台のすぐ脇、車輪の跡へ重なるように、新しい足跡が一つだけある。向きは林から街道だ。
「……引き返した跡じゃない。左右から近づいてる。見立てを直す。こいつらは逃げたんじゃなく、囲む位置へ移った」
「私も、周りを見ます。封を守るだけではなく」
フィナは指先を握り、俺をまっすぐ見た。
「指示されるだけでなく、自分で封じる場所を判断したいです。危険を見つけたら、先に提案してもいいですか」
「もちろんだ。俺に見えないものを、今も一つ見つけた」
答えると、フィナの肩から少しだけ力が抜けた。
前方には、岩山を削った切通しがある。道幅は馬車一台半ほど。左右を崖に挟まれるが、背の高い草むらから襲われ続けるよりは、来る向きを絞れる。
「切通しへ入る。抜けるまでは走らせず、馬の息を残してくれ」
「囲まれてるなら、止まる方が危ねえ。だが先で走るためだな?」
御者ボルクの確認にうなずく。
「襲われたら、馬車を岩壁側へ寄せます。荷台を盾にして、反対側だけ守る」
「荷を捨てて馬だけ逃がす気はねえぞ」
「捨てません。同じ荷を守るために来たんです」
御者ボルクは歯を見せて笑い、二頭を切通しへ進ませた。
笑い声が岩壁へ返った直後、前方の岩棚から灰色の影が飛び降りた。
後ろでも爪が石をかく。
群れ魔物《街道狼》だ。単体ならEランク相当でも、八体で獲物を追い込む群れはDランク相当の脅威になる。
数えた影は、ちょうど八つ。
俺一人では、正面から押し返せない。
「右へ寄せろ!」
御者ボルクが手綱を打った。二頭が一気に駆け、馬車は岩壁ぎりぎりへ滑り込む。車輪が石へぶつかって跳ねたが、御者ボルクは荷を捨てず、馬を走らせて狙った位置へ運び切った。
これで狼が飛び込めるのは左側だけだ。前には、馬車が向きを変えず抜けられる道も残っている。
「フィナ、荷台の前へ! 馬を狙うやつを止めてくれ!」
短弓を構え、一番近い群れ魔物の街道狼へ矢を放つ。肩へ刺さっても、勢いは止まらない。前脚を低く沈め、こちらへ跳ぼうとした。
「レクトさん、前脚の関節を封じます! それと、鼻を」
フィナの声が飛んだ。
「鼻?」
「群れ魔物の街道狼は馬と薬の匂いを追っています。全部の感覚は無理でも、嗅覚だけなら小さく封じられます。飛びかかる個体は前脚、回り込む個体は鼻を止めたいです」
昨日は俺が封じる場所を示した。今は彼女が、敵の動きから自分で選んでいる。
「その案で行く! 前脚を先に、鼻は次だ!」
フィナの光が、跳びかけた街道狼の左前脚の関節へ巻きつく。伸ばせなくなった脚が石へ引っかかり、灰色の身体が横倒しになった。
俺は矢をつがえず、石を拾って別の一体へ投げる。馬の後ろへ回りかけた鼻先へ光が閉じ、狼は急に獲物を見失ったように頭を振った。
「効いています。匂いを追えていません!」
「次は左の前脚だ。跳ぶ方だけでいい!」
俺が矢で牽制し、フィナが前脚か鼻の一部だけを封じる。大きな力ではない。それでも、飛び込む瞬間を一度ずらせれば、短弓で退ける間ができた。
不思議なほど、声を重ねる前に互いの狙いが合う。
だが群れは止まらない。馬車の左前方にいた三体が矢と封を受ける間に、その後ろの四体が街道の前後へ散った。
最後の一体だけは、岩棚から動いていない。
他より一回り大きい。耳の裂けた頭目が、こちらの手札を見ている。
「頭目を倒せば、群れは退くはずだ」
「近づいてきません。どうしますか」
引き離す役が要る。
前衛が馬車を守り、誘導役が頭目だけを釣り出す。だがここにいるのは、正面戦闘に向かない俺と、接近されたら脆いフィナ、それに手綱を離せない御者だけだ。
空いた役を、また自分で埋めるしかない。
そう考えた瞬間、昨日と同じ感情のない声が、俺の内側で鳴った。
『不足役割を確認』
短い沈黙のあと、冷たい言葉が続く。
『《欠員代行》解放』
『代行役割、誘導。一役。制限時間、十分』
意味を問う暇もなかった。
短弓の間合い、投げられる石の重さ、岩壁の足場、俺が跳べる距離。知っていたはずの情報が、頭目を引き出す一つの道筋へまとまっていく。
新しい剣技を得たわけではない。魔力が増えたわけでもない。
ただ、今あるものを誘導役として使う順番だけが、異様なほど鮮明だった。
「レクトさん?」
「頭目を引き出す。フィナは馬車の前を守ってくれ」
「一人で行くんですか」
「頭目が下りたら戻る。顎の根元を狙えるようにしてくれ」
フィナは俺と頭目を見比べた。次に、噛みつこうと開かれた街道狼の顎へ目を止める。
「分かりました。左右を別々に封じます。近づけすぎないでください」
「任せる」
俺は岩壁へ駆けた。
突き出た石を踏み、軽業で人の背丈ほどを上る。追ってきた一体へ小石を投げ、鼻先をそらす。頭目へは短弓の矢を放ち、耳の裂け目だけを浅くかすめた。
頭目が低く唸る。
二本目は前脚の手前。三本目は頭目の背後、岩棚へ戻る退路へ射ち込み、俺が逃げる方向を見せる。傷を負わせるためではない。追えば届くと思わせるための矢だ。
岩棚から、頭目が跳んだ。
俺は壁を蹴り、馬車とは反対へ走る。他の街道狼が続こうとしたところへ石を投げ、進路を狭い岩の間へ寄せた。一体ずつしか通れず、頭目だけが先へ出る。
「今です!」
フィナの声に合わせて身を沈める。頭上を飛び越えた頭目が、着地と同時に振り向いた。
その鼻先へ投げ針を放つ。首を振った一瞬に踏み込み、噛みつきを誘う。
開いた顎の左右へ、二本の光が走った。
「顎の根元、封じます!」
閉じる直前の顎が止まる。
俺は短剣《灰羽》を抜き、耳の裂け目から刃を差し込んだ。頭目が身体を振る前に柄を押し込み、すぐ横へ転がる。
巨体が二歩よろめき、石の上へ倒れた。
一拍遅れて、残る街道狼が足を止める。倒れた頭目の匂いを確かめるように鼻を動かし、やがて一体ずつ岩場へ退いた。
「追わない。荷と馬を確認する!」
立とうとして、膝が石へ落ちた。
視界の端が暗い。矢筒へ戻そうとした右手は狙いを外し、空を二度つかんだ。頭の奥へ細い針を何本も刺されたような痛みが走る。
制限時間の十分どころか、数分しか使っていないはずだ。それでも、考えるだけで吐き気がした。
「怪我ですか」
駆け寄ったフィナが、俺の腕を取る。
「噛まれてない。集中しすぎただけだ」
嘘ではない。だが、《欠員代行》の名は口にしなかった。
仕組みも分からず、次に使えるかも分からない。昨日得た力との関係さえ不明なものを、彼女へ説明する言葉がなかった。
「少し座れば動ける。それより封と馬を」
「封は見ます。レクトさんは、立てるようになってから馬を見てください」
指示ではなく、フィナ自身の判断だった。
「……分かった。そうしてくれ」
荷台の封緘札はすべて残り、箱の破損もない。二頭の馬は怯えていたが、脚を痛めてはいなかった。
荷と馬の無事を確かめてから、倒れた頭目の裂けた耳を一片だけ切り取り、ギルド提出用の狼素材として布に包んだ。
御者ボルクが馬の首を撫で、深く息を吐く。
「荷を捨てずに済んだ。あんたら二人のおかげだ」
「三人です。ボルクさんが狙った位置まで馬車を走らせてくれたから、片側を守れました」
俺が答えると、御者ボルクは照れたように鼻を鳴らした。
荷は一つも失っていない。
胸の奥に残ったのは、謎の声への不安だけではなかった。フィナが選んだ封を俺が採用し、彼女が作った一瞬を俺が使った。
俺たちは命令する側と、される側ではなかった。
日が落ちる前に切通しを離れ、街道脇の野営地へ入った。
火にかけた鍋では、保存食の豆と干し肉が煮えている。御者ボルクが塩を一つまみ落とすと、温かい匂いが冷えた空気へ広がった。
「輸送分には手をつけてねえぞ。これは俺の食料だ」
「封も確認しました」
真顔で答えたフィナに、御者ボルクが声を上げて笑う。
黒パンを浸した豆のスープは、昼から何も受けつけなかった胃へゆっくり落ちた。指先の震えも、椀の熱に触れてようやく収まっていく。
「レクトさん」
向かいに座ったフィナが、椀を両手で包んでいた。
「到着したあとも、次の仕事を一緒にできますか」
仲間になってほしい、という言葉ではない。俺も、その一言だけで先の暮らしを預けるつもりはなかった。
「まずセレスティアへ着いて、荷を検品してもらう。そのあと、契約と経費と報酬を決めよう。やめたい時のことも含めて、二人が納得できる形なら次を探せる」
「はい。今日みたいに、先に確かめてから決めたいです」
フィナは少し笑い、もう一口スープを飲んだ。
正式な仲間ではない。互いに知らないことも多い。
それでも、次の仕事について話せる相手が火の向こうにいる。三日前には空だった予定が、今は城塞交易都市セレスティアの門まで続いていた。
明日、完遂金を受け取れたら寝床を探す。その次に、受ける仕事を自分たちで選ぶ。
温かい椀を持ちながら考えるだけで、今夜は十分だった。
◇
翌朝、俺たちは城塞交易都市セレスティアの外壁を望む場所まで来た。
高い城壁と門前の馬車列が、朝靄の向こうに見える。荷の検品は門を入ったあとだ。御者ボルクは列の最後尾を目指し、馬をゆっくり歩かせていた。
「止めてください」
街道の端に残る傷を見つけ、俺は御者台へ声をかけた。
土をえぐる爪痕は、昨日の街道狼より深い。爪同士の間隔も広く、切通しで見たどの個体とも合わなかった。
そばには、黒く硬い殻の欠片が落ちている。拾い上げると、内側には乾いた薄膜が貼りついていた。
「これ……昨日、中継所で見たものと似ています」
フィナが声を潜める。
「《鎧殻鎌虫》の卵殻片だ。だが、ここで孵ったとは限らない」
爪痕を残したものと卵殻片が同じ原因とも限らない。分かるのは、街道狼とは別の何かが、この道を通ったことだけだ。
「街道の異常として、ギルドへ報告しましょう」
「そうしよう。今は荷を先に届ける」
卵殻片を布で包み、背負い袋へ入れる。
御者ボルクが再び馬を進ませた。薬も包帯も保存食も、荷台にすべて残っている。
原因の分からない爪痕を背に、俺たちはセレスティアの門へ入った。
《欠員代行》を解放(詳細未検証)。街道狼の頭目の討伐証明を確保。




