第1話 役に立たない仕事なら
「右後脚を封じろ!」
俺の声を追うように、黒い鎌が木箱を叩き割った。
金属を引き裂く音が、冒険者ギルドの街道中継所にある物資庫を揺らす。
フォルディア王国東部の地方商業都市ラステアと、同じ王国の城塞交易都市セレスティアを結ぶ旅人と積み荷の休憩所だ。
砕けた木箱から鉱石がこぼれる。その向こうで、馬ほどの黒い虫が六本の脚を広げていた。
鉱石荷に卵が紛れ込んでいたらしい。
孵化したのは未成熟の《鎧殻鎌虫》。
成体なら硬い外殻と二本の鎌で前衛を切り裂く魔物だ。
未成熟でも安全ではない。
「右後脚って……どれですか」
荷箱の陰から声が返る。
輸送品の封を点検して暮らすFランク《封緘術士》、フィナ・ルーゼル。
床に座り込み、裂けた作業着の膝を押さえている。
逃げ道は鎌虫の向こう側。
握った右手には、封を作るための淡い光が震えていた。
「君から見て奥。床を蹴る前に、関節が沈んだ脚だ」
「脚を、封じるんですか?」
荷箱の陰のフィナが戸惑うのも当然だった。
封緘術士が普段扱うのは、荷箱や書類、鍵の封だ。魔物の脚を止めるための職業ではない。
「一本全部じゃない。真ん中の関節だけでいい」
「でも、関節は蓋でも鍵でもありません」
「曲げた脚が伸びるところを、箱が開くのと同じだと考えられないか。今の形から動かないようにする」
「そんな使い方、教わったことが……」
「そこを止めたら、倒せるんですか」
見知らぬ男が叫んだだけで、命を預ける理由にはならない。正しい問いだった。
「倒せない。まず突進を崩す。その隙に左の棚沿いを走れば、扉まで行ける」
「あなたは?」
「正面から注意を引く」
「……囮になるんですか」
「俺は避け方を知ってる。君が逃げる方が先だ」
嘘ではない。避け方を知っているだけで、避けきれるとは言っていない。
鎌虫が頭部を低くした。二本の鎌が左右へ開き、中脚が床を引っかく。もう待てない。
「成功は断言できない。無理なら言ってくれ」
逃げ場のないフィナは鎌虫の脚を見た。
次に、自分の手に灯る光を見た。唇を噛み、怯えを飲み込む。
「……荷箱一つではなく、留め金一つを閉じるつもりなら。たぶん」
「でも、逃げるかどうかは私が決めます」
「分かった」
「やります。右後脚を封じます」
その返事を聞いて、俺は物資庫へ踏み込んだ。腰の投げ針を抜き、複眼へ放る。
針は硬い縁に弾かれたが、鎌虫の頭はこちらを向いた。
鋸のような顎が耳障りな音を立てる。
俺はレクト・フォルン。十九歳、Dランクのスカウト。
三日前までは、地方商業都市ラステアのクランで、斥候と名簿に載らない調整役を兼ねていた。
今は所属すらない。
それでも扉の外から助けを呼んでいたら、フィナの身体は次の一撃で二つになる。
鎌虫の頭が沈む。左中脚が外へ開く。
来る。
「今だ!」
俺の声と同時に、フィナの指先から光が走った。淡い光は右後脚の半ばまで広がり――薄くなった。
「広すぎる! 留め金一つだ!」
「真ん中の、沈むところ……!」
散りかけた光が細く絞られる。脚の関節だけを、淡い輪が縛った。
鎌虫は踏み込みに失敗した。右へ傾いた巨体が木箱へ衝突し、振られた鎌が俺の鼻先を通り過ぎる。
「止まった……本当に、脚にも」
「見事だ。棚に沿って走れ!」
フィナが立ち上がる。だが一歩だけ動いたところで、鎌虫が封じられていない脚を床に突き立てた。
巨体を強引に回し、逃げるフィナへ顎を向ける。
右後脚だけでは足りない。俺は短弓を開きながら叫んだ。
「顎の根元を封じられるか!」
「顎全部ではなく?」
「開閉する二か所だけだ。蝶番みたいなくぼみがある!」
「二か所を別々に封じるんですか?」
「そうだ。大きな封を一つ作るより小さく済む!」
フィナは逃げ足を止めなかった。棚の陰へ回りながら鎌虫を見ている。
「右は……たぶん、あれです。左は身体の陰です」
「俺が向きを変える。二つとも見えたら、届くかは君が決めろ!」
短弓から矢を放つ。初歩の風魔法で横から押し、矢筋をわずかに曲げた。矢は複眼を外れ、頭部の外殻に浅く刺さる。
作業台を挟んで半周。開いた顎の左右がフィナへさらされた。
「同じくぼみが二つ……見えました。届きます。封じます!」
二本の光が顎の根元へ巻きつく。噛み合う直前だった顎が半開きで止まった。
今度は俺が確認する暇もなかった。鎌虫が鎌を横へ薙ぎ、作業台ごと俺を刈ろうとする。
床へ伏せると、頭上で板が裂けた。その破片が肩を打ち、遅れて鎌の先が革鎧をかすめる。
熱い痛みが走ったが、腕は動く。
「出口へ!」
「でも、通路に出たら」
フィナは扉の向こうを見た。中継所の待合には、怪我で動けない旅人もいる。
物資庫から鎌虫が出れば、次に狙われるのは彼らだ。
彼女は出口ではなく、床に散った鉱石の上へ移動した。
「まだ封じられます。次はどこですか」
「魔力は残ってるのか」
「大きな封を作っていませんから。あと一度、細いものなら」
ここで戦うと、フィナ自身が決めた声だった。
「分かった。なら魔力核の外周だ」
鎌虫の腹は、黒い節が幾重にも重なっている。身体を動かすたび、三つ目の節の隙間から赤黒い光が脈打った。
「魔力核……赤く光っているところですか」
「そうだ。ただし、核そのものを止めるんじゃない。周りを輪にして、外殻へ力が流れる道を封じる」
「外周って、どこまでですか。核を直接封じた方が早くないですか」
「赤い中心を荷物だと思え。その周りにある暗い筋が、留め金だ。核は大きすぎて押し負ける。だが筋だけなら、君の細い封で止められる」
フィナは腹の節を見つめる。
「……中心ではなく、その周りの暗い筋」
フィナが自分へ言い聞かせるように繰り返す。
「でも、今は身体の下です。見えるのは、一瞬だけだと思います」
「俺がひっくり返す」
「そんなことができるんですか」
「できる形にはする」
これも嘘ではない。言い方が少しだけ卑怯なだけだ。
俺は左手で短弓を畳み、右手で短剣《灰羽》を抜く。
灰色にくすんだ刃を持つ、俺の手に馴染む軽い短剣だ。正面から外殻を断ち割る力はないが、節の隙間へ入れるには長剣よりいい。
鎌虫の右後脚を縛っていた封が揺らいだ。あれが解ければ、また突進できる。
「フィナ。三秒だけくれ」
「何を三秒ですか」
「俺があいつの腹を浮かせてから、君が外周へ封を閉じるまでだ」
「その三秒、あなたは?」
「鎌の下にいる」
フィナの顔が強張った。
「無茶です。見つけても、すぐに外周だと分からないかもしれません」
「なら、分からないまま撃たなくていい。三秒で足りなければ俺が退く。君は見極めることだけ考えろ」
フィナは赤黒い光が覗く節を見つめ、ゆっくりうなずいた。
「……分かりました。三秒は、私が封じるまでの猶予ですね」
「では、私は外周を見ます。届く場所か確かめて、封じるのは私の判断で」
「頼む」
俺は麻袋を蹴った。粉が舞い、鎌虫の複眼を覆う。
初歩の風を斜めから当て、粉塵を左側だけへ寄せる。視界を奪われた鎌虫は、見えている右側の俺へ身体をひねった。
一秒。
振り下ろされた鎌へ、壊れた木箱の蓋を斜めに当てる。受け止めず、滑らせる。蓋は紙のように裂けたが、鎌の先は床へ食い込んだ。
二秒。
食い込んだ鎌を足場にして、俺は巨体の脇へ滑り込む。封じられた右後脚側へ俺の体重が乗り、鎌虫の腹がわずかに浮いた。
三秒。
「見つけた!」
フィナの光が腹の下へ走る。赤黒い核を囲むように、細い輪が閉じた。
脈動が消える。鎌虫の外殻から濡れた艶が引き、持ち上がりかけた左の鎌が鈍った。
俺は灰羽を逆手に握る。薄く開いた三つ目の節へ刃を差し込み、柄まで押し込んだ。
硬い膜を一枚、二枚と越える。刃先に石を割ったような感触が返った。
赤い光が明滅し、消える。その瞬間、俺の内側で、ばらばらだった歯車が一斉に噛み合った。胸でも頭でもない場所を、冷たいものが走る。
何かを聞き取れそうだったが、鎌虫はまだ倒れていない。
「下がって!」
フィナの声に従い、灰羽を抜いて転がる。
鎌虫は最後に棚を削り、六本の脚を折った。巨体が床へ沈んだ。
短弓を構え直して十を数える。どこも動かない。
「……終わった」
声にした途端、足から力が抜けそうになった。
物資庫を満たしたのは、俺とフィナの荒い息だけだった。
やがて、誰にも聞こえない無機質な声が俺の内側で鳴った。
『転職条件の達成』
抑揚も、祝う気配もない。
『《戦団調律士》Lv.50から上位転職開始』
長く聞いていなかった、職のお告げだ。
『《統合指揮官》解放』
『《最適編成》獲得』
それきり、職のお告げは途絶えた。
「……なんだ、それ」
問い返しても何も答えない。
前世で業務システムの導入を手伝っていた頃、古い端末がこんな警告音声を出した。人間の都合など知らず、処理結果だけを告げる声だ。懐かしさより、気味の悪さが先に立った。
俺の職業は《戦団調律士》だった。伸びしろのない職業。
戦える技能も増えない、編成表を整えるだけの外れ。
Lv.50まで上げても、その先はない。
鑑定板でも、ギルドの職業目録でも、上位転職先は空欄だった。
職のお告げが口にした《統合指揮官》は、聞き間違いでは済まないほど明瞭だった。
続けて告げられた《最適編成》も不気味だった。
編成するのは人間だ。もし他人の判断や感情へ触れる技能なら、試してから謝れば済むものではない。
聞き直しても返事はない。
鑑定板もなく、転職したと断定できない。
「レクトさん」
フィナが、少し離れたところに立っていた。新職の名も、技能の名も、喉の手前で止めた。
初対面の相手へ正体不明の力は明かせない。
まして彼女に影響するかもしれない技能だ。確かめるまでは、誰にも言わない。
「急に黙って、どうしました?」
「……少し疲れたみたいだ。肩も思ったより切れてる。悪いけど、少し休ませてくれ」
肩を押さえると、指の間へ血がにじんだ。嘘ではない。
「座ってください。管理人さんを呼びます」
フィナは追及せず、倒れた鎌虫の脚を避けて出口へ向かった。
戦いで動きが噛み合ったのも、フィナが聞き返し、理解したうえで引き受けたからだ。少なくとも今は、そう考えるべきだった。
フィナはもう一度、黒く沈んだ核を見る。
「私の職業でも、役に立った」
「ああ。君が外周を止めなければ、俺の短剣は核まで届かなかった」
「言われたままでは、まだ中心へ封をぶつけていたと思います」
「それでも最後に見分けて、封じると決めたのは君だ」
フィナは倒れた鎌虫と、自分の指先を交互に見た。
「役に立たない仕事なんて言わせないだけの結果は、鎌虫の殻になって床に転がってる」
口にした自分の言葉が、胸に引っかかった。同じことを、三日前の俺にも言ってやれたなら。
◇
三日前。
ラステアを拠点にする地方中堅クラン《鉄樹の環》で、俺の朝は遠征予定表を見るところから始まった。
その日の北採取班には、新人二人が入っていた。
依頼は森の外縁で薬草を摘むだけ。危険度は低い。
けれど前夜の雨で、通常の帰路に使う浅瀬が増水していた。
「帰りは東の林道を使ってください」
出発前、俺は班長へ予備地図を渡した。
「遠回りだろ。日があるうちに浅瀬を渡ればいい」
「新人は荷を背負って水を渡った経験がありません。薬草籠で両手も空かない。東の道なら半刻延びますが、荷車を合流所へ回せます」
「荷車は南の討伐班が使うはずだ」
「出発を半刻早めてもらいました。帰還時刻は重なりません」
治癒士にも声をかけてある。採取班が戻る頃には南班の治療を終え、東の合流所で交代できる。
薬草籠の積み替え役も一人増やした。
どれも小さな変更だった。誰かが剣を振る必要もなく、奇跡の治療もいらない。
その日の夕方、森では予定より早く雨が降った。増水した浅瀬を避けた採取班は、怪我人を出さずに戻った。
荷車へ薬草を積み替えた新人は、重さで足を取られることもなかった。
「助かったよ、レクト。あの水じゃ渡れなかった」
班長が濡れた髪を拭きながら言った。
「薬草も傷んでない。荷車がちょうど来てくれたんだ」
「それは良かった」
報告書には、依頼達成とだけ記された。
同じ紙の上段では、南班が討伐した牙猪の数と、最後の一撃を入れた前衛の名が大きく書かれていた。
事故が起きなかった理由を書く欄はない。俺はいつものように報告書を閉じ、翌日の予定表を開いた。
前世でも似たようなものだった。
業務システムの導入日が滞りなく終われば、評価されるのは新しい仕組みだ。部署同士の要望がぶつからないよう順番を変えた人間や、誰もいない時間に台帳を直した人間の名は残らない。
それでも、誰かが困らないなら意味はある。俺はそう思っていた。
「レクトさん、少しいいですか」
予定表を閉じる前に、小柄な少女が二枚の遠征票を抱えてやって来た。《鉄樹の環》の新人Eランク治癒士、ニナ・エルク。
治癒の腕は堅実だが、先輩から頼まれると断れないところがある。
「明後日のことなんですけど、私、北西の討伐班と東の護送班、両方に名前があって」
差し出された紙を並べる。出発時刻は違う。だが北西班の帰還予定と、東班が危険地帯へ入る時刻が重なっていた。
「どちらかに断る連絡は?」
「東班へ入ったあとで、《鉄樹の環》のCランク若手班長、ダリオ・ケインさんから指名されました。『戻ってから合流すればいい』って」
「この予定じゃ間に合わない」
北西班の撤退路は、荷車が一台ずつしか通れない狭路だ。しかも東班が使う輸送路と途中で交差している。
二班は同じ荷車まで押さえていた。
俺は地図を広げ、時刻を書き込む。
「東班を一刻早く出す。ニナは薬を合流所へ置いて、危険地帯へ入る前に離脱。北西班は帰りの荷車を南路から回す」
「それなら、両方に行けますか」
「行ける。ただし君が走って埋め合わせる計画にはしない。東班の帰りの治療は、待機の治癒士と交代してもらう」
ニナの顔から緊張が抜けた。
「よかった……。どちらかを見捨てることになるかと思いました」
「最初から一人で二班を背負わせた方がおかしい」
「その予定、待て」
声とともに、地図の上へ手が置かれた。若手Cランク班長のダリオは、大剣を使う前衛で、昨季だけでも格上を含む討伐依頼を何件も成功させている。
戦闘実績は本物だ。だからこそ、自分の班が現場へ出るまでの遅さに我慢がならないのだろう。
「東班を早めるために倉庫番を呼び戻して、待機治癒士の勤務も変えるのか。大げさだ」
「ニナ一人へ重なった仕事を戻すだけだ。それに同じ荷車を二班で使う予定になってる」
「北西の帰りは空荷だ。二人で押せば荷車なしでも歩ける」
「負傷者が出たら?」
「出さないように戦う」
ダリオは本気でそう言っている。実際、彼の班は正面戦闘で負傷者が少ない。
安全策を一つ増やすたびに準備が遅れ、受けられる依頼が減る。それが彼には、成果を出せない人間の言い訳に見えるのかもしれない。
「負傷者を出すつもりで出発する班はいない。でも出たときに帰れない計画へ印は押せない」
「お前はいつもそうだ。悪い場合を増やして、全員を遅らせる」
「悪い場合を一つ消すために、順番を変えてる」
「それで討伐数が増えたのか?」
問いに、すぐ答えられなかった。俺が組み替えた予定で、討伐数が直接増えた記録はない。
壊れなかった荷車。
間に合った治療。
通らなかった増水路。すべて、数字の上では何も起きていない。
ダリオは地図から手を離した。
「調整なんて、予定表を埋めるだけだろ。現場の判断は班長に任せろ」
「ダリオさん」
ニナが遠慮がちに口を挟んだ。
「私は、レクトさんの案がいいです。どちらの班にも迷惑をかけたくないので」
「お前を責めてるわけじゃない。指揮系統の話だ」
ダリオは遠征票を持って立ち去った。ニナは不安そうに俺を見る。
「私、余計なことを言いましたか」
「いや。希望を言ってくれた方が組みやすい。あとは俺が遠征統括へ持っていく」
そう言った時点では、いつもの意見違いだと思っていた。
翌朝、全員を集めた会議で制度変更が発表された。
「今季の遠征収益は、目標を一割下回った」
壇上に立つのは、《鉄樹の環》の遠征統括、バルガス・ローデン。組織内ナンバー3であり、複数班の依頼選定と損益に責任を負う男だ。
彼は感情で誰かを叱ることは少ない。代わりに、数字と責任の所在を必ず示す。
「依頼の承認に時間がかかり、現場班長の決定が覆される例も増えている。本日から各班の自主管理制へ移行する」
ざわめく部屋へ、クランの遠征統括バルガスは続けた。
「班長が人員、経路、物資を管理する。実績を持つ者へ権限と責任を戻すためだ。正式な役職を持たない者による横断調整は廃止する」
何人かの視線が俺へ向いた。
斥候としての席は残る。だが、これまで出ていた調整手当はなくなり、班をまたいで予定へ触る権限も消える。
ダリオの言い分には合理性があった。
バルガスの改革にも、収益を戻す責任がある。
俺一人が邪魔をしているなら、外した方が速い。
問題は、同じ治癒士と輸送路が、外しただけでは二つに増えないことだった。
その日の夕方、新体制最初の計画書が回ってきた。北西班と東班の両方に、ニナの名がある。
同じ時間、同じ狭路へ、二班の荷車が入る。俺は計画書を持って遠征統括室へ向かった。
「重複があります」
机の向こうで、バルガスは収支表から顔を上げた。
「各班長からは、現場で調整可能と報告を受けている」
「北西班が負傷者を出せば、狭路で東班の荷車と詰まります。治癒士も両方には行けません」
「だからこそ、明日の出発を止めないために代用の承認印が要る。お前は各班の動きを把握している。確認者として押せ」
机に、小さな印章と計画書が置かれた。横断調整は廃止した。だが、問題が残った計画へ、事情を知る俺の印だけは欲しい。
「俺には、もう調整の権限がありません」
「変更を命じているのではない。現状を確認した印だ」
「確認した結果、危険だと言っています。これに承認印の代用はできません」
バルガスは黙って俺を見た。
「レクト。私は、お前が五年働いたことを否定していない」
「なら、あと半刻ください。荷車を一台ずらして、ニナの交代を――」
「その判断を班長の外から出せば、自主管理制は初日で形骸化する」
バルガスの声は静かだった。
「組織は、一人の善意に頼って動かしてはならない。お前が無断で埋めてきた穴があるほど、正式な責任者は育たない」
痛いところを突かれた。俺は頼まれるたび、空いた役を埋めた。必要だからと予定を直し、誰の仕事かを決めないまま、自分の仕事にした。
「では、正式な責任者へ戻してください。このまま印だけ押すことはできません」
「拒否するなら、指揮命令へ従えないという記録になる」
「事故が起きると分かっている計画を承認するよりは」
答えは変えられなかった。結果も、すぐに出た。
Dランクの一般構成員である俺と、実績を持つCランク班長。数字と指揮系統を維持するなら、どちらを残すべきか。
バルガスにとっては、責任ある選択だったのだと思う。
その日のうちに所属契約が解除された。事務担当から、七日分の基礎報酬が入った小袋を渡される。
契約に定められた額で、不払いはなかった。
対外上の扱いは、組織改革に伴う自主退団。
「今夜中に寮の鍵を返してください」
「今夜?」
「契約者以外を泊める規則がありません。申し訳ないですが」
事務担当は何度も頭を下げた。悪意がないことが、かえって逃げ道をなくした。
五年使った部屋へ戻る。ベッドの下から替えの靴を出す。壁に掛けた外套を畳む。
武器の手入れ道具、着替え二組、前世の記憶を頼りに作った計算用の木札。全部、背負い袋一つに収まった。
隣の寝台は空いている。同室の仲間は北の長期遠征中だった。
廊下の向こうにも、事情を話したかった顔がいくつもある。けれど主力の多くは出払っている。戻る頃には、俺は自主的に去った人間として伝わっているだろう。
机の引き出しに、古い予定帳が残っていた。五年分の時刻、経路、交代要員。
誰が夜明けに弱いか。
誰と誰を組ませると歩調が合うか。
ニナが初めて治癒を成功させた日。
ダリオが負傷者を背負い、予定より早く山を下りた日。
報告書にない働きを残したくて、自分だけが読める印で書いてきた帳面だ。明日からは、何の役にも立たない。
捨てようとして、できなかった。背負い袋のいちばん奥へ押し込む。
袋を持ち上げると、驚くほど軽かった。
地位を失った。
定収入を失った。
部屋を失った。
戻ってくる仲間へ、自分の口で説明する機会も失った。
それ以上に、翌朝にする仕事が一つもないことが苦しかった。
寮の扉を閉め、鍵を返す。門を出たとき、誰からも呼び止められなかった。
◇
「レクトさん。肩、血が増えています」
フィナの声で、俺は三日前から現在へ引き戻された。
中継所の管理人が、物資庫の入口から顔を出している。鎌虫が動かないと確かめると、ようやく人が集まってきた。
肩の傷は深くなかった。洗った布を当て、最低限の傷薬を塗ってもらう。薬はしみたが、腕が動くなら十分だ。
「混入経路を調べたい。殻は中継所へ残してもらうが、討伐報酬として銀貨二枚を出す」
管理人が卓上へ銀貨を置いた。
さらに、厨房から湯気の立つ豆の煮込みと黒パンが運ばれてくる。
「食事も付ける。二人が止めなければ、備蓄ごと中継所を失っていた」
銀貨二枚。安宿なら数日。
肩の薬と、擦り減った靴の修繕にも使える。
三日前にもらった七日分の基礎報酬より少ない。それなのに、自分で選んで得た銀貨は、掌でずっと重かった。
煮込みを半分ほど食べたところで、向かいに座ったフィナが口を開く。
「私、レクトさんを探していたんです」
「俺を?」
「昨日、御者の方が護衛を探していました。同じフォルディア王国東部の城塞交易都市セレスティアへ、薬と保存食を運ぶ馬車です。私も封の点検役として同席する話になっていて」
フィナは依頼票を卓上へ置いた。御者ボルクの名と、翌朝出発の時刻がある。
「中継所の方に、無所属になったDランクの斥候が泊まっていると聞きました。声をかけるつもりで物資庫を通ったら、あれが孵って」
「どうして俺を?」
フィナは少し迷った。
「一人で護送へ行くのが怖かったからです。でも今は、理由が少し変わりました」
彼女は両手を膝の上で組む。
「私は封を守るだけの人でいいと思っていました。戦えないのだから、言われた場所で言われた物を閉じるしかないと」
指先に残る淡い光を見つめる。
「今日、自分で封じると決めて、鎌虫を止められました。もう一度、自分で選んで使えるか確かめたいんです」
「俺の指示があれば、という話じゃなく?」
「指示は欲しいです。私に見えないものを、レクトさんは見ていたから。でも、従うかどうかも、どこを封じるかも、一緒に考えたいです」
即席の共闘が、一生の信頼へ変わるわけではない。俺も彼女のことを、精密な封ができるという以上には知らない。
フィナも、俺が三日前に追放された理由を知らない。
「依頼の条件は?」
「到着後の検品で完遂金。途中で荷を失えば減額です。詳しい分配は、御者のボルクさんと確認が必要です」
「なら、今ここでは決めない方がいい」
依頼票を彼女側へ戻す。
「明日の朝、ボルクさんと荷、経路、報酬を確認する。君も封の条件を確認する。それで二人とも納得できたら受けよう」
「……はい。それがいいです」
フィナは少しだけ息を緩めた。
仲間になってくれと言われたわけではない。俺も、守ると約束したわけではない。互いに敬語のまま、間を残している。
それでも翌朝、確認する仕事ができた。
三日前、俺の予定帳から消えた明日の欄へ、初めて新しい予定が一つ入った。
《統合指揮官》《最適編成》を獲得(詳細未確認)。
討伐報酬:銀貨2枚。




