表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

PR
11/14

第11話 成功だけを報酬にしない

 工房の炉にかけた鍋から、青臭い湯気が立った。


 夜半を過ぎても、盗賊蜂に刺された水路保守員の腫れは止まっていない。首筋から肩へ広がった赤黒い腫れを、俺――レクトは記録用の紙へ写し取った。


 向かいの椅子では、同じ毒針を受けた調薬師のリゼが左腕を作業台へ載せている。こちらは肘の手前で赤みが止まっているものの、指先の震えが残っていた。


「沸かしすぎないでください。泡が細かくなったら、火から外します」


 リゼの指示を受け、ガレンが薪を一本抜いた。


 フィナは採取籠から選り分けた下級薬草を刻む。


 俺は鍋を火から下ろした時刻を書いた。


 下級薬草を用いた解毒薬の試作品。採取してから時間の経っていない葉を使えても、盗賊蜂の毒すべてに効くと確かめられた薬ではない。


「同じ群れの毒でも、刺された深さと場所が違います。体に入った量も同じではありません」


 リゼは保守員の瞳を確かめ、次に自分の左手を握って開いた。


「だから、一つの鍋から同じ量を飲ませて終わりにはできません。保守員さんには小匙一杯。私は半匙。その後、一刻は追加せず、四半刻ごとに二人を見てください」


「見る項目は?」


「傷の周りの赤み、腫れの端、指先の震え、息苦しさ、吐き気。それと、薬を飲んだ後に増えた症状です」


 効いたかどうかだけでは足りない。毒が進んだのか、薬が合わなかったのか、それを分けるための観察が要る。


 俺は紙の中央へ線を引き、保守員とリゼの欄を分けた。


「俺が時刻と症状を書く。フィナは二人の呼吸と顔色。ガレンは湯と炉を頼む。リゼは調薬の判断だけに集中して、自分の症状も隠さない」


「私も動けます」


「動けるかどうかを確かめる夜だ。患者が調薬師を兼ねる以上、作業は減らす」


 リゼは言い返しかけたが、震えた指先を見て口を閉じた。


「……分かりました。では、最初の一刻は立ちません」


 フィナが薄茶色の薬液を二つの器へ量り分ける。保守員には小匙一杯、リゼには半匙。


 俺は量と投薬時刻を書いてから、二人が飲むのを見届けた。


 すぐには、何も変わらなかった。


 四半刻後、保守員の腫れは肩の手前で広がり続けていた。


 リゼの赤みは止まっていたが、指先の震えに変化はない。


「効いてないのか?」


 湯を運んできたガレンが、声を低くした。


「まだ決めないでください」


 リゼは保守員の息を数えながら答えた。


「早く追加すれば、効かなかったのか、量を重ねたせいで悪くなったのか分からなくなります。一刻、待ちます」


 待つことは、何もしないことではなかった。


 フィナが四半刻ごとに二人の名を呼び、返事の速さを確かめる。


 ガレンは保守員が震えれば毛布を足し、眠り込みそうになれば肩を叩いた。


 俺は観察した事実と、まだ判断できないことを別の欄へ書き続けた。


 半刻を過ぎた頃、リゼが口元を押さえた。


「吐き気ですか」


「少し。それと、舌に苦みが残っています。毒を受ける前にはなかったので、副作用の欄へ」


 自分の不調を、彼女は失敗のように隠さなかった。


 保守員には強い寒気が出ていた。毒のせいか、薬のせいかは決められない。俺は原因を断定せず、起きた時刻と程度だけを書く。


 記録の上端には、試作を打ち切る条件も先に並べた。呼吸が浅くなる。腫れが再び広がる。呼びかけへの反応が鈍る。どれか一つでも起きたら追加投薬はせず、朝を待たず別の治療先へ運ぶ。


「効いた目印より、止める目印を先に書くんですね」


 記録を読み上げたフィナに、リゼが頷いた。


「良くなる形は、人によって違います。でも、続けてはいけない変化は全員で共有できます。私が判断できなくなっても、ここを見れば止められます」


 調薬師一人の勘だけにしないための記録だった。俺は三人にも中止条件を復唱してもらい、誰か一人が異変を見つければ試作を止めると決めた。


 一刻が過ぎた。


 リゼの腕の赤みは、線を引いた位置から指一本分だけ戻っていた。指先の震えも弱くなったが、吐き気があるため追加はしない。


 保守員の腫れは肩の手前で止まっていた。しかし、引いてはいない。呼吸は先ほどより深くなったものの、左脚にはまだ力が戻らなかった。


「進行を止めた可能性はあります。でも、治ったとは書けません」


 リゼは記録を読み返し、保守員の体格と刺し傷を見比べた。


「保守員さんだけ半匙を追加します。そこからもう一刻。腫れが再び広がるか、息苦しさが出たら、試作品だけでは足りないと判断してください」


「足りなかった場合は?」


「朝一番で、別の調薬師へ記録ごと渡します。ここで量を増やし続ける方が危険です」


 助けたいからこそ、試作品へ賭け続けない。その線をリゼは自分で引いた。


 俺は追加量と待機時間、その判断条件を紙へ残した。


 空が白み始める頃、保守員の首筋から肩にかけての赤黒い腫れが、首筋側からわずかに引いた。


 呼びかけへの返事は明瞭で、自分で湯を飲める。左脚はまだ痺れていたが、支えがあれば寝台の上で体勢を変えられた。


 リゼの指先の震えも消えていた。ただし、吐き気は薄く残っている。


「二人とも、毒の進行は止まったと見てよさそうです」


 リゼはそう言ってから、記録の最後へ一行加えた。


「でも、二人だけです。同じ薬草でも、採った時期や乾き方が変われば同じ結果になるとは限りません。今朝までは成功でも、再発しない保証もありません」


 保守員が枕から顔を上げた。


「あんたがいなきゃ、俺は水路の脇で……」


「救助したのは四人です。薬も、皆さんが持ち帰った材料で作りました」


 リゼはそこで言葉を切り、俺たち三人を見た。


「私は判断しただけです」


「その判断を、仕事として残す」


 俺は夜のうちに別紙へまとめた文書を作業台へ置いた。


 救助への礼でも、薬が効いた結果だけへの褒賞でもない。採取記録、試作、二人分の観察、失敗条件の報告までを一件の仕事とし、すべてを報酬の対象にするための記録だ。


「成功した時だけ払う形にすると、次は失敗を隠す理由になる。だから、効かなかった場合も、決めた手順と記録が残っていれば仕事として扱う」


 俺は試作記録の末尾を指した。


「『盗賊蜂の毒針傷二例に使用。用量と待機時間は記載の通り。副作用の疑いあり。別の個体、古い材料、重症者への効果は未確認』。これを削らず提出する」


 リゼは長い間、その一文を見ていた。


 成果だけを欲しがる相手なら、危険や失敗可能性は邪魔な情報になる。だが、それを消せば、次に薬を使う誰かが同じ危険を知らずに引き受ける。


「それと、もう一枚ある」


 俺は継続契約の案を開いた。


「加入するかは、これを読んでからリゼが決める。今、返事をする必要もない」


 文書には、先に三つの条件を書いた。


 調薬に使う材料費は、リゼ一人の持ち出しにせず共同経費とする。


 採取と試作の記録は、実際に判断したリゼ本人の名で残す。


 危険地帯では、調薬師として継続不能と判断した時に離脱を選べる。その判断を、臆病や依頼放棄として扱わない。


 リゼは一行ずつ読み、二枚の記録を並べた。


「私の名前で残すなら、失敗した薬にも私の名前が残ります」


「残る。成功だけをリゼの手柄にして、失敗だけ俺たちの記録から消すこともしない。材料費と依頼を引き受けた責任は、四人の側へ残す」


 名前を守るとは、都合のいい成果だけを飾ることではない。何を判断し、どこで止めたかまで、他人に奪わせないことだ。


「私が離脱を決めたら、採取の途中でもですか」


「理由と対象を記録する。現場で話せる余裕があれば全員で検討する。ただ、薬と患者を見て継続不能だと判断した時は、リゼの離脱を止めない」


「試作が失敗して、材料だけなくなっても?」


「手順と結果を残すことが条件だ。失敗そのものを借金にはしない」


 ガレンが炉の前で腕を組んだ。


「盾が割れたら、俺だけの借金にされても困るからな。道具も薬も、必要で使った分は同じだ」


「封緘紙も共同経費です」


 フィナが当然のように付け足すと、リゼの肩からわずかに力が抜けた。


「助けてもらった恩を返すためなら、断ります」


 彼女は契約案から目を上げた。


「でも、危険と失敗まで名前を残せる仕事なら、続けたいです。この内容を変えないと約束してくれるなら、私も皆さんと契約します」


「分かった。条件付きで、四人だ」


 俺は契約案を彼女の前へ戻し、返事を急かさず待った。


 リゼは自分で筆を持ち、契約案の末尾へ名前を書いた。


 その隣には、成功だけではない最初の仕事が残っている。


 朝日が工房の窓へ差し込んだ。保守員の呼吸をもう一度確かめてから、俺たちは次の観察時刻を決めた。


 夜は越えた。だが、薬も契約も、ここから記録を重ねていく。



 数日後、遠く離れた街で、《先見の勇者》ソウマ・カグラは一枚の報告書を読み返していた。


 放棄水路で盗賊蜂が出た。水路保守員一名と調薬師一名が刺されたが、二人とも生存。


 報告書の調薬師欄に記された名を見た瞬間、ソウマの指が止まった。


「……生きている?」


 盗賊蜂に襲われ、この時期に死ぬはずの調薬師だった。


 既知の筋と、結果が一つだけずれている。


 誰が助けたのかも、なぜ変わったのかも、報告書には書かれていなかった。


 ソウマは調薬師の名へ印をつけた。


 今はまだ、違和感を一つ記録するだけだった。

試作品:下級薬草の解毒薬

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ