第10話 五人分の撤退計画
背後で、羽音が重なった。
放棄水路を出たばかりの俺――レクトが振り返ると、黒と黄の影が斜面から流れ下り、石造りの出口と街道の間へ広がっていく。
盗賊蜂。毒針で獲物を弱らせ、蜜を群れで奪う魔獣だ。一匹ずつなら追い払えても、この数はDランク相当の群体脅威になる。
「水路へ戻れ。走るな」
俺たちは、たった今出てきた石の陰へ後退した。
採取籠を二つ抱えたフィナを水路側の石陰へ入れ、ガレンが大盾で出口を塞ぐ。
盾の縁を回り込もうとした一匹を、ガレンが外側へ弾いた。
「こいつら、奥にいた群れか?」
「全部じゃない。殲滅は考えるな。帰る道を作る」
出口の向こうでは、盗賊蜂の群れが低く渦を巻いていた。こちらを追って来たというより、何かの周囲へ集まっている。
蜂の隙間で、灰色の上着が動いた。
「人がいます!」
リゼが指した先に、成人の男が倒れていた。腰には水路保守員の道具帯があり、片手に詰まりを測る細長い棒を握っている。水路の確認へ入り、俺たちとは別の脇道から出てきたらしい。
男が身を起こそうとすると、左脚が崩れた。首筋には赤黒く腫れた毒針の痕がある。
「助けないと」
リゼが一歩出た。
「助ける。ただし、一人では行かせない」
俺は出口の形を見直した。外へ出た先は、崩れた石壁で左右二本の狭い通路に分かれている。右は街道へ、左は保守員が倒れている浅い排水溝へ続いていた。その先で二本は合流する。
正面から群れを抜こうとすれば、四人が一つの塊になる。採取籠を落とし、倒れた男を置いて逃げる形にしかならない。
「フィナ、二本の間にある崩れ口を封緘で部分封止できるか。密閉は要らない。蜂が一度に通れない幅まで絞ってくれ」
「できます。近くまで行ければ」
「ガレンは右へ出て、盾で群れを引く。俺は左から保守員へ向かう。追ってくる群れを二つに分けたら、フィナが間を絞る」
俺はリゼを見た。
「リゼは俺の後ろだ。保守員の状態を見て、動かせるか判断してくれ。無理なら俺が担ぐ」
「採取籠は?」
「フィナが二つとも持つ。保守員も、俺たち四人も、籠も置いていかない。その条件で帰る段取りを作る」
リゼは倒れた男を見たまま、短く頷いた。
胸の奥に、説明できない冷たさが走った。
濡れた石。群れの羽音。薬草を抱えた調薬師。
断片だけの既視感が、一つの言葉になった。
――この採取地では、薬師が死んだはずだ。
誰が、いつ、なぜ。何一つ続きは思い出せない。それでも、リゼが倒れた男へ向かう背中だけが、妙にはっきりと重なって見えた。
理由のない像に、今いる四人の役目を崩させるつもりはない。
「合図は二回だ。一回目で出る。二回目で合流点へ走る」
俺は全員の顔を見た。
「帰るぞ。全員で」
盾を一度、指の背で叩いた。
一度目。
ガレンが右の通路へ飛び出し、大盾を石床へ打ち付けた。鋭い音に群れの半分が向きを変え、盾へ殺到する。
フィナは採取籠二つを肩に掛けたまま大盾の陰を進み、二本の通路をつなぐ崩れ口へ手をかけた。
同時に俺は左へ走った。俺を追う羽音が背中へ近づくが、振り返らない。リゼの足音が離れていないことだけを確かめ、倒れた保守員の前へ滑り込んだ。
「救助に来た。喋れるか」
「み、水路が……詰まって、見に……」
「説明は後だ。リゼ」
リゼは膝をつき、首筋の傷と瞳を確かめた。男の道具帯に一匹の盗賊蜂が潜り込んでいるのを見つけ、布をかぶせて払い落とす。
その陰から、もう一匹が飛び出した。
「リゼ!」
俺が腕を伸ばすより早く、リゼは保守員の顔をかばった。毒針が彼女の左前腕を浅く刺し、すぐに抜けた。
リゼは息を詰めたが、倒れた男から手を離さなかった。
「浅いです。針は残っていません」
傷の周りは、もう薄く赤くなり始めている。
リゼは左手の指を一本ずつ曲げ、呼吸を整えた。それから保守員の首筋へ視線を戻し、腫れの端を布越しに確かめる。
「私の方は、熱が傷の周りだけです。痺れもありません。この人は腫れが首から肩へ広がっています。毒の進み方が違います」
自分も刺された直後なのに、比べるべき症状を見失っていない。なら、その判断を帰る段取りへ組み込める。
「浅くても毒は毒だ。お前も観察対象に入る」
「はい。でも、この人は歩かせられます。意識はあります。首の腫れが広がる前に、工房へ運ばないと」
リゼは保守員の傷へ清潔な布を当てた。絞り出そうとはせず、刺された時刻を本人へ確かめ、採取札の余白へ書き込む。
「解毒に使う下級薬草は、切ってからの鮮度が必要です。籠を失えば、この人に使える薬も遅れます」
採取物を守ることは、依頼の成果を惜しむことではない。目の前の負傷者を工房へ連れ帰った後、その命をつなぐ手段を守ることだった。
「なら、なおさら全部持ち帰る」
俺は保守員の右腕を肩へ回した。左側へリゼが入ろうとするのを止め、俺一人で体重を受ける。
「お前は傷を動かしすぎるな。俺の背後で状態を見ろ」
石壁の向こうで、フィナが封緘を張り終えた。
「崩れ口、絞りました! 長くは持ちません!」
左右へ分かれた盗賊蜂は、二本の間を移ろうとして封緘へ押し合っている。群れが一つへ戻れない今なら、街道まで抜けられる。
俺は盾を一度叩いた。
二度目。
「ガレン、合流!」
ガレンが盾で右の群れを押し返し、一歩ずつ合流点へ下がる。フィナは採取籠二つを肩に掛けたまま、その背後へ入った。
俺は保守員を支えて左から進む。リゼは自分の傷を押さえず、男の呼吸と首の腫れを見ながら付いてきた。
合流点で、ガレンが俺たちの後ろへ回った。
「全員いるか」
「五人。籠二つ」
フィナの返事に、俺も数えた。前を走るフィナ。傷を負ったリゼ。俺が支える保守員。最後尾のガレン。そして、封緘された採取籠が二つ。
「街道まで同じ並びだ。ガレンは退路。フィナは前方と荷。リゼは二人分の毒の進み方を見ろ。俺は保守員を運ぶ」
「二人分……」
リゼは自分の左腕を見てから、俺へ視線を上げた。
「分かりました。異変があれば、すぐ言います」
背後で封緘が裂ける音がした。
ガレンの盾へ、再び毒針が硬い雨のように当たる。だが、分かれた群れが追いつくより先に、俺たちは水路脇の狭い道を抜けた。
途中で保守員の膝がもう一度落ちた時も、列は崩さなかった。俺が腰を落として体重を受け、フィナが先を見たまま歩幅を狭める。ガレンは振り返らず、大盾の位置だけを俺たちに合わせた。
「止まらない。今の速さで行く」
誰か一人の無理で速さを作るのではなく、五人と二つの籠が揃って進める速さを保った。
街道へ出ても、歩みは止めなかった。
盗賊蜂は水路の斜面を離れると追跡を弱め、やがて羽音も遠ざかった。安全を確かめてから、ガレンが保守員を背負い、俺が最後尾へ回る。
リゼの腕の赤みは肘の手前で止まっていたが、指先にはわずかな震えが出ていた。保守員は受け答えこそできるものの、首の腫れが広がり、足を地面へ着けられなくなっている。
「手持ちだけで解毒できますか」
フィナが問うと、リゼは首を横に振った。
「応急の処置までです。毒の量も違いますし、症状が戻るかもしれません。工房で調薬して、二人とも夜通し見ないといけません」
「二人とも、に自分を入れられるなら、まだ判断はできてるな」
ガレンの背からそう言われ、リゼは困ったように眉を下げた。
「私だけなら、浅い傷です。でも、この人と同じ群れの毒を受けています。違いを記録すれば、薬の量を決める助けになります」
痛みまで仕事の材料にしようとする声だった。
「記録はしていい。無理をする判断は、今日は俺が止める」
俺が言うと、リゼは反論しかけて口を閉じた。
「……分かりました。では、工房までの順番も、レクトさんに任せます」
採取地へ入る前、彼女は使える薬草だけを自分で守ろうとしていた。今は自分の傷も、助けた保守員も、俺たちの段取りへ預けている。
それは大げさな約束より、ずっと重い返事に聞こえた。
◇
セレスティアの工房へ着くなり、俺たちは作業台を二つ空けた。
ガレンが保守員を奥の寝台へ運び、フィナが採取籠の封緘を切らずにリゼへ見せる。場所、採取時刻、傷み、毒抜きの要否。二枚の採取札は一つも失われていない。
「これなら使えます」
リゼは震える指で札を確かめた。
「保守員さんの分を先に。私の傷は浅いので、同じ薬を薄く調整します。ただ、今夜は二人とも経過を見てください」
「調薬は一人でやるな。必要な手順を言え。俺たちが動く」
俺は水を運ぶ役、火を保つ役、時刻と症状を書く役を決めた。採取地で作った撤退計画を、今度は夜を越えるための段取りへ組み替える。
リゼはしばらくレクト、ガレン、フィナの三人を見ていたが、やがて作業台へ採取札を置いた。
「では、お願いします。朝まで、力を貸してください」
工房の炉へ火が入る。
救出は、連れ帰っただけでは終わらない。保守員とリゼの毒が抜けたと確かめるまで、今夜の仕事は続く。
採取物:解毒薬用の下級薬草/採取籠2つを工房へ搬送。
負傷:盗賊蜂の毒針傷2名/夜通しの解毒と観察が必要。




