12.お母さんの愛
時計の時間は2時前になっていた。来てからだいたい1時間というところか。お母さんは少し黙った後に言った。
「そろそろ体を返さないとね。悟史くんもありがとう。私の娘を助けてくれて」
俺は心の中でいいえと答えた。だが、友希は少しもどかしそうだった。
「えっ、もう帰るの?」
「当たり前じゃない。悟史くんの自由を奪っているんだから」
「せっかく会えたのに」
「友希は行くべきところがあるでしょう。まだ帰ってくるには早いよ。がんばって自分の力で乗りこえていきなさい。友希はもう大学受かるくらい大人になったんだから」
お母さんはそう力強く言った。本当は寂しいに違いない。ただ、長居してよけいに寂しい思いをさせたくないと思っているようだった。
「でも本当に辛いときは戻ってきなさい。友希は悩んだときに一人で溜め込みがちだからね。友希には帰る場所がある。あたしは友希のお母さんに変わりはないんだから」
「お母さん······ありがとう」
友希がそう言った直後、俺の目から自然と涙が流れた。俺は泣いているつもりはない。友希が涙を流しているのだろう。不思議な感覚だった。
その様子を見たお母さんはそっと友希の涙を拭いた。本当はお母さんも泣きたいのだろう。しかし、ここで泣くと友希に心配をかける。必死で笑顔をつくっているのがよく分かった。お母さんの愛が伝わる。
その姿に俺自身も心をうたれた。
「人の体なんだから勝手に泣かないの」
「ごめんなさい」
「あたしに謝ってどうするのよ」
「うっ······。悟史くんごめんなさい」
友希は謝るが、俺自身は謝られるほどのことではなかった。
「でも私、帰る場所がある。お母さんに変わりないって言われて嬉しかった。安心した······」
突然友希がそう話した。再び目から一粒の涙がこぼれる。友希はその涙を拭いて、精一杯笑った。
「私はお母さんに子どもに生まれて、本当に幸せでした」
お母さんは少し驚いているようだ。
「まさか友希からそんなこと言うなんてね。あたしも友希が娘で本当に幸せだったよ。あたしの自慢の娘だからね」
友希は嬉しそうだ。その様子に俺も感動する。俺のおかんもそう思ってくれているのだろうか?
「じゃあ、そろそろ行くね。ありがとう」
俺の体が勝手に立ち上がった。お母さんも笑って立ち上がる。一歩が重く感じる。普段は普通に歩けている一歩なのに。
さっき入ってきた玄関が再び見えてきた。入るときと大きく違う感覚だ。
『もうここには戻ってこれないのかな······』
友希の心の声が聞こえた。しかし、俺にはどうすることもできない。勝手に強く歯を食いしばってしまう。友希の今の感情が大きく俺の体に表れる。
『何てね。冗談』
心の中の声は続く。俺に話しているのか、自問自答なのか分からない。ただ、寂しくて仕方ないのは分かった。しかし、絶対に未練は残してはいけない。俺は理不尽だと思う。
「またね。お母さん······」
友希は振り返ってそうとだけ言った。必死につくった笑顔。俺は感覚でよく分かった。
「ちょっと待って」
無意識でそうしたのか、お母さんは俺の腕をつかんでいた。その後、走ってさっきいた部屋へと戻る。部屋の中でバタバタと物音が聞こえた。必死に何かを探すような音。
突然、その音が消えたかと思うと、今度は大きな足音がこちらへ戻ってきた。
年のせいか息切れをしている。お母さんは呼吸を整えてから、小さな四角いものを手のひらにのせて見せた。
「友希、これを持っていきなさい」
「何これ?」
「お守りよ。これを持っていると災いから、身を守ってくれるらしいから、持っていくといいよ。少なくともあたしが持っているより役に立つと思うから」
友希はそれを受け取った。四角のお守りの中には、神社でよく目にするようなお札が入っていた。
「何かいろいろありがとう。でも、私はもう大丈夫。悟史くんとお母さんのおかげ。だから、お互い心配はなしね。お母さんは大丈夫?」
「あたしの心配なんていらないよ。気をつけていくんだよ。お守りをなくさないようにね」
「うん」
友希は玄関の外に出た。数時間前に来たばかりの庭が別世界のように見えた。後ろを振り返るとお母さんが笑顔で手を振っている。その笑顔は我が子を送り出す母親そのものだ。
その笑顔を見て友希も精一杯、笑顔をつくった。寂しいという感情が嫌というほど伝わってくるが、今はその感情を表に出すときではない。
「行ってきます」
「行ってらっしゃい。気をつけて」
まるで、夕方には帰ってくるような会話。もう二度と帰ってくることのないとは思えない会話。だが、その方がいいのかもしれない。俺は心の中でそう思った。
お母さんを見たのはそれが最後。友希は振り返らずに歩いた。
『さようなら。元気でね、お母さん······』
行き来た道を再び歩いた。ただし、逆方向に······
バスを待っている際に、すっと友希が俺の体から離れた。久しぶりに自分の体を動かした気がする。
「体を貸してくれてありがとうございます」
友希はそうとだけ言った。その表情はどこか寂しそうな気もする。だが、俺は何と言っていいか分からなかった。ただ、車の通る音だけが聞こえていた。




