78. 落ち武者と迷い女
雌馬の方が相性はいいらしい
薄暗かった本堂から出てくると、外の眩しさが目に痛い。
「あー、空が青いぜちくしょうめ!」
悪態を吐いても仕方ない。
己の撒いた種だ。最終的に俺が折れる形で織田家へ吉乃を迎え入れることになったが、側室という単語にはどうしても抵抗がある。帰蝶が「妻はわたくし一人にして」と縋ってくれたなら、即座に頷いて万難を排す覚悟を決めたというのに。
「生駒の奴、可愛い娘を妾にできるかー! って怒らないかな」
独り言が多いって? ほっとけ。
吉乃のことは、長康が生駒家に送り届けた。
洒落物好きの彼は、良質な品を仕入れてくれる生駒家宗と誼を通じていたらしい。よく出入りするので、吉乃とも顔見知りだったことには驚いた。清州城へ移ることになったら、色々と物入りになる。家宗への説得と、その辺りの交渉も快く受けてくれた。
政秀寺では何も言わなかったくせに、と文句を言う資格は俺にない。
俺が彼女と知り合いだったことも、長康は知らなかったのだ。その辺りは土田氏がちゃんと黙っていてくれたからだと思っている。痛くもない腹を探られるのを嫌がったのかもしれないが。
清州城への道中は、とにかく居心地の悪いものになった。
「五郎右衛門、墓参りはできたのか」
「ええ、おかげさまで」
「それなら譲った甲斐があったな」
「恩着せがましい言い方をしなくても、感謝はしています。坪内殿に引っ張られてこなければ、きっと私は」
ふいに台詞が途切れ、俺は隣を見やった。
意外にも真っすぐな視線とかち合ってしまい、軽く動揺する。親の仇みたいに睨んできたこともあったくせに、今は害意や負の感情が感じられないのだ。まるで見定められている気分になる。
俺は、この眼差しを知っている。
「父は間違っていなかったのだと、証明してください。これからの、貴方の生き方で」
「………………ああ」
「何ですか、今の間は」
ぼけっとした間抜け面が、彼は気に入らなかったらしい。
たちまち険を含んだ顔つきに戻ってしまった。これが俺にとって、久秀のデフォルトだと言ったら怒られるに違いない。政秀にもさんざん怒られたことを思い出せば、ほろ苦い心地になる。
「五郎右衛門」
「はい」
「戻っていいか」
「……そういうのはもう少し早く言ってくださいよ」
「すまん、すまん」
「誠意が感じられない謝罪は結構です!」
「こまけーことは気にすんなよ。老けてハゲるぞ?」
「……っ、余計なお世話ですよ!!」
ちょっとは気にしていたのか。
小坊主の頭とは違う青さのない月代頭を見やり、俺はニヤニヤしていたらしい。馬首を返して、政秀寺へ戻る道すがらはずーっと久秀の説教を聞く羽目になった。
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そんなこんなで清州城へ戻ってきた俺、ノブナガ。
勝手知ったる我が家とばかりに、悠々たる足取りで入っていこうとした愛馬の手綱を引く。
不満げに振り返る彼女にかけてやる言葉はなく、貴様の気持ちなど知ったことかと言わんばかりの冷めた黒目が突き刺さる。鼻を鳴らして歩き出した馬の背に揺られ、いつも通りに城門をくぐった。
「殿。一つ聞いてもいいですか」
「ダメだ」
なんとなく却下したら、ものすごい目で睨まれた。
「言ってみろ、五郎右衛門。くだらないことだったら殴るぞ」
「奥方様にやたらと気を遣うのは、美濃国のことがあるからですか? 痛っ」
「嫁を大事にできない奴ぁ馬に蹴られて不幸になれ」
馬鹿にするなと言いたげに、愛馬が抗議の嘶きをする。
更にどすどすと荒々しく足を鳴らすので、うっかり落馬しそうになった。こんなところで尻を強打する失態を犯そうものなら、死ぬまで忘れられない黒歴史になること請け合いだ。ご立腹の愛馬を必死に宥めすかして、なんとか機嫌を直してもらう。
そうして文句を言ってやろうと振り向いたら、元凶はとっくに消えていた。
「あの野郎」
低く呻いても、怯えているのは厩の番人だけである。
馬たちは慣れたものだとばかりに、飼い葉を食んでいた。俺の馬も腹をすかしているだろうから、先に餌を与えるようにと言い置いて厩を後にする。
城内へ向かう足取りがいつになく重いのは仕方ない。
「三年目の浮気ならぬ、六年目の浮気…………いやいや、浮気じゃないから! 囲い女、っていうのも外聞が悪いな。仕方なく面倒を見てや、るわけでもないか。未亡人になったのは、俺のせいだしな。そ、そうだ! 男として責任を……既成事実あったみたいじゃねえかよ!!」
頭を掻きむしり、うがーっと天へ叫ぶ。
勢いあまって結び目が綻んでしまったらしく、歩き出した途端に後頭部がぽよんぽよんする。当然ながら、この時代にヘアゴムは存在しない。紐でぐるぐる巻きにするのが定番なのだが、俺は自他ともに認める不器用人間である。
その辺の誰かを捕まえて直してもらおう。
痛くなった腕を下ろして、再び歩き始めようとした時だった。
「だから、本当だって言ってるでしょう!? 妾志願でも、側室候補でも何でもいいから、そこを通しなさいよっ。ここにいるのは分かっているんだから!」
「うわあ、関わりたくねえ」
思わず額を押さえた。
キンキン声でわめいている女には、残念ながら見覚えがある。相手をしているだろう兵士の声が聞こえないのは、それだけ冷静であろうと努めているからだ。見上げた根性である。
門兵の給料を上げてやるか。
彼らが不審者を門前払いしてくれるおかげで、俺たちはのんびりと日々を過ごせる。身分ある人間には弱いという欠点もあるが、門兵は平時中こそ危険な任務といえよう。
「給料上げてやるから、頑張って追い払ってくれよ」
南無南無と手を合わせ、踵を返した時だった。
「あー!! あの時の図々しい落ち武者!」
「誰が落ち武者だ!!」
「え? 本当に、お知り合いなのですか。このやかましい女と」
「やかましいは余計よっ。遠路はるばるやってきた人間を門前払いしようとするとか信じられないわ。全く、これだから」
「止めろ」
その先は拙い。
鋭く制した俺の声に、彼女も失言しかけたことに気付いたようだ。たちまち感情を落ち着かせていくのが目に見えて分かる。こんなに短絡的思考の持ち主だとは思わなかったが、長旅の疲れもあるのだろう。好意的に判断すれば、だが。
割れた市女笠の下は、薄汚れた白っぽい羽織だ。
すりきれた裾から見えるのはボロボロの足袋で、血も滲んでいる。履物はどうしたのか、あちこち破れて足袋が役目を果たしていない。どこから見ても、命からがら逃げ延びてきた怪しい女である。
ざっと周囲に目をやったが、同行者が見当たらない。
「お前一人か」
「そんなわけ……! 申し訳ありません、お殿様。あたしをここまで連れてきた人は、合わせる顔がないからと言って別行動をとりました」
「合わせる顔がない? 俺にか」
こっくりと頷く女。
それなりに整った顔立ちをしていたはずだが、あちこち汚れて見る影もない。ここへきて初めて敬語を使われたな、とぼんやり考えているうちに十郎のことが思い当たった。
だが尾張国で、彼の名前を出しても大丈夫とは思えない。
改めて調べてみたところ、俺が流れ着いた中州は長島で合っている。
木曽川をはじめとする三つの川が混じり合い、七つの小島を形成したことから「七ツ島」転じて「長島」と呼ばれるようになった。川が運んでくる肥沃な土のおかげで数万石はあるというが、水害も相当なものだろう。一度の氾濫で、家も田畑もまるごと流されてしまう。
俺の恩人である楠十郎正賢は、北伊勢の国人衆ゆかりの者である。
しかし長島城主は同じく伊勢国人衆の一人、伊藤重晴という男だった。一向宗であることを除けば、国人衆同士の仲が良いとは言えないらしい。
近江国の六角氏の脅威もあり、一向宗の本拠地である本願寺のこともある。
聞けば、かの軍神・上杉謙信の父親も一向宗に殺されたとか。美濃国の北まで門徒がいるって、どんだけ広い範囲に広まっているんだか分からない。生半可な対応をすれば、彼らは一斉に尾張国へ牙を剥くかもしれない。
南無阿弥陀仏を唱え続け、死んだら極楽確定。
九郎は一向宗への帰依を勧めてくれたが、命を保証するものではなかったようだ。恩人から死後の安寧を約束されるとか、笑えない冗談にもほどがある。
「というわけで、帰れ」
「ひど!! 可哀想だとか思わないわけ?!」
「コワモテの兵士にたった一人で立ち向かえる女はか弱くない。その勇気と勢いがあれば、どこへ行っても何とかなるだろ」
楠家に仕えていた女、奈江。
いつ弾けるか分からない爆弾を抱える余裕はない。津島の連中の安全を考えれば、長島に関わりのある人間を無下にするのは拙いかもしれない。だが織田家当主として、伊勢国の火種を持ち込みたくない。
それが顔見知りの女だったとしても。
「最低ね」
「口を慎め、女! この方のことを何も知らないくせにっ」
「お止めなさい。上総介様に忠誠を誓う姿は素晴らしいと思いますけれども、女人を相手に怒鳴るものでありませんよ。それがどんな理由であれ、たいへん見苦しいことです」
「お、御方様!? 申し訳ございませんっ」
おい、お前。俺に対する態度と違くないか。
平身低頭で謝り倒す門兵を、胡乱な目で見てしまう。ふと気が付けば、何故か勝ち誇ったような顔をした奈江がいた。こいつ馬鹿か。知り合って二度目だが、どんどん評価が下がっていく。
いや、そんなことよりも帰蝶だ。
久秀が戻ったことで俺の帰還は知られていただろうから、いつまでも現れない俺を案じてくれたのだと思いたい。奴の口から側室云々の話が出ていたなら、後で絞め上げる。
涼やかな目がこちらを見た。
「やっと側室を迎える気になったと聞きました」
「はあ?! い、いや、待て。なんで、その話をお濃が知っているんだっていうか、誰が言い出したんだそんなことじゃなくて俺は今後も側室を迎える気なんてないし間接的に世話をすることになりそうな奴はいることにはいるんだが別に側室というわけじゃ」
「あなた」
「……分かった。中で話す」
「そちらの方は吉乃、といったかしら。おいでなさいな。今後の話をしなければなりません」
「は、はい」
「おい!」
帰蝶に気圧されたまま頷いて、フラフラとついていこうとする肩を掴む。
「お前は吉乃じゃないだろっ」
「側室にしてくれるのなら、それでもいい。もう帰るところなんて、ないんだもの」
「まさか、十郎に何かあったのか!?」
たまらず名前を出した途端、奈江の顔が歪んだ。
その様子をどう受け取ったのか、帰蝶の腕が彼女を攫っていった。着物が汚れるのもかまわず、俺から守るように近くへ引き寄せる。
「乱暴はよくないわ。どんな事情があれば、あなたを頼ってきたのは本当なのでしょう?」
「方便かもしれないだろ」
十郎のことは気になる。だが、一向宗の扱いはとてもデリケートな問題だ。
いや、待てよ。
猜疑心で曇っていた視界が急に晴れる。
奈江は途中まで誰かと一緒だった。そいつは俺に「合わせる顔がない」と言ったという。つまりは俺の知っている人間であり、何か後ろめたいことを抱えている。側室の件がどう転がってきたのかも分からない以上、ここで問答を繰り返していてもダメだ。
門兵の二人は、居心地が悪そうに聞かぬふりをしている。
うん、どう考えても痴話喧嘩だな!
「お濃の言うとおりにする」
「……よかった」
「二人とも着替えて、準備が整ったら話をすることにしよう。色々とな」
じろりと睨めば、奈江がびくりと震える。
少なくとも長島の屋敷で好意的でなかった人間が、危険を冒して会いに来ること自体が異常なのだといい加減気付いただろうか。勢いで城門まで押し掛けた感じだが、門前払いを受けることまで考えが及ばなかったのは愚かとしか言いようがない。うつけと呼ばれた俺に言われたくないかもしれないが。
先に入っていった女二人を見送り、俺は溜息を吐いた。
主人公の髷がおかしなことになっているのに誰も指摘しないのは、新しい髪形だと思われているため。真似しようとした若者衆は崩れた髪をしこたま怒られて、結局流行らないまま終わった。




